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第1章

「望んだ過去、望まぬ未来」

第壱話

使徒、襲来






 実際あれが夢だったのか現実だったのか。そして今ここにいる事が現実なのかどうかさえ、今の自分にはどうでもいい事だった。
 只、この手に残る聖痕の痣が今もこうしてくっきりと浮かび上がっている事が、最後に見た光景が現実だったのだと教えている様には思う。

 蒸し暑い夏の日差しを感じる。蝉の鳴く声が鼓膜に響き渡る。ふと、閉じていた目を開く。目の前には公衆電話。左手には受話器。拡声器から流れる『非常事態宣言』の避難勧告。再び目蓋を閉じ、受話器を元に戻した。ピーピーと喧しく飛び出してくるカードを、早々に抜き取り少年はゆっくりと振りかえった。

「間違い無い。あの日だ。」

 少年は陰惨な笑みで駅から見渡す街並みを見つめた。
 果たして、その視線の先には彼の少女が陽炎の様に立ち尽していた。そう言えば、以前も彼女の幻を見た記憶がある。が、今思えばそこに立つ少女が何者であるのか、今の彼には何となく理解出来た。

「やぁ、リリス。」

 言った途端少女は掻き消えた。しかし少年は確かに見た。少女が少年の言葉にぴくりと反応し、他人には毛程も分からない驚きの表情を見せた事を。彼はそれが可笑しくて、くくっと笑いを忍ばせた。
 暫し忍び笑いを続けていると、不意に頭上を爆音と風を巻き込んで、ミサイルが山の向こうへ飛んで行く。更にそれを追う様に二機の国連軍戦闘機が飛び去って行くのを、さして気にした様子も無く少年は飛び去った方向へ振り返った。

「…第三使徒。」

 振り返った先には嘗て少年が見た筈の光景が、寸分違わず写し出されていた。




 
 圧倒的な空間に浮かび上がるスクリーンの映像。
 そこに今だ人類が見えた事の無い、異形の物体が映し出されていた。

「…15年振りだね。」

 何者かが呟いた。
 だが私はその声を良く知っている。長年連れ添った自分の右腕。自分の目的の為に引き込んだ側近。
 しかし今はそんな事では無く、もっと重要な事が自分の目の前に広がっていた。信じ難い光景。

「……使徒…」

 思わず呟いていた。少し声が上ずっていた為か。その事に側近は少々訝んだ顔で私に問うて来た。

「…碇?」

「…あ、あぁ。間違い無い…第参使徒だ。」

「…うむ。」

 私は単に驚きの余り再び呟いたに過ぎないのだが、側近---Nerv副司令冬月コウゾウは、それを返事と取ったらしい。
 改めて周囲を見渡した。
 そこは間違い無くNerv第一発令所であり、周りには各オペレーター達。そして戦略自衛隊の御偉方三人が、後方の司令塔で忌々しそうにスクリーンを睨み付けていた。
 その視線の先に目を向ける。そこには先程見た異形の生物---第三使徒『サキエル』が、大写しで戦自のVTOLを撃墜している最中の映像が映っていた。 

 まさか、本当に戻って来たとは。しかし間違い無いのだろう。此れが夢ならば余りにもリアル過ぎるし、あの出来事が夢だとしてもそれが幻だったとは思えない。
 ここは間違い無く、サードインパクトへの始まりの日なのだ。

 そこではたと思い出す。
 自分がここに戻って来た目的。シンジを狂気の底から救い出すと言う事。ユイの願い。しかし未だに信じられない思いで、しかもその目的が自分に達成できるのかどうか?それが多大な不安として纏わり付いた。
 問題はそれだけではないだろう。もしシンジを救う事が出来たとして、世界をSEELの元から奪い返し老人共を葬らねばならない。その前には使徒を全て倒さねばならないのだ。他にも問題は多岐に渡るだろう。
 今まで進めてきた自分のシナリオを全て投げ打って、新たなシナリオを作り上げなければならない。しかも時間は無いのだ。一刻の猶予も有りはしない。

『…出来るのか?…私に…』

 否、やるしかないのだ。それがユイの願いであり、何より自分で決めた贖罪への道だ。

 碇ゲンドウは決意を込めた瞳で、目の前に映る使徒---サキエルを睨み据えた。





 戦闘用VTOLが煙を吹いて墜落してくる。
 少年---碇シンジは何の感慨も無く、自分目掛けて落ちてくるそれを見詰めていた。
 「…このままボサッとしてたら、死ねるかな?」等と思っていたが、目の前に墜落し爆風に飲み込まれる直前に、それは何者かに遮られて、シンジの不埒な望みは脆くも崩れ去った。
 静かに目の前の青い物体に焦点を合わせる。
 そこには懐かしい、もう何年も会っていなかった様な、車がエンジンを吹かせていた。

『…感傷のつもりか?図々しい。』

 シンジが危険な方向に思考を巡らす前に、車---ルノー・アルピーヌのドアが開け放たれ、中からサングラスを掛けた美しい黒髪の美女が現れた。

「ごめん!御待たせっ♪」

『……ミサト、さん……』

 シンジは胸の内に吹き上がる黒々とした感情を押さえ込む為に、暫し硬直していた。
 明るくて、むちゃくちゃで、ガサツで、ずぼらで、御節介で、優しくて、その癖他人に踏み込めなくて、たった一つの復讐を誓い、愛した男を失い、復讐の為に全てを利用する事に苦悩し、心をすり減らして、そして最後まで割り切れずに死んでいった、哀しい人。
 葛城ミサト。
 自分の上司であり、保護者であり、姉であり、母であり、恋人であった女(ヒト)。
 ミサトさん…貴方は、何を……望みますか?

「ちょぉとぉっ!!何やってるのっ!早く乗りなさいっ!!」

 どうやら思考に嵌り過ぎて呼ばれていた事に気付かなかったらしい。
 無理やり運転席から引っ張り込まれて、シンジはミサトの身体の上に乗っかったまま、ルノーの無茶苦茶な急発進のGに堪えていた。





 スクリーンに、第三使徒がミサイルを鷲掴みで破壊する様が映っている。
 後頭部では高官達が何やら騒ぎ立てているが知った事では無い。
 問題は当面の局面をどう乗り切るかであった。
 爆炎の中から今だ無傷のまま浮かび上がってきた使徒を見据える。

 先ずはこいつだ。使徒を倒さない以上、我々に未来は無い。
 恐らく自分と同じように過去へ舞い戻ったシンジが、間も無く葛城三佐---否、今は一尉か。彼女がシンジをここへ連れてくるであろう。
 そこまでは良い。問題はシンジがどうするつもりでいるのかだ。前回は無理やり初号機に乗せた。それはシンジをそう自分が仕向けたからだ。シンジを遠ざけ、不安定な心を持たせ、無理を強いたからだ。
 しかし今度は違う。シンジは恐らく自分の意思でEVAに乗るだろう。況してや未来から舞い戻ったシンジは、高シンクロをマークし使徒に勝利するのも造作無いに違いない。
 それとも… 

「やはりA.T.フィールドか」

「…冬月。」

「?」

「…分かりきった事を聞くな。」

 全く。人の思考を邪魔しないでくれ。今はそんな茶番に付き合う暇は…
 あ、いや。冬月先生、そんな悲しそうな顔でいじけなくても…





「ちょっと、まさか…n2地雷を使うわけぇ!?臥せてっ!!」

 ミサトがシンジに覆い被さった途端に、ルノーに閃光と衝撃波が襲う。
 遅れてやって来た爆風にルノーは二、三転して横向きのまま微風に揺れていた。
 横転と飛び交う破片がミサトの愛車を傷物にし、見るも無残な姿になっていた。

 収まったのを確認したミサトとシンジは車を本来の状態に戻す為、今は横を向いている屋根に背を向け、

「行くわよ?せ~の!」

 ルノーは無事本来の走行姿勢を取り戻した。尤も傷跡までは元には戻らないが。
 ミサトは改めて少年に向き直った。

「ふ~っ。助かったわ。ありがと。」

 ぼろぼろの愛車は、ミサトの気分をパターン青を前回で弾き出しているのだが、流石に初対面の少年の前でそれを見せるのも憚れたので、何とか気力で満面の笑みを作って見せた。
 これからの少年の境遇を考えると、少なくとも今は明るく接して不信感を取り除くのが得策だ。
 自分の自己満足に過ぎない事は分かっている。この後結局この少年追い込む事になるのだろう。気休め所か、かえって余計な世話かもしれない。しかしそれでも、ミサトには他の接し方を取る事は憚っていた。
 かくして少年は、

「いえ。」

「……」

「……」

 の一言で返されてしまった。
 「な、何なのよぉ!…この無愛想なガキわぁ~っ…」という怒りを吐き出しそうになるのを、こめかみの引く付き一つに何とか押さえて、再度明るい笑顔で片手を差し伸べた。

「あ、改めて、宜しくね♪碇シンジ君。」

「…宜しく。」

「……」

「……」

「わ、私が葛城ミサトよ。ミサトって呼んでくれて良いわよん♪」

「…結構です。葛城さん。」

「……」

「……」

 『…こ、堪えろ~、堪えるのよ、ミサトぉ。きっとこの子は照れてるのよぉ。こぉんな美人を前にしてして上がっちゃってるのよぉ…』と自分の感情に呪文を掛けて、更に一つ増えた引く付きを押さえて、根性で笑顔を咲かせた。

「…んもぉ、シンジ君たら照れちゃってぇ。ミサトで良いわよ、ミサトでぇ…」

「急ぐんじゃないんですか?“葛城さん”。」

「……」

「……」

「……そ、そうね……」

 敢え無く陥落したミサトは、ルノーの破損したバッテリーパックを見て引く付き、近場に転がった車両から大量にバッテリーパックを奪うべく、ルノーから遠ざかって行く行く。当然それが憂さ晴らしなのは今更云うべくも無い。

 横転しているセダンからバッテリーパックを奪っているミサトを遠目で見ながら、シンジは思考に耽っていた。

 分かっている。あれはもう自分の中に棲むミサトではないのだ。
 優しき人であったミサトはあの時死んだ。銃弾に倒れ、それでも自分を奮い立たせようと必死に説き、そして大人のキスを教えてくれた優しき女性。
 彼女が再び戻って来て続きを教えてくれる事は、二度と無い。
 他人と馴れ合う気など起きはしない。それが原因で全ての人を死に追い遣ったこの自分が、今更それを繰り返すのは愚にもつかない。
 シンジが望むのは唯一つ。その為には何だって利用してやる。

「…お前だけは、絶対…」





「…我々の切り札が…」

「何てことだっ。」

「化け物めっ!!」

 戦略自衛隊の高官達が苦渋を舐めていると、スクリーンで爆炎の中から浮かび上がる使徒がその姿を現した。
 第参使徒はその表皮を爆炎で焼かれ、爛れたまま立ち尽くしている。エラの様な部分が頻りに酸素を取り込み、表面が脈動している。人の心理に悪寒を誘うのを意図しているかの様に、使徒は繰り返し見せ付けている。

「予想通り、自己修復中か。」

「そうでなければ、単独種として生き残れまい。」

「単独?使徒はこれで三体目だ。」

「……」

『…碇、何を俺に隠している?』

 問い詰めようと考える冬月は、不意の爆発音で思考を立ち切り、視線をスクリーンに向ける。
 そこには砂嵐しか見られず、だが直ぐに別の回線映像に切り替わる事で事態が飲み込めた。
 使徒を周回していた偵察機が打ち落とされたのだ。

「…おまけに知恵も付いた様だ。」

「…この分では再度進行も時間の問題だな。」

 遮られた思考とゲンドウの言葉によって、返事を返した冬月は、「後で碇を問い詰めねばいかんな」と、一先ずこの場は目の前の事態に対処する事に落ち付いた。





 疾走する半壊ルノー。その中で葛城作戦部長は、携帯片手にアクセルを全開に踏み込んでいた。

「あ、日向君?そ。あたし。例の子保護したわ。うん、うん。分かってる。直通のカートレイン、五番ゲートに用意しといて。うん。それじゃ。」

 ピッ。っと電子音が回線が切れた事を知らせる。ミサとは正面を見据え真顔で運転しながらも、意識は思考の中にあった。反射神経だけで運転するという、正気の沙汰とは思えないミサトの特異技である。

 は~っもう最悪ぅ~先週レストアしたばぁっかなのに~べぇっこべこじゃなぁ~ぃまだローンが33回もあんのにぃ~っおまけに卸したての服までどっろどろ~高かったのよっこの服~おまけにおまけにサングラスはぐっしゃぐしゃ~ぁお気に入りなのに~っは~っおまけにおまけにおまけに何なのこの子はぁ口数少ない愛想も無いしそれにそれに何よ何よちょぉ~~~~~~~~~っっっ暗いじゃなぁい写真じゃ結構可愛いから張り切って来ってのに何ぃ?あの態度っむっかっつっくぅ~~~~~~~~~っっっ!!大体何よバッテリー探すの手伝ってくれたって良いじゃなぁいっ!!ぼさ~~~~~~~~~っと見てるだけでさぁっ!走り出したら走り出したでぼさ~~~~~~~~~っとそっぽ向いて一言も喋らないなんてもうちょっと気を利かしなさいよこのガキッ!!普通はさぁ御姉さん綺麗ですね今度僕とお茶して下さい位言ってみなさいってのよっあ~~~~~~~~~っムカツク~~~~~~~~~ッッッ!!!!!!!!!

 一通り心の内だけで鬱憤を晴らしたミサトはそうっとシンジを方を覗った。
 シンジは相変わらず外の風景を眺め続けている。ミサトはバレ無い様に深呼吸してから、シンジに声を掛けた。

「シンジ君?」

「…はい。」

 降り返ったシンジの表情は動かない。全くの無表情。
 「まるでレイね」と思ったが、今はそれはどうでもいい。

「お父さんからIDカード貰ってない?」

「……どうぞ。」

 無言で鞄を漁りカードと恐らく父親からの手紙だろう、『来い ゲンドウ』と一言書かれており一度引き裂かれた後テープで繋ぎ合わせてある。それをシンジから受け取る。
 手紙を見て唖然とする。成る程。少年がここまで自分を嫌悪するのは、こんな理不尽な父と同類だと思われている為かもしれない。
 その意味では少年の無言の反抗とも取れる。
 取りあえずミサトは手紙を受け取り、この少年には極力優しく説得した方が良いかもしれないと思い直し、返す刀分厚い冊子を取り出し、シンジに渡す。

「じゃぁ、これ。目を通しといてくれるかな?」

「……特務機関Nerv…」

「そう。国連直属の非公開組織…私もそこの職員でね。まぁ、一応国際公務員って事になるのかな。」

「…世界を守る立派な仕事、ですか。」

「…あ、いやぁ、そのぉ…」

 視線を落とし、ページを捲るシンジ。その表情は依然変わらない。

「別に葛城さんの事をどうこう言うつもりはありません。ただ、父がどんなに偉くて慕われていても、僕には何の感銘も受けない。それだけです。」

「……」

 それっきり二人の間には会話は無く、既に車はゲートが見える場所を疾走していた。

『…何か、扱い難い子だなぁ。』





 司令塔に居座る高官達の手元にある直通回線電話が悲鳴を上げた。

『やれやれ。やっと重い腰を上げたか』

 副司令こと冬月コウゾウは、後方で汗を拭いつつ指揮権移行指示を聞いているであろう高官を、気配だけで感じ取っていた。全ては始めから分かっている事だ。余計な手間を掛けさせる。
 やがて電話が切られる音がし、電話を受けた高官が声を上げた。

「碇君。」

 高みから上がる声に、ゲンドウが腰を上げ降り返った。その顔には何の感慨も無い。

「今から本作戦の指揮権は君に移った。」

「御手並みを拝見させてもらおう。」

「…了解です。」

 ゲンドウはあくまで静かに返礼する。だが逆にそれが彼等の癪に障った様だった。

「碇君。我々国連軍の所有兵器が、目標に対し向こうであった事は素直に認めよう。」

「だが、君なら勝てるのかね?」

 「下らん茶番だな。焦らした所で権威が戻って来る訳でもあるまい。」と内心苦笑を隠し得ない冬月。
 そして、ゲンドウはそんな事を端にも掛けず淡々と、眼鏡を押し上げて答えた。

「…御心配無く。その為のNervです。」

「…期待しているよ。」

 捨て台詞を残し去った高官達には目もくれず、冬月はゲンドウを見やった。

「国連軍もお手上げか。どうする?」

「初号機を起動させる。」

「初号機をか?パイロットがいないぞ。」

「問題無い…もう直ぐシンジが届く。」

 ぴくりと片眉が無意識に動いた。ゲンドウは今だ背を向けたままだ。
 『碇が息子を名前で呼ぶとはな…』と思いはしたが別段気にはしなかった。所詮碇も人の子かと思ったまでだ。
 だが。
 何かが腑に落ちなくもある。

『…碇め、何を考えておる。』





 別段、読みたい訳でもないし、読む必要も余り無い。全部知っているのだから。
 だから読んではいない。只読んでいる様に見せる為に振りをしているだけ。
 ここまで、事の流れは大差無い。この後、当面の問題は第三使徒、そしてEVAに乗れるかと言う事だった。

 昔、セカンドインパクト前のSFモノで何とか言う映画を見た事がある。主人公がタイムスリップして過去の両親の馴初めに関わり、戻って来ると現在が変わっていたという、何とも稚拙なSFコメディだ。
 まさか自分がその主人公と同じ境遇になるとは思いもしなかったが、他の映画でも同じ様に扱われている、一つの気になる知識があった。
 『タイム・パラドックス』だ。
 つまり、本来はそこには居る筈の無い人や物が関わる事によって、未来もしくは過去・現在が多岐に変化し、下手をすれば自分自身の存在さえ消えてしまうという事象。それがシンジの心配の種だった。
 だが、この世界に居る筈の“碇シンジ”はどうやら“自分”らしい事。勿論自分も碇シンジだが、この世界に居る筈の“碇シンジ”と、未来から来た“碇シンジ”では、その存在は別物だ。ところが、あの時、あの場所に居るべき“碇シンジ”は何処にも居らず、自分がその場に居た。
 そこでシンジは少ない知識の中から一つの結論を出した。それは、
 『この時系列の“碇シンジ”と言う存在に“自分”の意識が入り込んだ。もしくは存在ごと入れ替わった。』
 と言うモノだった。
 シンジは恐らく後者だろうと踏んでいる。
 何故ならミサトと会う前に確認した、自分の掌に残る“聖痕”が未来の出来事を真実だと肯定していたからだ。
 そして、もう一つ。今は服の内側に隠しているが、あの時ミサトから託されたクロスが、今も自分の首に掛かっているからだ。
 この時代の“碇シンジ”が何処へ逝ったのかは判らない。しかし自分にはどうでも良い事だ。
 今いるこの世界だけが自分にとっての全てなのだから…
 そしてもう一つのインチキ臭い科学者の称える事象。それが、
 『パラレル・ワールド』だ。
 だがこれは今となっては然したる問題は無かった。
 何故なら“ここまで”が前回と略同じだからだ。確かに細かい会話や出来事は確かに若干の違いはあるようだ。だが、大枠が変わる事は無い。使徒の襲来・迎えに来るミサト・n2に巻き込まれる二人。そして今あのNervのあるジオ・フロントに向かい、そして暫くすれば忌まわしき人造人間、福音の名を持つ『エヴァンゲリオン』に見えるであろう事。略概ねに変化は無い。
 だが、ミサトとの会話が微妙に違って来てるのは判っていた。前回の記憶をくまなく憶えている訳では無いが、少なくとも変化しているのは判るし、自分も対応を変えているのだから多少の変化には危惧していない。
 問題はこれから先、どの程度まで変化して行くのか。そしてその時自分はどう対応するのか等、色々と考えてはいたが…結局は最終目的が“変える事”なのだから、それを悔いても詮無いだけだと諦めた。
 重要なのは、これからの事の流れの主導権を、自分が握らねばならないと言う事だ。
 そしてその為に真っ先に必要になるのが、共に戦った戦友であり、世界最強の鬼神と成り得る『初号機』である、という事はここに来る前から気付いていた事だ。
 復讐の為には絶大な力が要る。その為には如何しても初号機が必要だと、無意識に求めている自分が居た。
 そこでふと気付いた。
 『自分は悪魔に魂を売り渡そうとしているのかもしれない』
 しかしそれも良いかとシンジは思っている。それが今の“碇シンジ”の姿なのだと自覚しているから。

 不意に、落していた視界が明るくなった。
 カートレインがジオ・フロントの天蓋部を抜けた為だ。窓に目を向けると夕焼けの橙色が、ジオ・フロント内部を染め上げていた。
『あぁ、LCLの…あの海の色だ…』
 それは全人類の悲鳴となってシンジの心を締め上げ、握り潰し、“碇シンジ”と言う存在を弾劾するには、十分な演出と言えた。
『安心してくれて良いさ。この存在は必ず冥腑に叩き落す…それまで暫くの辛抱さ…』 
 それはそう遠くは無い日。この地で確かに起こる事だろうから。
 感傷がシンジを無意識に口を開かせていた。

「…ジオ・フロント…」

「…そう。これが私達の秘密基地Nerv本部。世界再建の要、人類の砦となるところよ。」

 答えるミサトの科白には、何の感慨もシンジには与えなかった。寧ろシンジにはもっと相応しい科白が、自然と胸の内に去来していた。

『ここは、呪われた神々の地…“黒き月”さ。』





NEON GENESIS EVANGELION

Lunatic Emotion

EPISODE:01 Craziness Ⅰ






《技術部E計画の赤木博士、赤木リツコ博士。至急作戦部葛城一尉まで御連絡下さい。》

 巨大な、しかし水とは掛け離れた色彩のプールから、ダイバー姿で上がってきた女性は、館内に響き渡ったアナウンスにその美麗な顔を顰めた。

「…呆れた。また迷ったわね。」

 濡れた金髪を置いてあったタオルで拭きながら、装備を外すと水着の上から白衣を着るという一風変わった出で立ちで、その場から立ち去っていった。





「…葛城さん。」

「ん~。な~に~?シンジく~ん。」

 葛城ミサトの返事が間延びしているのは、疲れている訳でも、ボケたからでもない。
 只意識がこちらを向いていないからだ。

「……葛城さん。迷いましたね。」

 びくっ!!とミサトの身体が硬直し何時まで続くかと思われた行軍は、暫しの休憩となった。
 ミサトの首がぎぎぎっと錆付いた様に振り返る。当然顔には引き攣った笑顔が張り付いていた。

「や、やぁ~ねぇ。そんな事無いわよぉ?」

「…じゃあ、何でさっきから同じ所を何度も通るんです?」

「う、お、おかしいわねぇ~。確かこっちだと思ったんだけどなぁ~…はは、はははははは…」

 一つ溜息を付くシンジとしては、別段一人でケイジへ向かっても一向に構わなかったのだが、ここで下手に行動すれば怪しまれるのは目に見えている。
 まだ始まったばかりだ。今は手札を見せるべきではない。

『この人はどうでもいい所で、忠実に前回のを辿ってるんだよな。』

 それに、シンジには急ぐ必要は特にある訳ではない。時間的に前回とそれ程遅れがある訳では無いし、もう直ぐ迎えがやってくる。そうすれば後は自動的にケイジへ直行だ。
 案の定、

「何処へ行くの?二人とも…」

 振り向くとエレベータのドアが開き、そこから金髪の女性が呆れた視線をミサトに向けていた。

「遅かったわね。葛城一尉。」

「あっ…リ、リツコ…」

 如何にもヤバッっと言う顔がミサトの心情を如実に表している。その割に反省の色が見えないのは彼女のミサトたる所以であろう。
 一方で眉間に皺を寄せたまま近付いて来るリツコは、その性格が勤勉で堅苦しいのは一見して見て取れる。それこそ彼女がリツコたる所以であろうが。
 「それでは眉間に皺が居座ってしまうのでは?」と思いつつも口に出さないのは、どんなにシンジが変わっても、やはり彼がシンジたる所以なのであろう。

「あんまり遅いから迎えに来たわ。人手も時間も無いんだから、ぐずぐずしてる暇無いのよ。」

「ごっめ~ん。路に迷っちゃったのよぉ。まだ不慣れでさぁ。」

 それに然したる返事も返さず、リツコの視線はシンジへと向けられた。

『…来たな。』

「この子ね?例のサードチルドレンって。」

「そう。三人目の適格者。」

『仕組まれた子供か。今度はこっちが仕組んでやるさ…』

「…どうも。碇シンジです。」

 内心とは裏腹にシンジは無表情で淡々と挨拶した。
 車中で考えていた、リツコやゲンドウヘの対応。結局表情を読まれぬ様、無表情・無関心を貫き通すのが、尤も負担が無いと考えた為だ。

「私は技術一課E計画担当博士、赤木リツコ。宜しく。」

「…はい。」

 意外に思った。リツコの表情が笑顔なのだ。
 前回はさして気にもしなかったが、あの時を最後にリツコには会っていない。自分で自分の首を締めた哀れな女性は、そのままシンジに赤木リツコの人格像として残っていたのだ。
 しかし、あの悲壮な様相は微塵も無く、シンジの憎悪を僅かながらに和らげた。
 尤も、もう既に彼女は父ゲンドウと関係しているのだろう。それを思うと虫唾が走るが、今はそれを吐露しても意味は無い。自分の思惑が崩れるだけだ。

「いらっしゃい。お父さんに会わせる前に見せておきたいものがあるの。」

 シンジは『会わせたいヒトがいる』の間違いだろ。と内心呟き、無言で頷いた。
 前方でミサトが「これが暗い奴でさぁ~、もう、父親そっくり。」なんて言っているのだが、流石にシンジには聞こえていなかった。




 帳の落ちた第三新東京市。
 そこには行軍を続ける第三使徒サキエルの姿が、スクリーンに映し出されている。
 高官達が立ち去った後、ゲンドウと冬月は司令塔へと席を移し、第一発令所を見渡しつつ、続々と寄せられる報告を受けていた。

《使徒前進を開始!強羅最終防衛線を突破します!!》

《進行ベクトル5度修正!尚も進行中!》

《最終予測目的地、我第三新東京市!!》

 ゲンドウは席から立ち上がり、予定通りの指示を出した。

「総員第一種戦闘配置。対地迎撃戦、初号機起動用意。」

《総員第一種戦闘配置!対地迎撃戦、初号機起動用意!!》

 ゲンドウの支持を受けたオペレータが復唱し、発令所全体が俄に活気付く。
 それを見届けるとゲンドウは振り返り、静かに口を開いた。

「…冬月。後を頼む。」

「あぁ。」

 それだけを言い残しゲンドウは発令所から姿を消した。
 先程息子の名を呟いたゲンドウの姿を思い出し、一体如何に息子を説き伏せるのか気になった。

『三年振りの息子との対面か…』





《総員第一種戦闘配置!繰り返す!総員第一種戦闘配置!対地迎撃戦初号機起動用意!》

 ケイジにに向かう巨大プールをボートが走り始めた直後、響き渡った警報とアナウンスにミサトが驚きの表情を浮かべた。

「ちょっとっ!どういうことっ!?」

「初号機はB型装備のまま現在冷却中。何時でも再起動できるわ。」

「そうじゃなくて、レイは動けないじゃない!パイロットはどうすんのよっ!!」

「……」

 それっきりリツコはボートの操縦をする為か、知ってて誤魔化す為か。黙り込みを決め込んだ様だ。
 勿論ミサトは後者と取り、リツコが口を開く事は無いと知っている為、それ以上の追求を諦めた。
 変わりにここには居ない髭親父に向かって愚痴をこぼすミサトだった。

「全く、何考えてるのかしら、司令は…」

 『ここに予備がいるからだろ』というシンジの愚痴が聞こえる筈も無く。

「それで、n2地雷は使徒には効かなかったの?」

「ええ。表層部にダメージを与えただけ……依然進行中よ。やはりA.T.フィールドを持ってるみたいね。」

 リツコは依然運転をしながら話しを進める。
 シンジは只黙って冊子に目を落していた。

「おまけに学習能力もちゃんとあって、外部からの遠隔操作(リモートコントロール)では無く、プログラムによって動作する一種の知的巨大生命体とMAGIは分析しているわ。」

「それって…」

 一瞬顔が強張った。リツコが何の感情も込めず答えを出した。

「そう、エヴァと一緒…」





 暗いケイジの中を、只黙ってシンジ達が来るであろう反対側のゲートで立ち尽くしていた。

 色々と考えた。如何にシンジを説き伏せるか。如何にシンジの狂気を取り除くべきか。
 発令所を出て、気付くと自分は初号機ケイジのコントロールで見下ろしていた。
 そして不意に重要な事に気付いた。
『…俺はまた逃げようとしているのか?ここからシンジを見下ろす事で突き放し、距離を置こうとしている…』
 愕然とした。
 自分はもう変わっていた気でいたのだ。シンジを救う為という目的をユイから与えられただけであって、決して自分から行動を起こそうとしたのでは無く、ユイに促されそれに賛同しただけ。
 結局自分は流されている。
 人間はそう簡単に変われる物ではない。その事にようやく気付いた。
 ならばその事を忘れずに、常に自分に言い聞かせて、自分から変わろうとしなければ駄目だ。
『どうこう考えても仕方が無い…それでは自分の中で完結して自己満足に浸るだけだ。ならば…』

 そして今ゲンドウはコントロールルームを降り、ここでシンジ達を待っていた。
『出来る事は唯一つ。シンジと理解し合えるまで話すしかない。』
 それがゲンドウに今出来る精一杯の事だった。

「…ユイ、力を貸してくれ…」

 夜目に慣れたゲンドウの目は、ゲートが開き薄闇の中リツコ達が入って来たのが見えていた。

『リツコ君…君には、謝らなければいけないな…』

『葛城三佐、一尉か…君にも迷惑を掛けてしまった…』

『そして、シンジ…』





『…99.89%…か。どれほどの違いがあるってのさ?カヲル君や綾波は“使徒”でも心は“ヒト”じゃ無いか…』

 シンジにはそうとしか思えない。それはつい最近の記憶で、まだ新しい。
 何より、ミサトから聞かされた真実が全てを語っていた。

『何も知らなかったからって、言い訳は通用するものじゃないんだ。結局は自分が全てを壊したんだ……殺したんだ…』

 それがシンジが導き出した真実だった。

『許す許さないの問題じゃない。全て僕の罪だ。“碇シンジ”という存在があの悲劇を導いた。それが事実だ。』

 それがシンジが導き出した答えだった。

「着いたわ。ここよ。暗いから気をつけて。」

『だから自分で自分の罪を償う。徹底的に冥腑の底へ叩き落す。もう二度とあの悲劇を引き起こさない為に。』

 それがシンジの導き出した贖罪だった。

『その為にお前の力は必要なんだ。俺に力を貸してくれ。お前が望むなら、全てが終ったその時に、俺の全てをくれてやる。』

 それがシンジが導き出した希望だった。

 一斉に点灯したライトに一瞬目が眩む。しかしシンジが目を閉じる事は無かった。

「人の造り出した究極の汎用決戦兵器。人造人間エヴァンゲリオン。」

 大きく見開いた目に、真白な世界から浮かび上がる紫の鬼神。
 シンジの目にはまるで、幾億年も逢っていなかった恋人の様に映った。

「我々人類最後の切り札。これはその…」


『久し振りだね、初号機。』


 それが“逃げ”であると、誰に言えるだろう…





 更に上を見上げた。

 肉声だった。


 「シンジ。」


 シンジの動きが完全に止まった。筋肉も、呼吸も、思考も、全てが止まった。

 何?
 違う?
 今のは父さんの声だ。
 でも違う。
 もっと威圧的な筈だ。
 こんなに労る様に呼ばれた事は無い。
 だからこれは父さんじゃない。
 大体何故傍から聞こえる?
 あの時はスピーカーを通して聞こえた筈だ。
 肉声?

 シンジが振り向いた。
 ゆっくりと。
 ゆっくりと。

 視界に入ったのは…


 「…父、さん…」


 それは紛れも無く、

 父だった。





 唖然とした表情が、私を見た。
 瞬間、怯んだ。

『これは…本当に“あの”シンジか?』

 それが間違いだったと後悔したのは、まだずっと後の事ではあったが…
 驚くシンジを見てゲンドウは、あの時の脅えた表情を思いだした。そしてここに居るシンジが、未来の記憶など持たない唯の脅えた息子だと思ったのだ。

 事実シンジも怯んでいた。
 予定外だ。
 前回とは全く違う事象が起こってしまった。それはシンジの目的を破綻させ、遂行を危うくする。始める前から事が破綻したのでは、何一つ目的を達する事は出来ない。

 だったら、とシンジは変化を最小限に押さえるべく、考えていた対処法を実行に移した。
 効き目が有るかどうかなど判らない。だが何もしないよりはマシだった。

「これも…父さんの仕事なの?」

 ゲンドウはぴくりと片眉を上げただけに留められた事に安堵した。
 余りにも哀しみに彩られた声だったのだ。それがゲンドウに判断を鈍らせた。
 シンジは恐らく自分が過去へ舞い戻った事を知る筈は無い。とすればシンジは初号機に乗る為に、それまでは同じ行動を取るであろう事は予想していた。
 が、あの時とまったく同じ様に脅えるシンジに、ゲンドウは動揺した。
 これは、“あのシンジ”では無いのではないかと。

 俯いて拳を握り込み、なるべく肩が震えるようにした。
 上手く見えているかどうかは自信が無い。自分は演技など全く下手だ。だが感情をなるべく高ぶらせる事でカバーし、しかし一方で冷静に状況を見据える事で、この予定外を打破するしかなかった。やるしかない。
 だが、ゲンドウは黙り込んだままだった。それがシンジの不安を煽る。
 やばいのか?…シンジはゲンドウを煽った。

「答えてよっ!!」
  
「…そうだ。」

 ゲンドウは重々しく答えた。
 こうなれば様子を見るしかない。シンジが本当に未来から舞い戻ったのかどうか見極めねばならなかった。
 ゲンドウもまたあの時を再び辿ろうとした。
 だがふと過ぎったのは、例えこのシンジが何も知らないとしても、剣呑に扱って良いのかと言う疑問だった。依然と同様に突き放す事は出来ないと誓った。息子として接しなければ、ここに降りてきた意味が無くなってしまう。
 だからゲンドウは父としての言葉を選んだ。

「シンジ。長い間放っておいて済まなかった。お前にはこれに乗って欲しいのだ。全人類を救う為だ。頼む。」

 シンジは唖然とした。
 ミサトとリツコも唖然とした。
 何時の間にかケイジで起動準備の為に、駆け付けていた整備員達も唖然とした。
 あのNevr総司令が息子に頭を下げたのだ。これで平然と出来る者などここには居なかった。

 一気に冷汗が襲ってきた。
 誰だこれは!?本当に父さんか?それともここは、例の『パラレル・ワールド』だったのか?
 シンジの頭は混乱に支配されつつあったが、それを止めたのは緊急事態に怯む事無く行動出来る作戦部長だった。

「ま、待って下さい司令!レイでさえエヴァとシンクロするのに7ヶ月掛かったんですよ?!今日来たばかりのこの子にはとても無理ですっ!」

「座っていればいい。シンジならば出来る。」

 何?
 違う。何だこの感覚?

「しかしっ」

「葛城一尉!今は使徒撃退が最優先事項よっ。」

 リツコも復活したのか、会話に入り込んできた。

「その為には誰であれ、エヴァと僅かでもシンクロ可能な人間を乗せるしかないのよ!」

 違う。
 父さん達は知っていたんだ。
 チルドレンは仕組まれた子供だ。
 僕が乗ればエヴァが起動する事は知っていた。
 ならば…
 いや、でも違う。
 何だ?何が違う?

 シンジは焦ったが、ここで挫ける訳にはいかなかった。幸いミサトとリツコの乱入で思考が回り始めた。
 それに、

『何かがおかしい…』

「それとも他に何か方法が有るとでも言うの?」

「……」

 敢え無くミサトがリツコに説き伏せられた所で、シンジは覚悟を決めた。

「さ…シンジ君。こっちへ来て。」

 俯くシンジに手を掛け、促そうとするリツコを遮って、シンジは声を絞り出した。
 ここまで来たら、続行だ。何かがある筈なんだ…

「…ぼ、僕がこれに乗って…戦う?…冗談だろ?そんな事、出来る訳無いじゃないか!」

「説明を受けてくれ。お前ならば動かせる。いや、お前にしか出来ないのだ。」

「…何故僕なの?全然わかんないよっ!!」

「後で説明する。時間が無いのだ。出撃してくれ。」

「嫌だ!!出来る訳無いよっ、こんなのに乗れるわけ無いだろ!!こんな事の為に僕を呼んだのか?僕に死ねって言うのかよ!!今までほったらかしにしてたくせに、虫が良過ぎるじゃないか!!」

「シンジ、もう直ぐ使徒がやって来る。エヴァ以外で奴に勝てる見込みは無い。お前が出なければ…」

「嫌だ!!なんて言われたって嫌だよ!!」

「……」

 沈黙。
 やばいっ!まずったか?
 思わず感情に任せて口走ってしまっていた。これではゲンドウどころか、リツコ辺りに搭乗を拒否される可能性がある。
 案の定、

「司令。初号機のシステムを、レイに書き換えて再起動します。」

 危惧していた事が起こってしまった。やりすぎた。これではエヴァに乗るどころか、Nervだって追い出されてしまう。
 だが、波紋はやはりこの男が起こした。

「…駄目だ。レイでは起動しても、勝てる見込みは薄い。」

「し、しかし!」

 ゲンドウはレイだけは乗せないと決めていた。
 レイにも辛い目に合わせてしまった。
 シンジとの接触で彼女に心が芽生え始めた事は、ゲンドウも薄々気付いていた。レイにはある意味、娘に近かい感情を持っていた。益々人間味を帯びるレイを見る内に、彼女を手放せなくなりそうで恐かった。
 だからこそレイが自爆した時ほど胸が締め付けられた事は無かった。
 結局は彼女を三つ目の器に移す事で、その思いに区切りを付けたつもりだった。道具として扱った。
 しかし、彼女は心を失わなかった。土壇場で彼女が自分を裏切りシンジの元へ行ったのは、紛れも無く彼女自信の願いだったのだろう。

 不意に振動が襲う。
 断続的な震度と爆発音。

「くっ!…来たか。」

「天井都市が崩れ始めたのっ!?」

 誓ったのだ。
 レイも、惣流の娘も、シンジ同様救ってやろうと。
 子供達を守ってやろうと。

「シンジ。」

「!?」

 シンジはゲンドウに抱き寄せられていた。

 リツコは最早何も言えなくなって固まっていた。
 ミサトは顎を外して涎が垂れている始末。

『馬鹿な!!ここはやはり僕の知る世界じゃないのか!?』

 父の大きな身体はシンジをすっぽりと覆い隠す程だ。
 暖かかった。
 シンジが初めて実感した父の温もりだった。

『こ、こんな…だって…父さんは…父さんは…』

「シンジ、良く聞いてくれ。確かにシンジが乗らなくても、ここには正規のパイロットがいる。だが、その子はお前と同じ歳の女の子で、先日の起動実験のミスで重症を負った。絶対安静が必要なのだ。」

『…何時も横暴で、僕の言う事なんか聞いてくれなくて…何も、何もしてくれなかったじゃないか…』

「しかしエヴァはシンジにも動かせるのだ。お前ならば必ず勝てる。」

『……え?』

 危うく温もりに溺れかけたシンジを、僅かに残った狂気が引き止めた。
 何故?
 何故自分なら勝てると知っている?
 確かに今の僕なら勝てる。
 自信もある。

 だが。
 あの時、自分は碌に操縦出来ず、“負けている”。
 あくまで勝ったのは“暴走した初号機”だ。
 父さんは自分に危機が訪れれば母さんが目覚めるのを知っていたからだ。
 だが、今のは…

『僕が……勝てる、だと?』

「シンジ。お前には女の子を危険に晒す事が、良い事だとは思わん筈だ。せめてその子の為に乗ってはくれんか?」

『!!』

 決定的だった。
 あれは、偶然だ。偶然の産物だ。
 何故、前回僕がエヴァに乗った理由を知っている!?
 何故それをネタに自分をエヴァに乗せ様と説得する!!

『……フッ……クッ、クックククククククククククク……』





 狂気

 涌き出る感情

 埋め尽される嫌悪
 
 吹き荒れる、

 狂気…


 そう…

 そう言う事…

 母さんにでも頼まれた?

 それがあんたの贖罪って訳?

 ……

 やっぱり親子だよ…

 気持ち悪い…

 ……

 気持ち悪いんだよっ

 そう言うの…

 止めてくん無いかなぁ

 偽善者ぶるの

 ……

 ……

 いいぜ?

 ……

 親子纏めて面倒見てやるよ

 ……

 あんたも俺と同じ

 同罪だよ…





「…判ったよ……僕が、乗る。」






 今だにシンジが“あのシンジ”なのかは判断が付かない。
 だが今はそれでいい。
 少なくともシンジと和解出来た事が素直に喜べた。
 それが嬉しかった。

『…ユイ、お前のおかげだ…』

 エントリー・プラグの傍でヘッドセットを取り付けるシンジと、操作方法を説明するリツコを見ながら、初号機を感慨げに見上げた。

「碇司令。そろそろ発令所に。」

「うむ……葛城一尉。」

「はい?」

「済まなかった。ありがとう。」

「………………はい?」

「……シンジの事だ。」

「あ、あぁ…い、いえ。私は大した事は…」

「礼ぐらいは言わせてくれ。」

「あ、えと…光栄、です。」

「うむ…急ごう。使徒は待ってはくれん。」

「は、はいっ。」

 滅多に御目に掛かれない光景に、付近で聞き耳を立てていた整備員達は、当然立ち去る彼等を暫し硬直したまま見送り、レクチャを終えたリツコが発令所へ戻る際、当然こっぴどく激を飛ばされていた。





 迫り来る巨大物体に、平然としてしていられる人間などはいない。それが恐怖と言う物だ。
 しかもそれが未知の物体、それも生命体だったなど、正気の沙汰ではいられないだろう。
 実際、今この発令所には未知の者に対する絶対的恐怖に、徐々に空気が汚染されつつあった。

 限界かと冬月が感じた瞬間、この絶望的状況を吹き飛ばす存在が二人同時に戻って来た。
 一気に士気を高めてくれる存在という人間はやはり居るものだ。その声量も彼女の特権と言って良いであろう。

「日向君!!状況報告っ!!」

「葛城一尉!!初号機冷却終了まで後120秒です!」

「青葉君!目標現在位置!」

「はっ!目標は既に市内へ侵入。依然零地点に向け侵攻中っ!!」

「マヤ!起動完了次第直上に出すわよっ。」

「了解。」

 次々に飛び交う指示と動き出す活気は、否応にも士気を高めて行く。
 その様子を眺めながら、後ろから現れたゲンドウに声を掛けた。

「碇、息子との対面は上手く行ったようだな。」

「…はい。」

 素直な返事を返すゲンドウに、やはり普段との違いを見る冬月。それはやはりある意味不審を抱かせた。

『碇…一体何を…』

「冬月先生…後で、お話したい事が。」

『…向こうから来たか…』

「良かろう。」

「有難う御座います。」

 それは完全に昔の教師と生徒の会話だった。冬月はゲンドウの変わり様に些か呆気に取られていた。
 今はもう彼の背しか見えない。一体彼が息子との対面で何が変わったのか。どうも徹底的に確かめる必要がありそうだった。

「碇……隠すなよ。」

「解っています。」

 どうやら完全に昔に戻っている様だな…
 さて、何を考えているのやら。
 苦労が絶えんわい…





 リツコには腑に落ちない事だらけだった。
 全てだ。

 ゲンドウの行動が分からない。
 何故急にあんな態度を取るようになったのか?
 あんな、優しい父を演じる男ではなかった筈だ。

 もう一つ。
 サードだ。
 確かに、ミサトの言う通り、始めは無口な子だと思った。
 事前の調査で彼が内罰的な性格である事は知っていた。
 父に会う緊張からだと思った。
 しかし、よくよく見るとおかしい。
 全くの無表情なのだ。
 レイと同じ様に…
 ところが、ゲンドウに会った途端に感情を吐露し始めた。
 幾ら何でもギャップが大きすぎる。

 レクチャを受ける彼の表情を見た。
 無表情だった。

 どうにも腑に落ちない。

 確かに、元々ゲンドウは子煩悩な父だった、かもしれない。
 確かに、シンジは内罰的過ぎて表情が出難くなっているだけ、かもしれない。
 確かに、元凶たる父に会ってその感情が爆発しただけ、かもしれない。
 確かに、シンジはやむなく搭乗を承諾しただけで直ぐ元に戻っただけ、かもしれない。

 だが、やはり納得は出来ない。
 仮定が三つ以上揃えば否定と同義のようなものだ、とリツコは思っている。

『……何か、ある筈……』





 発令所にリツコの姿が現れるのと、日向の冷却完了の報は同時だった。

「シンジ君の方は?」

「…取りあえず、簡単なレクチャだけ。後はその都度教えるしか無いわ。」

 ミサトは頷き、全員に向け指示を飛ばす。

「起動準備開始!!」

《起動準備開始》

《LCL排水開始》

《ケイジ内全てドッキング位置》

《パイロット、エントリー・プラグ内コクピット位置につきました》

《了解。エントリー・プラグ挿入》

《プラグ固定完了》

「第一次接続開始」

《第一次接続開始します》





 次々と進む起動準備の中、不意にゲンドウは気付いた。

『…そうか、シンジが時系列を飛び越えたのならば…シンクロ率で分かる筈だ。』

 シンクロ率はそう簡単に操れるものではない。あくまで経験と素質が物を言うのだ。
 ならば、未来のシンジのシンクロ率は最後の時点で、最低でも80%前後をマークする筈。
 もし、そうでなければ初起動時と同様41.3%か、その前後で落ちつくだろう。

 ゲンドウはその瞬間を待った。

 時計の針が数刻先に回されている事を知らずに…





《エントリープラグ注水》

 通信と同時に進入してきたLCLに気付くのに数瞬遅れ、シンジは慌てて驚いた。

「な、何ですか!?」

『あぁ、危ない危ない。思わず何時も通りにエントリーしちゃう所だった。』

《心配しないで。肺がLCLで満たされれば、直接酸素を取り込んでくれます》

 LCLが全身を覆うまで息を止め、空気を一気に排出。
 次いでLCLが肺の中を満たしていく。

『一応、言っておくか?』

「気持ち悪いんですけど…」

《我慢しなさい!直ぐ慣れるわ!》

『ちょっと前と違う…でも一年近く乗ってる事になるけど、未だに慣れないな…』

 だが、気分は悪くない。寧ろ心地良い。
 解っている。
 ここは魂の座。

『初号機には乗れた。最後の仕上げと行こうか…』

《主電源接続》

《全回路動力伝達》

《起動スタート》

 目の前を流れ始めるドラッグムービーのような映像群。
 シンジは静かに目を閉じた。

『さぁ、戻って来たよ。初号機、僕がお前を解放する。』

《A10神経接続異常なし》

《初期コンタクト全て問題無し》

《双方向回線開きます!》

『お前が望めば、約束の刻、俺の全てをくれてやるっ。それまでお前は俺の僕だっ。』

《絶対境界線まで残り0.7》

《0.5》

《0.3》

《0.2》

『来いっ!!初号機!!!』

《0.1》

《エヴァンゲリオン初号機!起動!》





 発令所が静寂に包まれた。
 が、途端に怒号と歓声が響き渡る。当然の結果だろう、今の今までNerv本部でEVAが起動した事は無かったのだ。
 結果、皆が喜ぶ気持ちも分からなくは無い。

《シンクロ率!……え、うそ……》

 発令所中に思いっきり間の抜けた声を流してしまう、伊吹マヤ。しかしそれも仕方の無い事だった。
 直ぐ様リツコの叱咤が飛ぶ。

「マヤ、報告!」

《は、はい!し、シンクロ率、98.7%!!》

 リツコは一瞬自分の耳を疑った。幻聴?
 だがそれも背後の物音が掻き消した。
 ゲンドウがモニターに食い入っていたのだ。

「碇?」

『やはりっ、“シンジ”か!!』

 更なる歓声に沸く発令所に、しかし次の瞬間には全てが深紅の悲鳴の中に掻き消えた。

「そ、そんな、信じられません?!依然シンクロ率上昇中!!101…115…131…148…駄目ですっ、止まりません!!」

「クッ!?起動中止!電源カット!」

「駄目ですっ!信号受け付けません!!」

「日向君っ、モニター!!」

「こっちもです!何者かにブロックされてます!!」

「マヤ!?」

「変ですっ、これは…初号機からのシークエンスです!!」

「そんなっ!?ありえないわ!!」

「おいっ、碇…まさか、」

『馬鹿な…暴走、なのか…ユイ…』

《シンクロ率200%突破します!!》





 …暗闇…

 …黒…

 …無…

 …

 …違う…

 …いる…

 出て来いよ

 俺はお前に用があるんだ

 何時までも隠れてないで

 !?

 …あんたは…

 違う

 …お前じゃない…

 あんたに用は無いっ!

 今更何様のつもりだ!!

 あんたが一体何をした!!

 とっとと消えろっ!

 二度と俺に近寄るなっ!!

 ……

 ……

 …お前か?…

 …感じる…

 …力…

 …そう、俺だ…

 …わかるのか?…

 ……

 …あぁ、分かってる…

 …全部君のモンさ…

 …だカら…

 ……

 …君モ…

 ……

 …俺ノものニ…

 ……

 …汝レ…





「クソッ!!どの回線も通じませんっ!」

「MAGIは三者解答不能を示してますっ!!」

「シンクロ率390を突破しまっ……え?…と、止まりましたっ!!」

 鉢の子を突付いた様相を呈していた発令所は、マヤの報告で一瞬の静寂が戻る。
 リツコが慌ててマヤのコンソールに噛り付く。

「どういう事!?」

「解りません、依然原因不め…し、シンクロ率が下降を始めましたっ!!」

「ちょっとリツコっ!どういう事なの!?」

「ちょっと落ち付きなさい!!…一体、何が起こっているの…?」

「260、240、220、200、まだ下がりますっ。」

 司令塔の二人は只黙ってスクリーンを凝視していた。
 だが依然その表情は険しかった。

「碇、これはお前の差し金か?」

「まさか。私には出来ませんよ…恐らくは…」

「ふむ。」

「…しかし、起動はしました。これで…」

「あぁ。勝ったな。」

 勿論ゲンドウもこれで良いとは思ってはいない。
 ユイが言っていた事を思い出す。

『しかし、初号機を直接制御下に置くなど…シンジ…やはりお前は…』

「シンクロ率130、121、112、105、101、100、99.9、止まりましたっ!!シンクロ率99.89%で安定!シンクロ誤差0.1%ですっ!!」

「そんな…理論上有り得ないわ…こんな事って…」

「事実よ、受け止めなさい。回線はっ?」

「繋がりましたっ。メインスクリーンに回します。」

 シンジは…
 先までの喧騒が嘘の様に、目を閉じ静かに佇んでいた。

 ミサトが声を掛けようとした瞬間、

「!!初号機が顎部ジョイントを引き千切ります!!」

 本部全体にまるで地から湧き上がる様な不気味な咆哮が響き渡る。それは直接脳に響き渡ってくる不気味な、正に悪魔の咆哮と呼ぶに相応しいモノだった。





 ゲンドウだけが見ていた。

「……シンジ…お前は…」

 シンジの口が僅かに、嘲笑っていた。






[続劇

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First edition:[1999/10/25] 

Revised edition:[2000/03/29]