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天地を切り裂く咆哮。


一体、どれだけの者が、その真意を知っていたのだろうか…






 シンジは歓喜に打ち震えていた。
 身体中に満ち満ちたこの力はどうだ?今まで感じた事も無い程の一体感。そこにあるのは、欲望と、恍惚と、荒れ狂う狂気…
 有り得る筈の無い事だが、しかしシンジには今自分が、強大な一個の獣として生まれ変わった様にしか思えなかった。初号機と直接シンクロする事により得られた物は、圧倒的な力と、計り知れない膨大な情報だった。
 シンジは決して全てを、セカンドインパクトからサードインパクトまでの事の真相を全て知っていた訳ではない。ある程度はサードインパクトの時点で、レイ---リリスによって情報は齎されていたが、しかしそれがどれ程の役に立つ物でもない事は、シンジ自身戻って来た時に自覚していた。それ---リリスから齎された情報は結果であり、起因ではなかった。それ故に、これから世界を変えようとしている自分には、それは既に終わった事だ。欲しいのは全ての根底に根差した狂気の宴の、真相。これから成そうと思っているものにはその全てが必要だった。
 必要と有れば、リツコや加持さえも早々に引き込む腹積もりではいたが、幸いにもそれは初号機によって齎された。
『成る程…そういう事…』
 リリス---否、ココでは敢えてレイと言った方が良いだろう。彼女の人格を元に復元された第二使徒リリス。彼女はその人格があるが故か、又彼女がシンジを思っていた為か、その情報には些か“抜け”があった。状況・結果を理解する事は出来たが、何故そうなったのか?彼女はそれを教えてはくれなかった。
 しかし、初号機---リリスのコピーは違った。人格が存在しないが故の純粋なまでのコピー。初号機から齎されたその記憶は、更にユイを取り込む事によって得られた情報さえも加味して、全てシンジの制御下に入ったのだ。
『…色々整理したい所だけど…時間は無い、か。』
 一気に流れ込んだ記憶に違和感は無かった。膨大な情報が頭の中で渦巻いてはいるが、一摘まみすればそれが何かを瞬時に理解出来ていた。イレギュラーではあったが、今のシンジには有り難い情報と言う名の武器が、また一つ手に入ったのだから。
 そして残念ながら、今のシンジにのんびりと記憶の整理をしている暇は無かった。

『今は、大事な御客さんが来てるしね。』





 発令所は恐怖に凍っていた。
 果たして。眠れる獣を自分達が起こしたのは、間違いだったのではと後悔し始めていた。対照的にメインスクリーンに映し出されているシンジは、静かに、ただ静かに佇んでいる。見た目だけは。
 今だ世界を引き裂かんとする咆哮に満たされる外界と、静謐に彩られる魂の座。
 それも不意に終焉を迎えた。咆哮が止んだ途端、辺りに静けさが舞い戻る。だが未だ鼓膜の奥では、あの咆哮が鳴り響いていた。
 不意に、少しとぼけた感の否めない、幼い声が発令所に響いた。

「…あの、聞こえます?」

 その状況で、俄かに動いたのは他でも無くミサトとリツコだった。

「シンジ君!?何とも無いの?!大丈夫っ?!」

「マヤッ!暴走ではないのね?!」

 その声に漸く我に返ったマヤは、慌ててモニタリングを再開する。そしてNERVが誇る三賢者が弾き出した回答と、シンジの回答は同時だった。

「暴走では有りませんっ!完全に制御下に有ります!」

「はい、問題ありませんよ。葛城さん。」

「…そんな、何だって言うの…」

 シンジはただ静かに、先までの無表情で答えるのみ。リツコにはそれが信じられない。
 ある程度の起動指数は見込めるのは分かっていた。何せそれを仕組んだのは司令を始めとする過去の研究機関の名残と、そして自分だ。しかしこんな事は有り得ない筈なのだ。初の起動でそのシンクロ率が理論限界値---EVA運用に最も適すと思われるシンクロ値---を示す等。本来有り得る筈が無いのは、過去の数多の実験を見ても明らかだ。その証拠に、ターミナルドグマの最深部で、人間の成れの果てが残滓を撒き散らして、今だ打ち捨てられているではないか。
 それに…
 今日初めてEVAに乗るチルドレンが、そう簡単に理論限界値を叩き出す事など出来る筈がないのだ。それはあくまでも理論値でしかないのだから。チルドレンとは本来、獲り込まれた親の人格を通し、EVAを制御する筈。その為に考案されたシンクロシステムだ。この様な数値を叩き出すなど有り得ない。人間の人格がそう易々と、EVAを御せる筈など無いのだから。
 リツコの中で何かが音を立てて崩れて行く。

「さっきも言った筈よ、リツコ。事実は事実として受け止めなさい。今はそれよりも、やるべき事があるわ。」

 リツコの思考を引き止めたのは他でもない、彼女の大学時代からの友人。そして彼女は、先ほどケージで見せた罪悪感の塊とは程遠い、軍人・葛城ミサト作戦部長の顔になっていた。
 それに感化されたのか、自分の役割を振るい起こす。そう。自分はこの戦闘を乗り切らなければいけない。その為に必要なのは、技術部長としての仮面だ。

「…そう、そうね。初号機はこれ以上無い状態で起動。行けるわよ、葛城一尉。」

「…了解。EVA初号機、発進準備!!」

 自分の指示で活動を再開した発令所を眺めながら、ミサトは思う。
 ミサト自身、別に納得している訳ではない。自らの復讐の為とは言え、年端も行かぬ子供を乗せて戦地へ放り出す等、普通の人間ならば倫理観と罪悪感に押し潰されてしまう。
 それを敢えて突き通しているのは、果たして世界を救うと言う責務の為か。それとも自らに課した復讐心の為か。
 ミサトには分からない。何が正しくて、何が間違っているのか?だから今は、必要に迫られた事を消化するしかないのだ。しかも世界の命運を左右するこの戦いを。
 だがやはり、その選択が正しいのか、誤っているのか…
 それを決めるのは、この戦いを無事勝利で終らせた後だと、ミサトは決めた。
『…でも…この気落ちは何?…罪悪感?…それとも…』
 ミサトは全てを振り切る様に振り返る。
 見上げた先に、彼女の上司がいた。

「司令…構いませんね?」

「…無論だ…使徒を殲滅しなければ、我々に未来は無い。」

 重々しく答えるゲンドウの姿は、やはり父親の物に相違無い。
『そうよね。何だかんだ言っても、司令が一番辛いでしょうね。ここにいる誰よりも…』
 だからこそ、ミサトは自分の役目を押し通した。ゲンドウに変わって、敢えて子供を戦地に送り出す役を。

「…発進!!」

 今、鬼神が地に降り立つ…





 シンジは己に掛かる急激なGに耐えながら、何故か沸き立つ喜びを押さえられない。
 それは幾年もの眠りから覚めた獣の喜びか?…己が内に秘めた欲望か?…
 それは分からない。
 だが…

『…出る。』

 瞬間。Gから解放された獣は、その身を現代の街並みを見下ろす様に、聳え立っていた。
 目の前には、第三使徒『サキエル』。

『…やあ。兄弟…』

 それは誰の言葉なのか?ただシンジにはそんな台詞が唐突に浮かんだ。まるで冗談の様に。

《エヴァンゲリオン初号機、リフトオフッ!!》

 ミサトの雄雄しい声が、通信ウインドウから流れると同時に、開放感。拘束具を解除されたようだ。今のシンジにはどうでも良い事だったが。続けてリツコの声がスピーカーから聞こえて来る。

《シンジ君?先ずは歩く事だけを考えて!》

 今のシンジにとっては馬鹿馬鹿しい程間抜けな台詞に聞こえる。正直鬱陶しかったが、今回線を切る訳にも行くまい。戦闘に入れば故障と見せかけて、通信を遮断する事も今のシンジには容易い。何せ初号機からのアクセスするだけで、事は一瞬で済む。痕跡さえ残さずに。どうして出来るか等興味は無い。出来ると“解っている”。それで十分だった。
 だがそれもこんな早い時期からNerv、更にはSEELに覚られる訳には行かない。今は大人しく従い、使徒に一撃でも食らって、適当に回線を遮断すれば良い事だった。

「…歩く…」

 ゆっくりと、一歩を踏み出す。地を踏みしめる感覚が、ダイレクトに足の裏から脳まで伝わる。以前のシンクロでここまで明瞭な感覚は味わった事が無い。正しく自分の身体その物だった。
『…これが、直接シンクロした感覚、か…』
 回線の向こうから歓声が聞こえて来るが、最早シンジには雑音としか判別されない。
 もう一歩、完全にリフトから降り立ったシンジは、ミサトに向けてぽつりと呟いた。

「…葛城さん、行きます。」

《え?ちょ!まちな…》

 既にシンジには聞こえていない。あくまで確認で言ったまでだ。
 そのまま加速を加えて走り込み、一瞬で使徒が目前に迫る。サキエルが僅かに身動ぎしたのをシンジは見逃さなかった。否、見えたと言った方が正しいだろうか。跳躍に転じ大きく飛翔した初号機は、サキエルの背後に着地した。視線を戻すと、サキエルの光の槍がつい先程まで初号機の居た場所に突き刺さっている。それはまるで見当違いの絵面だが、しかし間違いでもなかった。サキエルが初号機の動きに付いて行けていないだけだ。

 一方で、発令所の面々は、ただ唖然としスクリーンに釘付けにされていた。
 余りにも一瞬の事で、対応も碌に出来ないのは致し方ない。何せ初号機の動きは軽く音速に達しようかという早さだったのだ。誰もあの巨体が、あの様に人間的な滑らかさで超人的な動きが出来るとは、思ってなかったのである。
 ただし別な理由で驚いていた者も居る。リツコと冬月だ。EVAであればあの程度の動きは本来、引き出せる物と理論上分かってはいた。が、実際にそれを目の前で易とも簡単に実行されると、さしもの二人も目を点にせざるを得なかった。またリツコにはもう一つの疑問が浮かぶ。何故シンジはあんな動きが出来るのか?意志で動くEVA。簡単にその事をシンジには説明を施した。が、あんな動きがそう簡単に出来る物だろうか?意思といってもその根底に根差すのは、身に付いた動きを再現する想像力が、人間の意識の基本だ。初の搭乗であの様な動きを再現するなど、余程の想像力を持ち得た者か、よっぽどのバカだ。只、今は思考を巡らす時ではない。取り敢えず棚上げしておく。
 また一人、多少の驚きを持ちつつも疑問の念を膨らませている者も居た。ゲンドウだ。
 だが彼の胸に去来した言葉はただ一言。
『…何故だ?…シンジ…』

 使徒の背後を取った初号機。
 驚きはした物の、戦略家の脳は瞬時にその先のシュミュレーションを弾き出していた。ミサトである。

「今よ!!シンジ君!!」

 絶好のチャンスを逃すような真似は出来ない。ここで一気に畳みかければ勝てる。そうミサトは判断していた。が、

《……》

 シンジ---初号機はは無言で立ち尽くしていた。
『…え?』
 それこそ呆気に取られていると、ミサトの思惑は早々に崩れ去った。
 使徒が振りかえり、再び光の槍を初号機に向け攻撃を再開したのである。

「シンジ君っ!!」

 ミサトの心配を余所にあっさりと槍をかわす初号機。続く激しい攻勢も、初号機は難なくかわし続ける。かわす。かわす。かわす。かわす……
 いい加減見飽きた頃に、シンジからの通信は入った。

《…葛城さん、どうやって攻撃します?殴れば良いんですか?》

「…あっ…」

 余りにも間抜けである。時間が無かったとは言え、指揮官として有るまじき失態。況してやシンジは素人なのだ。ミサトは本気で顔から火が出そうだった。
 それも空かさずフォローしてやる、無二の親友リツコ。

「シンジ君!ウェポンラックにプログレッシヴナイフが装備されているわっ。」

《ナイフ…》

 シンジの呟きに答えるかの様に、左肩ウェポンラックが解放され、プログナイフがせり出す。使徒の攻撃を避けながら、素早く装備した初号機を確認して、リツコは続ける。

「残念だけど今使える武器はそれだけよっ。何とか頑張ってみて。使徒の弱点は恐らく胸部の赤い光球だと思われます。そこを重点的に攻撃して頂戴。」

《…分かりました。》

 ミサトは先程から、リツコに頭下げっぱなしである。たまにゴメンッとかメンゴッとか呟いていたのだが、取り敢えずリツコはそれを無視した。

「良いから、早く指揮をしなさい。レクチャしながらなのよ?油断は禁物よ。」

「…う、うん。」

 先程とは逆の立場で、何とか自己崩壊を免れたミサトは、再びスクリーンを注視し手立てを練る。
 シンジがEVAを思った以上に制御出来る事は分かった。大きな成果だ。こちらは何とかなるだろう。問題は使徒だ。光の槍、そして光線兵器。この二つは既に確認されている。光線はある程度の距離がある相手でなければ意味を成さないだろう。今接近戦しか術を持たない初号機にも勝機は見える。幸い光の槍は避けられる。ならば…

「シンジ君?もう一度敵の後ろに回り込める?」

《…やって見ます。》

 冷静に受け答えをするシンジに大人達は安心していた。正直僅か14歳の子供が冷静にEVAを操縦する事等、誰一人出来るとは思っていなかった。しかし現実に見事大人達の期待に答えるこの少年に、何時しか勝利の二文字が脳裏に輝き出していた。
 が、
 この冷静な行動に、逆に違和感を持ったのはやはりリツコだ。どうもこの少年の行動には一貫性が無い。正直、人類初の使徒戦において、ここまで奮戦出来るとは思ってはいなかった。それは自分たちのシナリオとは異なるから。しかし、嬉しい誤算とは言え、シンジの冷静さはやはり何処か違和感があった。怨恨の残る父親に対してはあれ程の感情を吐露しておきながら、一方で恐怖その物と言ってもよい使徒相手には、まるで驚きもせずに冷静に対処する少年。
『…何か、有る筈だわ…』
 そして、その理由を知りながらも、どうにも出来ない歯痒さと、後悔に埋もれ掛けている男が居た。
 男はただ見守る事しか出来ず、そしてシンジの思惑さえ掴めぬ、只の無力な父親と成り果てていた。

 彼の心中の思いを知る者は、まだこの世界には居ない。





 全ては計算通りだ。面白い程思った通り事が運ぶ。
 始めの突撃はNERVの人間達に対する認識を改めさせる為と、この回避行動の言い訳をする為の物だった。始めからある程度の力を示せばこの位は当然、と見せかける事も出来る。今後の為の布石だ。最も今のシンジと初号機には、音速を超える程度の動きならば容易い事だ。だが幸いにも、サキエルは然程敏捷性を持ち合わせたタイプでは無かった。その為今シンジは、ある程度力をセーブしている。強力過ぎる力は、逆に不信感を煽ってしまう。それを押さえる為にもシンジはミサト達の指示を素直に聞き入れていた。
 だが…
『下準備もこれで最後だっ。』
 ミサトの指示通り瞬時にサキエルの背後に回り込む。そして振り上げたプログナイフは、一直線に使徒の背中---コアの裏側目掛け突き刺さった。かに見えた。少なくともミサト達には…

 激しく。何かが衝撃音を発した。

 金属と金属が激しく接触した時の様に、それは火花を散らし、光を発し、時を止めていた。
 否、止まったかに見えたのだ。全てを拒絶し、全てを排除し、全てを隔絶する、その意思…

「ATフィールドッ!?」

 赤く輝く平面領域---ATフィールド。何人も犯す事の出来ない絶対遮蔽領域。
 報告は受けていたものの、実際にその使用を確認出来たのは今回が初めての事。ミサトもリツコもすっかり失念していたのだ。

「…粘るな…」

 冬月は呟きつつ、隣に立ち尽くす男を見やる。
 例え状況が如何なる物となろうと、初号機が勝つ事は分かっていた。それは必然だ。だが…
 冬月は思う。先程からのゲンドウの様子はどうか?すっかり気迫が消え失せたこの男が、冬月にはうろたえている様にしか見えない。特に演技をしている訳でもない。その必要も思い当たらない。ならば何故?…
 否、もう既に冬月は感じ取っていたのかもしれない。長年連れ添った仲だ。扱い難いとは言え、ある程度の事は見て取れる。そして今のゲンドウは、純粋に感情を吐露しており、その訳は…
『…息子、か。』
 スクリーンを見る。そこには、何とかATフィールドを抉じ開けようと対峙する、初号機と第三使徒サキエル。
 既に答えは出ていたのかも知れぬ。ゲンドウが今まで通りに息子を拒絶するのならば、遠ざけ無視するだけだったろう。しかし、今のゲンドウにそれが出来ないのは自明の理。
『…碇…何故息子を恐れる?…』

「どうするの!?ATフィールドがある限り、攻撃を加える事は出来ないわっ!!」

 ミサトに声を荒げるリツコ。
 分かっている。EVAにもATフィールドは展開出来る。理論上は。
 まただ。理論、理論、理論…自分はそれを立証出来る術を持たない。EVAはチルドレンにしか扱えないから。
『これが…人間の限界なの?』

 一方でミサトは一転した戦況を冷静に咀嚼し始めていた。あれがある限りこちらに攻撃の手立ては無い。ならば徹底的に意表を突くのはどうか?
 否。たった今シンジは完全に使徒の動きを振り切り、背後に回って攻撃したでは無いか。
 おそらくATフィールドとは、自動展開型のバリアの様なものだ。意思に反応(使徒に意思があるかどうかは甚だ疑問だが。)するだけではなく、自己危機に陥ると同時に無意識下でさえ展開される遮蔽装置。
『くっ…じゃぁ、私達に成す術は無いって言うの?!』

《くっ…赤木博士っ。これは何ですっ?》

 手を拱いていると、シンジが事の次第を聞いて来た。当然それに答えられるのはリツコだ。出来るだけシンジに理解出来るよう租借して伝える。尤も、シンジは既にATフィールドの何たるかさえ理解しているのだが。

「シンジ君!それは一種のバリアのような物よ!理論上初号機にもATフィールドは張れるわ。けれど今の彼方で無理よ!」

「シンジ君!一旦引きなさい!別の手を考えるわっ。時間を稼いで!」

 その場凌ぎ。分かってはいるが今の二人に…否、大人達に出来る事など一切無かった。
 シンジから了解の意が直ぐ様返って来る。が、

《!?》

 シンジの声無き悲鳴が上がった時には、既に事が起っていた。
 一時撤退を遂行しようとした初号機ではあったが、その隙を付くように振り返った使徒は、振り向き様初号機が握っている獲物---プログナイフを光の槍で弾き飛ばしたのだ。
 そしてその攻撃はプログナイフだけでは無く、

「「シンジ君!!」」

 初号機の右手首ごと吹き飛ばしていたのだ。思わぬ展開に発令所には極大の緊張が支配する。

《左腕消失!!》

《パルス逆流!!》

《シンクログラフ反転!》

「ダメですっ!!パイロットの心拍数が上がっています!このままでは危険ですっ!!」

 日向の報告に顔を青ざめるミサト。このままでは対策を練る所か、大敗を帰す事にも成り得ない。今、EVAを下げる訳には行かないのだ。

「何とかしてよっリツコ!こんなんじゃまともに戦えないじゃないっ!!」

「くっ…シンクロ率の高さが仇になったわ…」

 マヤの席を覗き込み改めて状況を把握するリツコ。

「マヤ!神経回路のフィードバック側レギュレーターのレベルを一桁下げられる?!」

「はい!やってみます!」

 一々待ってはいられない。戦況は一刻を争うのだ。ミサトは何とかシンジを安全圏へ移動させようと試み、マイクに向かって叫んだ。

「シンジ君!?今その痛みを何とか和らげるわっ。取り敢えず一旦引きなさいっ!!体制の立て直しはそれか」

 ミサトの声は途切れた。
 何故なら、その激しい激突音に声は掻き消されてしまったから…
 何故なら、スクリーンにはコクピットのモニターがされていなかったから…
 何故なら、使徒の攻撃に初号機が吹き飛ばされていたから…

 何故なら、初号機が光の槍に頭部を吹き飛ばされていたから…

 それは、死ヲ意味スルカラ…

 その場で声を発する事が出来た者は、たった一人の父親だった。

「シンジッ!!!」





見知らぬ天井

 闇。
 ただ、あるのは闇。その筈であった。
 不意に現れた円卓。続け様現れたのは六つの席と人。薄明かりに照らされるそれは、幾年月の歴史を重ねて来た裏世界の秘事。その存在さえ知る者は僅か。

「使徒再来か。余りに唐突だな。」

「15年前と同じだよ。災いはなんの前触れも無く訪れる物だ。」

「幸いとも言える。我々の先行投資が、無駄にならなかった点においてはな。」

「そいつはまだ分からんよ。役に立たなければ無駄と同じだ」

 突然始まった会話はさも重要な様で、しかしその実、中身の無い会話だ。全ては予定調和と言う名の元に、彼等と自分が仕組んだ巧妙な計画なのだから。
 ゲンドウは以前の様に口元を手で覆い隠し、眼の感情をサングラスの奥に仕舞い込んで、意味の無い男達の声を聞いていた。

「情報操作の方はどうなっている?」

 何時まで続くかと思われた無駄口は、不意にゲンドウに向けられた言葉で、一区切りをついた。
 暫しの間を置いてゲンドウが恭しく答える。

「御安心を。既に対処済みです。」

 特にその返答に関心を示すでも無く、男達の応酬はゲンドウ自身へと向けられた。それさえもまるで無駄口なのだが…

「碇君。NERVとEVA。もう少し上手く使えんのかね。零号機に引き続き君等が初陣で壊した初号機の修理費、及び兵装ビルの補修…国が一つ傾くよ。」

「玩具に金を注ぎ込むのもいいが、肝心な事を忘れてもらっては困る。」

「君の仕事はそれだけではないだろう。」

「左様」

 上座に座る最も年月を重ねた老人が重々しく口を開く。唯一、その老人の面には鈍く光る異形の面帯を掛けている。
 他の男達はただ憮然とした表情でゲンドウを捉え、その場で長の言葉に耳を傾けている。
 老人は続ける。

「人類補完計画。我々にとってこの計画こそが、この絶望的状況下における唯一の希望なのだ。」

 人類補完計画。以前は切実にそれを望み、組織も実の息子さえも利用して手中に収めたかった神の御技。しかし今は、最もおぞましい、忌むべき計画。このような者達をのさばらせておく訳にはいかないのだ。
 それが自分の犠牲にして来た者達へ出来る、唯一の罪滅ぼしなのかも知れぬ。
『…生きていこうとさえ思えば、何処だって天国になるわ。だって、生きているんですもの…』
 そうだったな。ユイ…

「…承知しております。」

「いずれにせよ…」

 自分の心中を知ってか知らずか。老人は続ける。澱み無く、淡々と。それこそ予定調和の名の元に。自分がこれからやろうとしている事さえ知らずに…
『…愚かな老人共。貴様等に未来など渡さん…今度こそ…』

「使徒再来によるスケジュールの遅延は認められない。予算については一考しよう。」

「では、後は委員会の仕事だ。」

「碇君、御苦労だったな。」

 これで終りだと言わんばかりに、一斉に暗闇に消え去る男達。
 残されたのはゲンドウと長。長はこちらから全く覗えぬバイザーをゲンドウを見据え、睨みかける。沈黙。暫しの間の後、老人---キール議長が呟いた。 

「碇、後戻りは出来んぞ。」

 一言だけを残し、キールもその場から掻き消えた。
 ゲンドウは一人思い馳せる。

『…当たり前だ、最早後戻りなど望まぬ…だが…』

 不安が無い訳ではない。それも自分が犯した罪の中で、恐らく最も希望が遠い存在…

『…シンジ…何を考えているのだ…』





《正午のニュースをお伝えします。先ず先日の第三東京市爆発事故に付いてですが、政府の見解では…》

 テレビに映るキャスターの声音は澱み無く、淡々と事実のみを告げる。それに特に感想は無い。
 只今はこの暑さをどうにかして欲しいとミサトは思う。ただでさえ気温の高い屋外で、中天に登るお天道様は、これから更に気温を上げる為にせっせと光り輝いている。
 開け放った胸元に、ファイルを仰いで風を送る。作業員がちらちらと視線を送って、頬を染め通り過ぎて行くのだが、特にミサトは気にもしないし見てもいない。防護服に通気性を求めてもしょうがないわよねぇ、と内心で愚痴ておく。

「発表はシナリオB-22か。またも真実は闇の中ね。」

「広報部は喜んでいたわよ。やっと仕事が出来たって。」

 そう言うリツコも実は喜んでるのかも知れぬ。何せ初の使徒との直接戦闘だ。そこから得られるデータは、技術部。特にリツコにとっては、今後の戦闘での嬉しい基礎データとなるのだから。

「呑気なモンね。こっちはこのクソ熱い中仕事してるってのに。」

 ミサトが愚痴ると同時に予備出し音が鳴る。リツコの携帯だ。一言「そう」と相槌を打つと早々に電話を切り、作業に戻った。

 暫しの間。蝉がこれでもかと鳴き続けている。
 リツコの声が何処か遠い世界の出来事の様に思った。

「…シンジ君。目を覚ましたそうよ。」





 少女は不意に目を覚ました。
 痛々しい包帯に包まれた頭部と右腕。今は見えぬが身体中に負傷を受け、身動ぎさえ億劫な状態。
 しかし彼女は特にどうと言う事も無い顔で、じっとベッドの上で天井を見つめている。

 白い天井。
 白い壁。
 白い床。
 蝉の鳴き声。

 どの位の時間だったのか。少女は再び目蓋を閉じ、安らかに眠りに落ちた。





 移動する巨大なトレーラーは、先の戦闘の調査を終えNERV本部へ向け、街中を擦り抜けて行く。
 その中で、二人は余り触れたくは無いものの、しかしせざるを得ない話題を話していた。

「…それで。シンジ君の具合は?」

「若干の記憶の誤差は認められるものの、然したる外傷も無し。」

「記憶って…まさか、精神汚染?!」

「違うわ。只の一時的な混乱よ。直に思い出すでしょ。」

 思い出す…
 ミサトは余り思い出したいとは思わない。アレは…戦闘と呼べるのだろうか?
 碇シンジ。今になって思い出せば、明らかに怪しい行動を取る少年だ。作戦終了後にリツコが漏らした一言。
『何かあるわ…絶対…』
 改めて思い出す先日の一戦は、とても14歳の少年が出来得る行動ではなかった。報告書にあった『碇シンジ』と言う少年の印象は一言で言えば内罰的な性格だ。
 一瞬考えた、スパイでは?と言う疑惑は、リツコが自ら行なった遺伝子検査で、あっさりと否定された。
 ミサトは今病院で寝ているであろうシンジを、迎えに行かねばならない。
 戸惑っていた。どう対応すべきか?
 シンジに対しての疑惑の念と共に。

 建築の進む兵装ビルを眺めながら、ミサとはぽつりと呟く。何の根拠も無く。

「…EVAとこの街が完成すれば、生き残れるかもしれない…」

「……何故?」

「…さぁ…分からないわ…何となく、かな。」

「…そうね。無事に、生き残れれば良いけど…」

 リツコにしては妙な物言いに、思わず振り返る。リツコがそれに気付いて、ぱちくりと瞬きしてミサトと目が合った。
 きょとんと見詰め合う二人。
『うっ…リツコにしちゃ可愛い反応…』

「な、何よ。」

「いやぁ、リツコにしちゃあ、楽観的かなぁ…と。」

 リツコは溜息一つ付くと、また視線を外へと向けた。

「私だって現実を見たく無くなるわ…アレを見た後じゃね。」

 渋い顔する妙齢の美女二人を乗せたトレーラーは、街の雑踏の中へ消えていく。
 街にはいっそう強さを増した日差しが照りつけている。

 永遠の夏は、まだ終りそうも無い。





 本部に着いた途端、二人は呼出しを食らった。

 葛城ミサトは本気で思った。

『あれ、何時の間に寝てたんだろ、私。近年稀に見る悪夢よね…早く覚めないかなぁ…』

 本気で思ってた。

 赤木リツコは本気で思った。
 
『やだ。働き過ぎかしら?最近碌に休んでなかったものね。幻覚を見るなんて…歳かしら…』

 本気で思ってた。

 目の前で理解し難い状況が起こると、人は現実を見たく無くなるものだ。
 だから、二人の反応は当然といえば当然で、しかし当人にとっては失礼極まりない。もっとも、二人とも硬直していただけで、相手はそれを見る事も無かったから、然して問題も無いのか。
 尤も隣に立つ冬月副司令は二人の姿を見て内心苦笑していた。自分も数分前は同じ状態だった事は、勿論棚上げしている。

『ま、当然の反応だがな。』

 彼女達の目の前では一人の男が、頭を深深と下げ謝罪していた。
 他ならぬ、我等が総司令。碇ゲンドウその人である。

「先ずは君等に謝らねばならない。本当に、済まなかった。」

 執務室に迎え入れた二人を前に真っ先にゲンドウの言った言葉である。それから五分程経ったのか。未だ三人は膠着状態のままである。
 いい加減動かない光景に飽きた冬月が声を掛けなければ、彼等は一時間経っても動かなかったかもしれない。

「三人共、いい加減腰を落ち付けんかね。何時まで経っても話しが進まん。」

 漸く頭を上げたゲンドウと、未だ唖然としている様子の二人を横目で見つつ、冬月は思案する。
 実は冬月もゲンドウの謝罪を受けたものの、その経緯や詳細は全く聞いていなかった。ミサトとリツコの二人にも話しをしなければいけないと、ゲンドウに待たされていたのだ。
 特にそれには異議を唱えなかった。が、冬月は次にゲンドウからどんな話しが出て来るのか、大方予想がついていた。昨日の戦闘。否、息子と再開した瞬間から、何かがゲンドウの中で変わっていた事を確信していた。
 それが何を意味するのか…

『最早、疑う余地も無いか…しかし…』

 横目で見たゲンドウの瞳には、強い意思が込められていた。
 ゲンドウは視線を反らす事無く静かに口を開いた。

「私は今まで、大きな過ちを犯して事に気付けずにいた……計画は、中止する。」

「っ!?司令っ!!」

「…やはりな…」

「……」

 激昂し立ち上がるリツコに対し、溜息一つ付く冬月。一方ミサトは自分の知識外の事が語られていると知り、硬い表情で沈黙を守った。
 依然声を荒げ反論しようかというリツコを、右手で制しゲンドウは続けた。

「葛城君は全く知らない事だろう。この事を知っている者は、Nervでは私と冬月と赤木君の三人だけだ。」

「司令っ!御自分が何を言っているのかお分かりなのですかっ!!」

 紅潮させた顔で依然荒ぶるリツコを、ゲンドウもミサトも取り合う事はせず話しを進める。

「……勿論、御話し頂けるのですね?」

 ミサトは若干眉間に皺寄せ、睨み掛ける様にゲンドウを見据えた。ゲンドウはその勇ましさに苦笑しつつも、静かに答える。

「当然だ。その為に君達を呼んだのだ。赤木君…済まないが暫く黙って聞いてくれないか。言いたい事は判る。だが、今話さねば、私は一生後悔する。頼む。」

 そう言って再び頭を下げるゲンドウに何か言いかけたリツコは、結局何も言えずにただ黙ってソファに座るしかなかった。
 暫し盲目した後、俯き、何処か遠くを見つめる様に再び口を開く。彼の胸に何が去来しているのか、三人には推し量るべくも無く。

「私が何故、こういう判断に到ったのかは、済まないが今は言えん。しかし、真実は全て話そう。赤木君も、冬月も知らぬであろう、全てをだ。」

 沈黙。それを理解するのに再び時間が必要だった。ミサトはともかく、他の二人。否、最もこの三人の中で驚いていたのは、他ならぬ冬月だったのだ。

「…碇、貴様…まだ何か隠しておったのか…」

 僅かに篭る怒気。冬月にしては珍しいその感情の動きに、ミサトもリツコも僅かばかり怯んだ。
 一方で、ゲンドウは全く動じはしない。冬月には全て話していた。しかしそれも“この時点”での話しだ。結局我等の夢見た計画は、只の幻想。確かにユイに再び見える事は出来た。しかし所詮はそれだけだったのだ。何が変わる訳でも無い。何が得られる訳でも無い。それに気付いた今、ゲンドウにとって補完計画は何の意味も持ちはしなかった。
 …そう。あれは、たった一時の幻想に過ぎなかったのだ…

「隠していた訳ではありませんよ、冬月先生。新たな事実が分かった。ただそれだけです。」

「新たな事実、だと?」

「えぇ。」

 コロコロと変わる二人の口調に、女性陣二人は少々呆気に取られていた。何よりゲンドウが副司令相手に「先生」と呼ぶ。それが二人の昔の関係だったのだと言われるのは、確かに意外と言えば意外だった。
 ゲンドウはミサトに向き直り、静かに口を開いた。

「先ずは、葛城君に全てを知ってもらわねばなるまい。そして私は、再び君に謝らなければならん。」

「?…どういう、事ですか…」

 矢庭に謝辞を受けたミサトには、何の事かさっぱり分かりはしない。ただ、楽しい話で無い事だけは確かな様だった。

「…君は絶えられるかね?…真実に…」

 真実。それが何を意味するのか、ゲンドウが何を語ろうとしているのか、凡そ見当は付いた。
 それは自分の忌まわしき過去。
 それは自分から抜け落ちた記憶。
 それは自分の父親を奪ったモノ。
 それは自分に誓った復讐と言う名の怨恨。

 …セカンド…インパクト…

「……お聞かせ、願えますか?…」

 ミサトは腹を括った。
 それは、





「君の住居はこの先の第六ブロックになる。問題は無かろう。」

 目が覚めて、検査を受け、ロビーで暫く待ったが、ミサトとは来なかった。
 変わりに迎えに来た人事部の男は、開口一番ふてぶてしくこう言いのけた。尤もそいつがどんな事を思っていようが関係なかった。この場にミサトが来なかった事に心から喜んだ。そう言えば、ここでレイやゲンドウとも会った憶えがある。それも今回は無い。これが喜ばずに居られるか。
 薄っすらと口元を緩め静かに合意した。

「…はい。」

「うむ。では、案内しよう。」





 ミサトはこれが全ての真相だと言った様相のゲンドウを前に、何よりも意外に冷静な自分がいる事に驚いた。
 南極で発見された第一使徒アダム。その真価を定めんと派遣された葛城調査隊。その裏で手薬煉引いていた委員会。またの名をSEEL。確約されていたアダムの暴走。捲き込まれた父と自分。免れたゲンドウ。全てを隠蔽の後、表向きは国連。裏では委員会の直属機関としての人口進化研究所設立。それがここである事。地下にはアダムではなく、第二使徒リリスがいる事。リリスのコピーがEVAである事。その開発過程で獲り込まれた、ゲンドウの妻ユイ。そのサルベージに失敗。リリスとユイの遺伝子を補助にして、その時生まれたのが綾波レイである事。EVAのシンクロシステムは、人の魂をコアに組み込む(獲り込む)事で、その親近者によって操縦が可能である事。そして、全てはSEELの持つ『裏死海文書』により確約された---否。作られた未来である事。NervはSEELの画策する『人類補完計画』の実行機関であるという事。
 そして約一時間にも及ぶ子細な史実の最後に、ゲンドウは自身の思いで締めくくった。

「結局私は、ただユイを取り戻さんが為にここまで来てしまった。私はただの臆病者だよ。ユイとの幸せを守る為に敢えて二人で立ち向かう事を決意し、葛城教授との協力の元SEELを打ち破るつもりだった。その為に敢えてSEELに組したというのに。葛城博士を失い、ユイまでも失い…私は狂った。どんな事があろうとユイを取り戻すつもりだったのだ。たとえそれが息子を…シンジを生贄に晒す事になろうとも。しかし……昨日、シンジに再会した途端に、私の決心は崩れ去ってしまった。そして今、君達にこうして頭垂れている。だが、それさえも本来は許される事では無いのだ。それだけの事をして来たのだから……葛城君。私が憎いかね?」

「…憎いわ。」

 ミサトの復讐心は生半可な物ではない。自分の過去を思い起こす度に胸下の傷が疼く。話しを聞いている途中で、何度撃鉄を起こし、目の前の男の脳漿を吹き飛ばしてやろうと思った事か。しかしミサとは耐えた。かと言って怒りが収まった訳でもなく。ミサトはゲンドウの問いに即答していた。目一杯の怒りを込めて。

「…ならば殺すかね?君にはその権利はある。」

「っざけんじゃないわよっ!!」

 立ち上がったミサトはゲンドウの襟首を鷲掴み、引き上げた。許せなかった。そんな口を聞く目の前の男が。目の前に居るのは、Nerv総司令では無かった。ただの、臆病な男…

「止めなさいっ!!ミサト!!」

 ミサトを引き離そうとリツコが割り込んだがびくともしない。当たり前だった。伊達にミサトはドイツで四年も戦闘訓練を受けて来た訳ではない。
 ミサトは腕に取り付くリツコを無視し、ゲンドウに突き刺ささん程に睨み据えた。

「あんた…一体何様のつもりよ。あんたは自分がした事の重さを本当に分かってなんかいやしないっ。分かってるんなら…憎ければ殺せですって?…っざけないでよっ!!あんたは分かってないっ!!死んで逃げようなんて、あたし許さないからねっ!!!…何の為に父さんは死んだのよっ…何の為に私は……どうせ…どうせ死ぬなら、やる事やって、それから一人で死になさいっ!!!」

「…ミサト…貴方…」

 静寂が執務室を支配する…否。
 ただ、ミサトの嗚咽が…ミサトは何時の間にか泣いていた。
 父さんは、笑ってた…
 私は…何をやってるんだろう…

 ミサトには分かっていた。ただ吶々と語るゲンドウの目を見る内に、その中に僅かながらに宿る意思を。明確に意識した訳ではない。だが感じた。ゲンドウは何かを為そうとしている。でなければ一々私達まで呼んでこんな話しをする訳がないのだ。分かっていた。
 ただ、
 ただミサトは今まで胸の内に秘めていた、思いと、恐怖と、憎しみを……誰かに聞いて欲しかったのだろう。何よりも失った父に…しかしそれももう叶わない。ただ燻り募って行くそれは、復讐と言う行動に転化され、何時の間にかこんな所に来ていた。
 聞いて欲しかった。分かって欲しかった…それは父に近しい人へと…
 寂しい…寂しいよ…
 父さん…
 
 ゲンドウは、不意に思い出していた。南極を離れる前日。束の間の葛城教授との別れ。そのつもりだった。それが永遠の別れになるとは。何故キールの思惑を見抜けなかったのか。悔やまれた。
 目の前で泣く女は、あの日、南極で別れを告げる教授の傍で、自分が彼女を連れて帰る事を拒んだ。駄々を捏ねる彼女を、私と教授は苦笑しながら了承した。それがまさか、こんな悲劇を生む事になると誰が分かろうか。
 いや、判れた筈なのだ。キールに近かった私ならば… 
 後悔…それが何も生まないのはわかっている。過去ばかり見てもそこから一向に前へは進めなくなる。
 ただ、今は。
 今、目の前で泣き崩れる女が、ゲンドウには只の幼い十四歳の少女にしか見えなかった。

「…判っている…済まなかった…ミサト君…」

 自分に似合わないのはわかっている。だがそうせずには居られなかった。
 ただ、無骨な掌で、そっと頭を撫でた。
 その行為は紛れも無く、父と子のあり方であり…
 ミサトには泣く事しか出来なかった。
 ただ、父さん、父さん、と…

 どれ程だったのか。
 ミサトは真っ赤に張れ上がった目蓋と、真っ赤になった顔を隠す為、俯く姿勢しか取れなかった。まるで借りて来た猫である、とは後の某技術部長の弁である。

「あ、あの…すすすす済みませんでした…司令…」

「…いや。構わん。」

 実はさっきの行為が、結構恥ずかしい事だったと気付き、僅かに照れるゲンドウ。今までの様に言葉少なにそっぽ向いて見せるが、如何せん顔が赤くては説得力もあった物ではない。

『成る程。これが可愛い所かね?ユイ君?』

『クッ…ミサト…予想外の展開だわっ…』

 苦笑する冬月は何処か一息付いてしまい、ホッとしていた。
 一方で凄まじい殺気を放っている者も居るのだが、こちらは触れない方が良いだろう。
 何となく判ってはいたのだが…

『…碇、火遊びは程々にな…』

 浮気の仲介など真っ平お断りであった。





 本部施設の概要説明と案内を受け、ようやく独身者用の寮棟にある自分の部屋に案内された頃には、日が西へ傾き始める頃合であった。
 自分を案内した人事部の人間は、明日から訓練を始める旨を伝え、詳細は明日上司であるミサトから子細を聞くようにと言って去っていった。

 ざっと周りを見渡す。12畳程のワンルーム。収納スペースが完備されているので、意外に広い。一人暮しをするには十分だろう。ふと気付く。カヲルが来た時の個室とは若干広さが違う。どうやら少しばかり優遇されている様だ。
 どうでも良い事だと苦笑する。

 今一度週居を見渡し、四六時中監視されている事に付いてどうすべきかと考えたが、まぁ、致し方あるまい。余計な事は喋らないしかあるまい。どうせもう他人の自分に対する見方は変わっているのだ。多少の奇行をしようと気にはすまい。

 先程帰り際に受け通った自分の荷物---ボストンバックを持ち、備え付けのベッドにどかりと座り込む。
 バックの中を仕分けする。
 SDATプレイヤー。ここに来る急行に乗る前に売店で買った雑誌。その他娯楽品と呼ばれる物全てを右側に。
 二、三日分の衣類。洗面道具。参考書。筆記具。凡そ基本的な生活必需品が左側に寄せ集められる。
 それらは収納棚、机、バスルームへと運び込まれる。
 ダイニングキッチンに常備されていたゴミ袋を一枚取り出し、ベッドの上に放置されていた娯楽品を全て放り込む。
 口を縛り、部屋を出る。左右に続く廊下の一部に正方形の開閉装置が取り付けられている。
 ボタン一つで開いたその暗い穴蔵に、ゴミ袋を無造作に放り込んだ。
 がたんと何処かにぶつかった音の後、ゴミ袋は暗闇の中に消え去った。

 穴の奥から僅かに拭き上がって来る、異臭。
 暗い穴蔵の向こうに潜むのは、本当にゴミだけだろうか?
 腐臭は何処から立ち昇って来るのか?
 それを思うと…

 誰も居ない廊下の真中で、ダストシュートを見つめる少年が、本部施設の監視カメラの一つに収められていた。

 その口元が歪んで見えるのは、果たして画像が乱れたからだろうか…





NEON GENESIS EVANGELION

Lunatic Emotion

EPISODE:02  Craziness Ⅱ

 冬月は秘書に頼み番茶と茶請けを持って来させる。一悶着した執務室が、何故か縁側の日向ぼっこの如く和ませたのは、冬月の人柄故か。四人がずずずと番茶を啜る様は何故か滑稽だった。

 さて、本題はこれからだな。
 殺気立っていたリツコが人心地付いた頃を見計って、冬月は口を開いた。

「分かっているのだろうな碇。」

「…勿論です。」

 先までの和んだ雰囲気は何処へやら。冬月の鋭い眼光がゲンドウの視線を捉えた。
 一方のゲンドウは何事も無く、その視線を受け止める。サングラスの奥の目には、気負いも、焦りも無い。只揺るぎ無い決意が見えるのみ。
 ふぅと息を付く。参ったな。碇がこんな顔をする様になるとは…
 分かってはいるが、諦め切れぬ思いで続ける。

「委員会に背く事になるのだ。それが如何なる事態を招くか分からん訳でもあるまい?」

「それは今までとて同じ事だ。冬月。」

 突然、ここ数年来の呼び方が戻って来る。はっとして視線を戻すと、今度はゲンドウが冬月を睨み据えていた。

「冬月。シナリオを変える。只それだけの事だ。意義と結果は大きく変わってくるがな。」

 そう言ってにやりと笑うゲンドウの気迫は凄まじい物があった。やはりこの男は天性のカリスマ性を持っていると実感させられる。例えその精神に脆弱さを宿すと自らが語ったとて、実際にここまでSEELに対し手札を揃えて来たのは、紛れも無い。碇ゲンドウという男だったのだ。

『成る程。私はこの男のこう言う所に惚れ込んでいた訳か。どうやらあの時の選択は強ち間違っていたとは言いきれ無い様だ。』

 小さく苦笑し、自らの決意も固め直した冬月は、改めてゲンドウを問い正した。

「話してもらおうか。」

「えぇ、冬月先生。これからが言わば本題です。」

 再び戻った呼び方。ゲンドウは緩やかに笑みを浮かべた。

「現状は今までの物とそう変わらないでしょう。暫くは委員会の目を晦まします。」

「うむ。今下手に動いても致し方あるまい。何せあのSEELだ。一筋縄ではいかん。」

「ダミープラグの建造は中止します。弐号機とアダム、ロンヌギスを接収するまでは、穏便に進めるべきです。」

「だな。」

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!!」

 碇と冬月の中だけで進む会話に、呆気に取られていたミサトが矢庭に声を上げた。リツコはその隣で黙って二人の話しを探る様に聞いていたようだが。

「ア、アダムは生きているんですか?」

 ミサトの疑問は最もだった。先に聞いていた話しでは、セントラルドグマにあるのは第二使徒リリスだと聞かされた。その前まではアダムがあると思い込んでいたミサトであったが、しかしもう既に死骸となって転がっている物と思い込んでいたのだ。
 何よりミサトは、あのセカンドインパクトの生き証人である。光りの巨人と世界の終わりとも思える爆発の中で、アダムは生きていたと言うのか?
 ゲンドウの返事は立った一言、

「…そうだ。」

「………」

 呆気に取られるミサトを横目に、リツコが不機嫌そうに口を開いた。まだ根に持っている様である。

「セカンド・インパクトは只の爆発では無いわ。あれは突如覚醒した第一使徒アダムを、幼体にまで還元する為に、ロンギヌスの槍で封印した時の衝撃波よ。」

「幼体?」

「そうだ。そして、それはまだ生きているのだよ。ドイツで。」

「ドイツッ!?」

 これが驚かずにいられるか。ミサトが四年間居たその場所で、父の敵とも言うべきセカンド・インパクトを起した張本人が居たなんて。
 そしてもう一つ疑問が浮かぶ。ミサとの知らぬ一つの単語。

「あの、司令。ロンギヌスというのは…」

「ロンギヌスの槍とは、あらゆる生命の全てを司る…言わば“鍵”だ。」

「鍵?」

「オーバーテクノロジーだよ。」

 冬月だ。その仕組みや、科学的根拠については見当もつかないが、形擬上生物学の第一人者でなければロンギヌスの槍の真価を問う事は出来ないだろうからだ。

「ロンギヌスの槍は…否、使徒も含めてだが、その存在は全て過去存在したであろう高度文明によって創られた、生体兵器と言うのが我々、そしてSEELを含め一致した見解だ。過去、使徒は兵器として利用され、そして彼等はその強大な武器を創造したが故に滅んだのだろう。ロンギヌスはその使徒の制御・停止装置だと思われている。そして、使徒は全部で十八体存在したのだと言われている…それを記したのが、」

「裏死海文書…」

「そう言う事だ。」

 ミサトは再び沈黙する。そんな物が二十世紀末まで残されていた。それ自体脅威なのだが、増してやそれが、何千何億年と言う昔に創り出された超兵器だといわれても、しっくり来ない。しかし、EVAを思い出した時。それは急に現実感を伴い目の前に事実として浮かび上がってミサトの前に現れていた。

「そして、我々がその第十八使徒なのだ。」

 さらっと、しかし実はとんでもない事をゲンドウは漏らした。しかし暫くの間誰も反応した者は居ない。
 真っ先に再起動したのは冬月だった。

「い、碇…今なんと言った?」

「我々人類が、その第十八使徒なのですよ。つい先日知った事です。」

 嘘っぱちである。実際にゲンドウが知ったのは、もう少し未来で---ゲンドウにとっては過去だが。アダムを自らに取り込んだ時に直接得た情報である。実は後日、それをMAGIのプロテクト階層に入力した物を、未来のミサトが得てシンジに語ったと言うのは、この時系列では既に起こらない事だ。ゲンドウがそれを知る事は一生無いだろう。
 話しを戻そう。
 このとんでもない事実に、まともに口を利ける者は今や冬月だけとなっていた。あのリツコでさえ隣に座るミサト同様唖然としている。

「我々人類は使徒によって自滅する直前に創造された、言わば次世代種だったのですよ。それ故に我々は使徒と同じ構成体を持ちつつ、しかし、『生命の実』を持ち得る事は無かった。永遠の命、S2機関を。その代わり創造者は我々に、如何なる状況下でも切り抜けられる、『知恵の実』を授けた。臨機応変に対応出来る、心というモノを。十七体の使徒はファースト・インパクトを呼び起こし、創造者---古代文明諸共滅び去った。そして使徒達はアダムとリリスに還る事により、その生命活動を休止させ永遠の眠りに付いた、かに見えた。」

「……それを、SEELと我々が起してしまったという訳か…皮肉な物だな…」

 最早ミサトもリツコも大口開けて呆けて等居なかった。こんな重大な事実を聞き逃す程、二人はお子様ではない。
 ゲンドウが二人をちらりと見た後再び続けた。

「…それだけでは無い。SEELの目論む人類補完計画は、はっきり言って不可能なのですよ。」

「なんだとっ!どういう事だっ!!」

 思わず声を張り上げる冬月。別にSEELの計画を支援する訳ではないが、それを前提としていた我々の計画でさえ、無駄であったという事に繋がる。
 だが、ゲンドウが言わんとしている事は、冬月の想像とは少しばかり違っていた。

「ユイが残したDataの最終プロテクトが解けたのですよ。」

「な、何?そんな物があったのか?」

 勿論これも嘘八百である。そんな物がある訳も無く。全てはゲンドウが体験して来た知識だ。そしてこれをこの世界でどう使うべきか?
 敵を騙すには先ず味方から、である。

「アダムとEVAを使い人類という生命体を、次なるステージへと人口進化させる計画。しかしそんな事は不可能なのです。元来他の使徒とは異なるスペックで創られているのが、第十八使徒リリン。それまでの十七体の使徒を制御する為に創られた、ロンギヌスの槍で人類の制御など出来る筈も無いではありませんか?イレギュラーなのですよ。我々こそが。」

「…で、では…使徒には最初から触れるべきでは無かったと言う事だったのですか?この戦いは…全くの無意味…」

 リツコが思わずそう呟くのを、ゲンドウは無言で首を振り否定する。

「先にも言った通り人類の基礎は使徒の構成体をベースに創られているのだ。ロンギヌスが全く使え無い訳ではないのだよ。もし儀式が発動すれば…全ては…無に帰す。LCLにな。S2機関を有さぬが故の、皮肉な結末だ…それに何れ使徒は目覚めていたよ。休眠期は五千万年周期だったようです。」

「むぅ…ユイ君は既にそんな所まで見当をつけていたのか…」

「ようですな…」

 碇ゲンドウ。天性の策士である。

「で、どうする?何にせよSEELは計画を遂行するだろう。まともに正面からやり合って勝てる相手ではないぞ。」

「当然です。叩きますよ。時期が来ればね。それまでにシナリオの詳細を練り直します。子細が決まり次第君達をもう一度呼ぼう。もう暫くまってくれ。」

「了解です。」

「…はい。」

 既に心のしこりをある程度解消出来たミサトとは対照的に、リツコは今一つ納得出来ない面持ちで、渋々了解の意を現す。
 話しは終ったと立ち上がろうとする二人だったが、

「葛城一尉。赤木博士。」

「「は、はい?」」

「…二人に、頼みがある。」

「「は、はぁ…なんでしょう?」」

 妙に気の抜けた声でユニゾンしてしまう二人を余所に、ゲンドウは暫し俯いて何か考えるようにした後、口を開いた。
 その声は今までのものとは違い、何処か心許無かった。

「…二人に、シンジとレイの面倒を頼みたい…」

「「……は?…」」

 またも揃ってしまう二人。ふと気付いたミサとはゲンドウに問い質す。

「あ、あのぉ。シンジ君と、一緒に住むのでは?それに、レイの保護者はリツコだと聞いて居ますが…」

「…レイの件に付いては先に話したように、特殊な生まれだ。だが、私はレイにも酷い扱いを続けて来た…彼女に今必要なのは心理面での成長だ。赤木君には悪いと思いながらも、私の片棒を担がせてしまった。レイの面倒を直接見るのは辛かろう…」

「…は、はい…」

 リツコは答え難そうにして同意する。ミサトは取り敢えずそのままの意で取っていた。
 暫し耽った後、ミサトは了承した。

「……分かりました。では、私がレイの保護者になるのですね?」

「…ミサト…」

「やってくれるか?」

「勿論です。まぁ、取っ付き難そうではありますが…」

 苦笑いするミサトに、現し難い視線しか向けられないリツコは、思わず顔を伏せる。ゲンドウはそんなリツコを横目で見ながら、静かに伝えた。

「私達はあれに何も与えては来なかった。計画の中枢に居たからな。だが今となってはそれも無駄な事となった。寧ろ許し難い扱いをし続けて来てしまった。今レイに必要なのは極普通に生きる人間としての尊厳だ…頼まれて、くれるかね?」

「勿論です。それこそ大人の役目です。お任せ下さい。ところで…シンジ君の方は?何でしたら私の方で二人とも見ますが?」

 極軽いノリで言い切るミサトは、単純に不用手当が沢山付いて「えびちゅ」飲み放題とか考えているのだが、実は冬月に看破されていてその思惑は叶わなかったりする。
 それ以前にそれはゲンドウによって拒否された。

「否、それよりは後から来るセカ…惣流君の方を頼みたい。シンジは…私とリツコ君の方で何とかしよう。」

 その言葉に僅かに顔を上げるリツコ。何故自分なのか?ふと思い至る。まさか…
 今度は別の意味で顔を伏せてしまっていた。
 しかしその妄想はどうやら違った様である。沈痛な声がそれを否定していた。

「……あれは…シンジは狂ってしまっている。」

「「え?」」

「…どういう、事だ?碇。何故シンジ君が…」

 ゲンドウは大きく溜息を一つ付き、ソファーにどっかりと背も垂れて天井を見上げた。
 幾何学模様を描く「セフィロトの木」。
 ユダヤ神秘主義者によると、神が宇宙を創造した際、十の基礎となる知力を放出したという。果たしてこれは、我々を創造した者達が持ち得た神の御技の名残なのだろうか?
 そして今…直接シンクロによって、リリスのコピーと一心同体となったシンジは、もしかしたら至高なる存在となり得ているのだろうか?

『それとも…あれは既に、悪魔か?…』

 今一度溜息を付き、座り直す。
 何故か、また口元を覆っていた。

「…詳しくはまだ言えん。私も確証が無いのでな。だが、あれは私の知るシンジではない。」

「まさか…スパイ?」

 それは無いよ、葛城君。心の内だけで呟いておく。
 しかし、ゲンドウ自身まだはっきりと確証を得た訳ではないので、その探りは入れておこうと思案する。
 尤もそんな事は有り得ないだろう。昨日の戦闘を見る限り。

「否。別人…と言う事は無いだろうが…念の為検査は頼む、赤木博士。」

「了解です。」

 命令口調。以前の…内に何かを恐れる時のゲンドウの仕種、口調を見て、再び冬月は思い至る。

『…碇…やはりシンジ君を恐れているのか?…何かあるのか…あの少年に。』

「…では、これで…」

 リツコがミサトを連れて退室しようとしたのだが、

「赤木博士。少し残ってくれ。シンジの件で相談が残ってる。葛城一尉、済まないが今は席を外してくれぬか。何れ…この事は話す。」

 一気に言いきるゲンドウに一瞬不信感が湧いたものの、ミサトはサングラスの奥に今だ決意の灯火が燃えているのを確認して、不信を振り払った。

「了解です。失礼しますっ。」

 軍人としての敬礼。そこには信頼のみが宿る。ミサトにとってNervで始めて信頼出来る上官が出来た瞬間であったのかもしれない。先までの怨嗟は既に消え去っていた。

 ミサトが退室した執務室に残された三人。
 リツコが居た堪れない思いに苛まれていると、まるでそれを察したかの様に冬月が何気ない声を上げた。

「碇。私もまだ決裁が残っているのだ…後話しておくことはあるかね?」

「いえ、一先ずはシナリオが固まるまで現状維持でお願いします。冬月先生。」

「うむ、分かった。では失礼するよ。」

 やれやれ、問題児の生徒を持つと気苦労が耐えんわい。
 内心だけで呟くに止め、邪魔者にさせられた冬月はとっとと執務室を出ていった。

 結局残されたのはゲンドウとリツコの二人だけである。
 静謐。ゲンドウは静かに夕日色に染まっているジオフロントを眺めた。
 沈黙に耐えられなくなっていたリツコだが、何故か声は出ない。
 沈黙はゲンドウから破られた。静かな声だった。

「…座り給え。長くなる。」

「…は、はい。」

 俯くしか出来なかった。もしゲンドウが冷たい言葉で自分を切り離そうとしても、優しい言葉で謝辞をされたとしても、例えそれが自分の望む答えだったとしても。
 リツコには顔を上げる事など出来なかった。

『…何で…こんな…』

 唇を噛み締め困惑するリツコに、ゲンドウは再び静かに口を開いた。

「…先ずは、今までの事を謝らせてくれ…君には、否、君達親子から、私の身勝手で人生を狂わせ、幸せを奪い取った事を。済まない…」

「…そんな…今更…」

 出て来るのは片言の意味を為さない言葉だけ。リツコには判らなかった。嫉妬なのか、恋慕なのか、憎悪なのか。
 心の内に吹き荒れる嵐は、それらの感情を綯い交ぜにし、混乱しか引き起こさない。
 リツコには分からない。この気持ちは、

『…ロジックじゃ、無い…』

「…あぁ、別に、許して貰おう等とおこがましい事は思ってはいない。葛城君と同じでな。贖罪を決めたのだよ。全てに対する…」

「…だからって…過去が戻って来る訳では、ありません…」

「勿論だ。我々は過去には生きられない。生きているは今と…そして未来だ。」

 その言葉に思わず顔を上げてしまっていた。
 ゲンドウが静かにリツコを見つめている。今まで幾度も重ねて来た情事の中でも、一度も見た事が無い程穏やかな顔。
 愛しい人の…

『あ……』

 気付いてしまった…
 誤魔化して生きていたのに。絶対に叶わない事だからと諦めて、只の思い違いだと誤魔化していたのに…
 ゲンドウの穏やかな顔。それを自分に向けてくれる事。
 それを願っていた自分に気付いてしまった。現実となった今…

「…リツコ君、私は未だにユイを諦めきれてはいない。」

 壊れる。
 聞きたくなかった。それだけは。それを聞いたら、私は…私は……

「…ただな、さっきも言った様に私は臆病な男だ。私の心に始めて奥する事無く触れてきたユイに、何処か縋る部分が有ったのも確かだ。私の人生は泥に塗れていたからな。ユイは、あまりにも眩しすぎた。」

 止めて。もうこれ以上聞きたくない…そんな事聞きたくない…
 いっその事、罵ってくれたほうが良かった。「お前なんか要らない」と罵倒された方が良かった…
 そんな優しい顔で、見ないで…言わないで…

「だから君に縋ったのかもしれん。その癖ユイを諦める事など出来ずに居る…どうしようもない男だよ。私は。」

 嫌…否…いや…

「…リツコ君。私はそれでもまだ、君を苦しめ様としている。」

 イヤ…

「私はまだ、決めかねている…ユイが戻るのを信じるか…君との新しい道を取るのか…決め兼ねている…」

 ……え?

「その…君は何故、私のようなどうしようもない男に拘るのだ?それは、私が君に許し難い過ちを犯したという事もあるが…」

 ……え?

「君程の美貌なら、他にも良い男はいくらでも居ただろう?…何故、私なのかね?」

 …こ、この人…
 ちょっと切れかけた。本気で壊れそうだったのに。
 急に可笑しさが込み上げる。馬鹿馬鹿しい。何故こんなにも悩んでいたのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい。ロジックじゃないわ…ホンと。
 少し、困らせたくなった。
 俯く。
 微笑む。
 うん。出来る。
 もう、大丈夫。
 大丈夫よ。
 母さん…

 突然俯き肩を戦慄かせるリツコに思わず焦ってしまった。
 正直、女性の扱いに手馴れているとは思ってもい無い。殺されるのは覚悟していても、泣かれるのは覚悟していなかった。案外御茶目なゲンドウである。
 その辺がユイのストライクゾーンでも合ったらしいのだが。
 曰く、「あら?あの人意外と可愛い所も有るんですよ?」
 不意にリツコが顔を上げた。
 不覚にも。
 ゲンドウはリツコの薄っすらと湛えた涙と、その笑顔に見とれてしまった。
 尤も、その台詞の方にノックアウト気味だったが。

「決まってるじゃ有りませんか…愛してるからです…」

 数分は固まってしまったNerv総司令。
 翌日から、ユイとリツコの板挟みに晒されゲンドウの苦悩の日々が始まるとは、まだこの時には認識出来ていないゲンドウである。
 更にはいつ何時ユイが青筋立てて現れるのでは無いか?と戦々恐々する妄想日課を送る事になるとは夢にも思ってはいなかった。
 シンジは何とか二人で面倒を見る事を、寧ろリツコの方がやる気満万で了承し、最後に爆弾を投げ込んで御機嫌で執務室を後にした。

 「私、ユイさんには負けませんわ。だってこんなにゲンドウさんを愛してるんですもの。サルベージ計画はお任せ下さい。きちんと進めておきます。このまま正妻に収まるなんて後味悪いですし。きちんと決着付けましょう♪」

 因みにゲンドウ。
 夕日に暮れる執務室で、日本の法改正で一夫多妻性を認められないか等と、本気で考えていたりした。





 シャワーから上がったシンジは、全身から湯気を立たせ、全身をタオルで拭う。
 立ち昇る湯気は、今だ内に篭る灼熱を冷ましきれていないかの様であった。

 シンジが少ない荷物を受け取って、部屋を片付けた---と言うよりは、普段生活に必要な物以外を全て処分しただけだが。その中には愛用していたチェロさえも含まれていた。
 そしてその後殺風景な部屋を後にし、シンジはトレーニングルームへと向かう。予め頼んでおいた格闘のトレーナーが予定の時間に現れると、既にシンジは準備運動を済ませ臨戦体制を整えていた。二時間に及ぶ格闘訓練で、寧ろへばっていたのはトレーナーの方だった。勿論シンジとてそれ程得意な方ではない。しかし、彼は何者をも寄せ付けないような目で、息を切らしながら、ジムに向かうと更に筋トレ・水泳をこなし、最後に射撃訓練まで手を出し始めた。
 部屋に戻って来たのは夜十時頃。既にその頃には、シンジの体は急激な運動に耐えられず、身体中悲鳴と言う名の大合唱をしている程だった。

 そして今シャワーを浴び、一息付いた所だったのだ。
 しかし。
 シンジはやはり今だ身体の奥で暴れたがっている野獣を押さえきれてはいなかった。

「…ククククククククッ…」

 忍び笑いが頭から被ったタオルの中から聞こえて来る。
 シンジはぐわしぐわしと塗れた髪から大雑把に水気を取ると、タオルを放り出しベットに大の字になった。
 タオルが洗濯物の籠にふわりと収まる。
 仰向けになったシンジの顔は、能面だった。

「…知らない、天井…か…」

 呟く。只少年が寝転がっているだけ。静かな室内。

 だが、今シンジの中では再び嵐が吹き荒れていた…

 狂気の宴が…





何処かで


何かが弾けた






「っがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 発令所には警報が鳴り響く。
 誰も一言も発することは出来なかった。

 コクピットには悲鳴と狂気が吹き荒れていた。

 シンジ自身。手を抜くつもり等毛頭無かった。只一瞬の隙を付かれただけ。
 それが、初号機の左腕と頭蓋の一部を奪い去っていた。

 そして、

「…っぐっっぁぁあああぁぁぁ………」

 碇シンジと呼ばれる生命体は、彼の駆る獣と全く同じ個所を損傷していた。

 つまり。

「ぁああぁあああああっっっ!!!!」

 血が滝の様に流れ出ている左腕と、

「っっっっっっっっっっがあああああ!!!!」

 血と骨と脳漿が剥き出しになった頭部を。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!」

 普通ならば即死である。
 が、

「っっっっっっっっっっっっっっっざ、っけるなっっ………」

 生きていた。

「っっざけるなよぉおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!!!」

「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる…」

 奇しくも。惣流・アスカ・ラングレーという少女が、瀕死に陥った際の事象と酷似しているのを、少年は知るはずも無い。

「っざけやがってっ、このポンコツッ!?…」

 決して初号機に対してではなかった。
 サキエルの攻撃をかわせなかった、自分自身に対して…
 もしシンジが予定通りに通信回線をカットしていなければ、この叫びは全て筒抜けだった筈だ。
 シンジにとって見れば幸いでは有るのだろう。

「…こういう奴だから世界を破滅に負い込むんだよっっ!!」

 脳漿の三分の位置を失った状態で吼える少年。
 陥没---否、欠損した頭部を更にもぎり獲らんと鷲掴みして正面を見据える少年。
 初号機はそれさえも忠実に再現し、狂気までもその全身から噴出していた。

「イイ気になってんじゃねぇ…お前に世界を救える訳ねぇだろっっ!!!」

 頭部を押さえたまま怒りに任せ振り切った手首の無い左腕。
 しかし、一瞬でそれは復元されていた。
 そして、それを操る少年さえも。





 発令所のモニタにもそれは当然映されている。
 しかし、この場に動ける人間は居ない。
 誰かが僅かにうめく…
 また別の誰かが恐怖に脅える…
 伊吹マヤが耐えきれずに吐き戻す…
 青葉シゲルが唖然とモニタを見ている…
 日向マコトが全身を身震わせ掻き抱く…
 赤木リツコが意味不明の言葉を漏らす…
 葛城ミサトが青い顔でその場にしゃがみ込む…
 冬月コウゾウが思わず顔を背ける…

 碇ゲンドウは…泣いていた…

「…シンジ…何が…何がそんなに憎いのだ…」

 その呟きはあまりにも小さく、本人さえも気付かない程に…





 頭部を鷲掴みにした右手が、引き摺り下ろされる。
 右の手には鷲掴みにされた血まみれの脳漿だった塊。
 しかし、初号機とシンジの頭部は、先程までの在るべき姿を取り戻していた。
 尤も、大量の血に塗れたその姿には代わりは無く。

 それは正しく、

 地獄から這い上がって来た鬼神の様に…

「……お前だけは絶対に……」

 初号機が深く、深く身を屈めた。

「ぶっ殺してやるっっっ!!!!」


 その瞬間、
 初号機は消え去った。

 否。
 対峙した使徒の背後。
 そこに、いた。

 誰も。
 誰にも分からない。
 何が起こったのか。
 やった本人さえ分ってはいない。
 ただ、出来ると知っていた。

 幾許かの間。

 何故か使徒は、

 爆ぜた。

 爆発でも無く。
 四方に飛び散ったのだ。

 直立した初号機の右腕。
 そこに赤色の、球体があった。
 それも暫しの間。
 握り込まれた右の掌の中に消え去った。
 気付いた物はいない。

 余りの事態に、人々の視線は、
 背を向けて立つ鬼神にしか集中していなかったから。





鬼神が吼える。






天地を切り裂く咆哮。






狂気の宴が、今、始まった…


[続劇

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First edition:[2000/04/14]

Revised edition:[2000/04/18]