^


 深闇。

 光が進入する事を拒むこの空間は、ただ漆黒の闇を纏い続けるかに見えた。
 不意に。
 気配が生じる。闇の中ではそれも姿を現さない。
 しかし。
 確かに双眼は細く開かれ、闇の奥を見通し『何か』を見ていた。

 点灯するモニタ類。機体状況、武装状況、地域情報、兵装ビル表示、標的表示。幾多の情報の羅列は、全てスーパーコンピューターMAGIによって制御され、エントリープラグ内のシンジを照らし出す。
 暗闇に現出した光は闇を一層深くし影を落とす。薄闇に浮かび上がったシンジの表情を窺い知る事は誰にも出来なかった。

《おはよう、シンジくん。調子はどう?》

「問題ありません。」

《エヴァの出現位置、非常用電源、兵装ビルの配置、回収スポット、頭に入ってるわね。》

「はい。」

《では昨日の続き、インダクションモードの練習、始めるわよ。》

「はい。」

 瞬間、視界が明滅し、シンジの世界は変わった。
 薄闇から一転して現れた迎撃都市。第三新東京市。しかしそれは実在の物では無く、全て紛い物だ。MAGIが構成するVR(バーチャルリアリティ)は、擬似とはいえ少年と獣を再び戦場ヘと駆り出した。

 第一次直上会戦。つまり、あの悪夢の様な第三使徒戦から二週間が経とうとしていた。

「良く乗る気になったわね。シンジ君。」

 葛城ミサトが腕組しモニタを凝視しながら呟く。初の使徒戦翌日。思いもよらぬゲンドウの告白により真実を知った彼女には、最早復讐の二文字はその役割の半分以上を達成するに到っていた。彼女の心は癒されていたから。使徒に復讐を誓ったのは、彼女の思いの転化でしかない。使徒自体に恨み等、本来持ち得ようも無かったのだから。
 それ故だろうか。彼女には新たな目標が芽生えていた。まだ朧ながら、しかしそれは確実に今結実しようと、胸の内で燻っていた。

「そうね。正直、あんな目に会った直後に、パイロットの登録なんか拒否するものと思っていたけど…」

 赤木リツコがコンソールを操作しながら応える。彼女もまた、ゲンドウによって心を癒されていた。一生適う事の無いものと思い込んでいた想い。それが結実したのは、怨み、恨み、憾み続けて来た当人の言葉によって。まだ先は見えていないかもしれない。結果的には捨てられるのかもしれない。しかし今はそれほど怖れは無かった。
 何よりも自分の心が大きく変化していたから。否。それは始めから変わっていなかったのかもしれない。始めから自分は彼を愛していたから。ただ、想いの見方、捉え方が、少しだけ変わっただけだった。

「聞いた?報告。」

 ミサトには家族が出来た。今はまだ病床にいるが、明日には退院が決まっている。大人達の傲慢さによって産まれ出でた、人であり、人ならざる少女。だが全てを知ったミサトには、そんな事関係が無かった。確かに今は、彼女達子供に頼らなければ生き残れない、切迫した危機が人類には迫っている。しかしだからと言って、彼女に生きる事を放棄して欲しくはなかった。確かに望まれて産まれて来た娘ではないかもしれない。でも此の世に生を受けている以上、彼女にも生きる権利はあるとミサトは信じていた。
 嘗て、生きる事を放棄し掛けた自分。少女はあまりにも自分と重なる部分を持っていた。海を隔てた遠い街に住むもう一人の少女同様に。だからこそ自らの手で助けた出したかった。沈む暗闇の中に手を差し伸べ、光溢れる世界へ引きずり出してやりたかった。世界はこんなにも生きる価値ある場所だと教えてやりたかった。それが例え偽善であると罵られようと、ミサトは漸く手に入れた家族を手放す気には微塵もなれなかった。例え今は何も反応を示してくれないとしても。何時か想いは届くと。

「聞いたわ。ここ二週間、ずっとだそうね。」

 リツコにもまた目標が出来た。ゲンドウの事は愛してはいるが、それ程意識はしていない。例え彼の妻ユイが今直ぐ舞い戻って来たとしても、今のリツコは左程それを苦とは思わないだろうと確信していた。何故なら自分は漸く自分を取り戻したから。何よりも自分の信じる想いが自分を形作るのだと。もしゲンドウがリツコを選ばなかったとしても、もうそれに固執する事も無いだろう。ただ、今は確かにゲンドウを愛している。だからその思いに正直に生きてみようと想っているだけだ。
 だからこそだろうか。愛する男の一人息子。リツコには少し歳の離れた弟のような存在に思えた。想いの変化は人を見る目も変えさせていた。ゲンドウが言うには少年は変わったという。確かにリツコの目から見ても、些か不審な点は多い。だからといって少年を見捨てる気は無いし、愛しい人も想いは同様だろう。何より荒んでしまった心を癒してあげたかった。実の母親の愛には程遠いかもしれない。他人の慰めにしか見られないかもしれない。それでもあれ程嫌っていた筈の母親という存在を、今は素直に受け入れ、自分もまたその身を近しい想いへと向けるようになっていた。それは憎しみを転化していた少女にも、愛情という感情に変化して行くのにそれ程時間は要らなかった。

 奇しくも二人の女は、今。同じ様な想いにその身を傾け様としていた。
 そして、今、目の前に或る者。
 しかし…

「そうなのよ。学校にも行かず、Nervの寄宿舎に一人暮し。一日中格闘訓練、射撃訓練、筋トレ、遠泳、ロードワーク。出来る事は片っ端からって感じね。」

 そう。目の前で戦闘シュミュレーションをこなすシンジは、折角採った転校手続きをあっさりと辞退し、訓練のみに打ち込んでいた。先にミサトが上げた他にも、当然EVAに関する必須訓練も入っている。しかしシンジはEVAの訓練よりも、自分自身のトレーニングに重きを置き、EVA操縦訓練はリツコが起てた最低限のスケジュールのみをこなし続けていた。
 勿論、それは直ぐ様二人の耳に入り、転校の再手続きをシンジに進言しに乗り込んだのだが、

「人類の命運が掛かってるんでしょ。学校で呑気に遊んでられる訳無いじゃないですか。」

 負けるものかとリツコが同居を勧誘しに行くのだが、

「一人の方が落ち付きますよ。それに、これから命令されなきゃいけない上司の人達と一緒に住める訳無いでしょう。作戦に支障が出ます。」

 せめて是だけはっ、と思った最後の願いさえ、

「ふざけてるんですか?矢面に立たされる僕が生き残る為にやってる事です。何で生き残る確率を下げてまで、訓練を減らさなきゃいけないんですか。」

 という、全く理に適ったお答えを頂き、二人はすごすごと出戻りを食らったのである。少年には中々思うように二人の想いが届く事は無く、今は好きな様にさせておくしかなかった。
 確かに。少年のいう事は尤もなのだが、しかし十四歳という年齢とは程遠い、何か得体の知れない思考を持っていた。それが今、二人がシンジに文句を言わない理由であり、またこの一週間彼を観察し続けた理由でもある。

 結果―――少年がどういった思いでここに居るのか、二人には益々解からなくなっていた。

「凄いですね、シンジ君。」

 不意に上がった声は、何処か幼くとても二十代中盤の声には聞こえなかった。オペレーター、伊吹マヤである。
 思いに耽っていた二人は、その言葉を聞き逃していた。

「え?なに、マヤちゃん?」

「シンジ君ですよ。シンクロ率は常に90%を下回る事は無いし、ハーモニクス値も80%以上。動きも機敏です。まだ、EVAに乗って一週間しか経ってないのに、正にEVAに乗る為に生まれて来たような子ですね。」

 マヤの頭にはこの一週間の事しか記録されていない。否。正確には一週間前に起こったあの惨劇を、無意識に廃絶しているだけだ。だから彼女は、能天気にもこの一週間のシンジの成績だけを見て、そのままの意で褒め称えただけだった。
 尤も、二人はそうは捉えていなかったが。

「それは違うわね。EVAに乗る為だけに生まれて来た子供なんて…哀れ過ぎるわ。」

「あ、す、済みませんでしたっ…私…」

「いえ…確かに彼を見てると、私でもそう思うことはあるわ。でもそんな事、在ってはいけない筈だもの。」

 モニタを凝視するミサトを横目に、リツコも同じ思いでいた。
 確かに、自分も荷担していたE計画では、彼等チルドレンは仕組まれており、約束された人選でもある。ある意味マヤの言う事は正しいのだ。だが、真実を知る二人は、またその想いが変化して以降、とてもそう思いたくは無かった。例え仕組まれた運命だったとしても、その先には希望も在るかもしれない。

『…そう…未来を、捨ててはいけないのよ。』

 リツコは訓練の後もう一度説得を試みる事を決意し、再びコンソールに戻った。





鳴らない、電話

「さぁ、ここよ。」

 ミサトに連れて来られたマンションは、少女が今まで住んでいた廃屋同様のマンモス団地とは違い、そこそこの築年数はあろうが、十分に小奇麗な佇まいであった。

 自分の保護者が何故突然変更されたのか。少女は一瞬理解しかねた。
 二週間前。自分の部屋を訪れた男は、今まで見せた事も無い顔で頭を下げた。今まで自分を利用し続けた事、自分にある人を想い重ね代用するような思いを持っていた事、もう自分をそんな目に合わせるつもりは無く、これからは自分の意思で生きていって欲しい事。そして最後に、今を生き残る為にEVAに乗って欲しい事を述べ、済まないともう一度頭垂れた。

 少女―――綾波レイは、それがどういった意味を持っているのか、その瞬間理解出来なかった。
 言葉が何を表すのかは理解した。だがそれが結果、何を自分に齎すのか。それを認めたくなかったのだ。彼女自身それを明確に意識出来ていた訳ではない。ただ漠然と不安を覚えたに過ぎなかった筈だ。
 そして怖れた。先日の零号機起動実験の時に感じた、自分が生きる為の目的の様なもの。それが絆だと感じた次の瞬間に、それは違うと言い渡されたのだ。男は自分を見ていた訳では無かった。漠然とは感じていた事が、明確に示されてしまった。
 しかも道具としてさえ自分は必要無くなったと言う。何も無い、何も持たない自分に許された、唯一の存在理由。何時の日か無に帰す存在。それさえも否定された今、彼女には本当に何も、何も無かったのだ。
 それ等による喪失感。それが彼女に恐怖を抱かせた。

 最早残された物はEVAに乗るという使命のみ。
 少女は、本当に生きた人形と化してしまったのだ。

 翌日現れたミサトに、自分が少女の新たな保護者になる事を告げられたが、レイは何の感慨も受けはしなかった。ただ、「はい」と返事を返しただけ。
 レイはこれからどうしたら良いか全く解からなかった。生きる目的を失った自分。自分の意思で生きろと言われた所で、彼女にはその意思が始めから無かった。ただ言われるままに道具として生きて来た自分。消える為に生きて来た存在である自分。それを今更自分の意思を持ってと言われても無理な話ではあった。
 だから彼女は流された。ミサトの言う事を命令として捉え、言われるままに受け入れた。そうした方法でしか彼女は生きる術を持た無かったから。
 ミサトが何故あしげく自分の病室に足を運ぶのか、レイには解からなかった。ただゲンドウと同様に、EVAのパイロットが早く復調しないと、今後の作戦に支障が出る為だと思っていた。だがミサトは来る度に今日あった事や、お昼御飯は何だったとか、学校ではどんな事をしているのか等、凡そ任務とは関係が無い事ばかり話題に持ち上げていた。それが何故なのか、延いては彼女が自分の病室を訪れる理由さえも、レイには理解出来なくなっていた。

 そして今日、退院するレイを出迎えたのは、やはりと言うか、ミサトだった。

「は~い。レイ、退院おめでとう。って言ってもまだ通院はしなきゃいけないのか…ま。取り敢えずはね。」

「……葛城一尉…」

「ん?なに?」

「……何故…」

「…構うのか、って?」

 特に何を思った訳でもない。ただ、不思議だった。もう何も無い自分に、ミサトは何故こんなにも自分と接点を持とうとし始めたのか。それが不思議で堪らなかったのだ。

 頷くレイを見たミサトは、漸くレイから話し掛けてくれたのが嬉しかったのか、にこりと笑いこう応えた。

「決まってるじゃない。私達は、家族に、なったんだから。」

「…かぞ、く…」

 レイの中に何かが生まれた。
 全てを失ったからかもしれない。生きる理由を切望していたからかもしれない。レイには何も無かったからこそ、それは甘美で魅惑的で偽善的にも映ったかもしれない。
 しかし、確かにレイは感じた。それ以外の何かを、ミサトから感じた。

 思い耽るレイは、ミサトのルノーに揺られ何時の間にかマンションの前に立っていた。余談だが、流石のミサトも、病み上がりの人間を乗せて暴走する事は無かったようで、少女はまだこの時真実を知らなかった。ミサトの殺人的なドライビングテクニックを後に知る事になる。

「レイの荷物はもう家に来てるから。さ、入って。」

「……」

 彼女の荷物を運んだのは他ならぬミサトだ。レイの入院中に引越しを終らせてしまおうと思っていたミサトだが、流石に彼女の部屋を訪れた時には唖然としたものだ。事情は予め聞いていたが、まさかあれ程荒んだ生活をしていたとは知らず、ミサトは自分の思慮の無さを悔いたと、少女は後に聞いている。

「ちょぉっと待ったっ!」

 レイが無言で敷居を跨いで入ろうとした瞬間、ミサトはそれを止めた。何事かと見上げたレイの目に、にっこりと笑み漏らすミサトが映った。

「レイ?今日から私達は家族なんだからっ。だったら、何て言えば良いのか、知ってるわよね?」

「……」

 レイは再びミサトの口から出て来た、先程から考えていた一つの言葉にどきりとし、そしてまた大いに困惑していた。
 少女は今までこんな事態に直面した事も無く、自分がミサトに何と言えば良いのか解からなかった。困惑する頭で何故か必死に応えようと思考を巡らすレイ。
 ミサトはそんなレイをただ微笑んで、少女の言葉を玄関口で待っていた。
 やがて、レイがこの状況で最も相応しいだろうと思われる一言を思い出した。何でそんな言葉を覚えていたのか。本か何かを読んだ時か?何処かでその言葉を聞いていたのか?それは分からないが、その言葉が最もしっくり当て嵌まるのではないかと、そう思ったのだ。

 レイは何時もと変わらない無表情で、しかし、何故か顔面に熱を感じながら。
 控えめな声で自身無さ気に応えた。

「……た、ただい、ま…」

「はい。お帰りなさい。」

 少女の中で、確かに何かが変わった。





「意外と諦めが悪いんですね。」

 少年は背を向けたままそう言うと、着かけだったトレーニングウエアを羽織った。

 リツコがノックをして更衣室に入ると、上半身裸のシンジが振り返り、能面のまま何か用かと問うた。シンジの身体は彼方此方に大きな痣や切り傷が付いており、それが連日の訓練の成果である事は今更問うまでも無かった。子供の裸を見て恥ずかしがるような歳でもないが、その傷を見せられると思わず顔を反らしてしまった。
 そんな形での誘いは誠意が伝わる筈も無く、否。今更この少年相手では、そう易々と誠意など伝わらないのかもしれなかったが。少なからず自分達のせいで、この少年はここまで自分を痛め付けているのは、間違いは無い筈なのだ。ここで顔を背けながらの誘いでは、半分もこちらの想いが通じる筈も無く。
 結果、先の答えである。リツコの同居の誘いは、再度拒否されてしまっていた。

「…そうでも無いわ。どうやら徹底的に嫌われてるみたいだしね。取り敢えず、今は諦めておくわ。」

「今は、ですか…」

 鼻で笑ってリツコを皮肉ったシンジは、上着を着終え振り返る。その顔はやはり能面で、リツコの目を正面から捕らえて離さない。

「それはあの男からの命令ですか?なら赤木博士もとんだ迷惑でしょう。構いませんから、父には断られたと言ってやって下さいよ。」

「そうじゃないわ。これは私があなたを心配して…」

「だったら尚更ですよ。先日御話しした通り、軍事組織としても致命的なリスクを負う事になる。情に流されやすそうな葛城一尉はともかく、赤木博士はその辺を解かってらっしゃると思ってましたが?」

「それは…」

「この件はこれで御終いにして下さい。あなた方に支障は無くても、僕には大有りなんですよ。家族に命令されるなんて真っ平御免です。他に何か用件は?無ければ、失礼します。まだトレーニングがありますから。」

 シンジは有無を言わさず更衣室を出て行く。リツコは黙ってそれを見送るしかなかった。
 リツコには解からなかった。シンジが何を拒絶し、何を成そうとしているのか。

「…シンジ君…」

 扉の閉まった室内で、リツコの呟きが響いた。





「…ミサトさん?」

 控えめな声と共にノックされる襖。

 一晩明け、少女は越して来て間も無い部屋で朝を迎えた。昨晩のミサト曰く歓迎会は、中々に凄まじい物があった。レイがそう捕らえていたかは定かではないが。とにかく、レイを迎えてくれたのは彼女さえ唖然とする程のゴミの山だった。少女も掃除等した覚えは無いが、それは必要に迫られた事が無いからであり、今までの生活ではそれ程ゴミが出るような生活をしてこなかっただけに過ぎない。一応ゴミは塵箱代りのダンボールに捨てていたし、そこそこに溜まればゴミ袋に詰め、回収日に捨てていた。だから下手に部屋が散らかった覚えは無いし、多少の埃が気にならなかったのは、そんな細かい所までリツコが教えていなかったからだ。
 だが、この部屋はどうか?「足の踏み場も無い」という言葉はこういう時に使うのだなと、納得したレイである。かと言ってレイにはどれが不要物で、どれがいる物なのか判別は付かなかったし、別に生活に困る物でもなかろうと思い、誘われるままテーブルに付いた。
 コンビニ弁当と惣菜とビールばかりの食卓は、些か味気ない物では有るが、レイにとってみればパンと固形食ばかりの生活ばかり送って来た彼女にとって、珍しい食事であった事は確かだ。レイが肉類を食べられない事をミサトが知ったのも、この日の事だ。どうやら食わず嫌いではなく、アレルギー性らしいという事でレイは肉料理を食べずに済み、それ等はミサトの胃の中へ収まった。その代わりといっては何だが、ミサトにビールを勧められ、言われるまま350ml缶を空けたレイは、「あら~、結構いけるじゃなぁい♪」と今後ミサトの晩酌に付き合う事になってしまった。
 進まない会話にミサトはめげる事も無く、レイと根気良く色々な話しを持ちかけた。レイも一言二言だが、それに答える。静かだが、何処か和む会話だった事を、少女は思い出していた。そんな会話の中、

「ねぇレイ?あなたの新しい保護者は、苗字よりも名前で呼ばれる方が好きなのよ。」

「………ミサト…さん?」

「ん♪」

 その時の笑顔は何処か暖かくて、今朝も何故か言われた通り名前で呼んでいた。だが、レイはそれを嫌だとは思ってない。寧ろ、心地好い、と。

 もう一度襖が叩かれる。

「…ミサトさん?」

 返事は無い。仕方なく襖を開け、再々度呼び掛ける。

「ミサトさん。朝です。」

「ぅんあ?…レイぃ?…ぁぁ…ごめ~ん…今日は昼から出勤だからぁ…もうちっと寝かしてぇ…」

「…分かりました。」

「あっ。今日火曜日だっけ?」

「はい。」

「燃えるゴミ出しといてぇ~…」

「はい。」

「んあ。行ってらっさ~い。」

「………行って、きます。」

 レイはミサトとの会話を不思議に思っていた。自分は今まで他人に興味を覚えた事は無い。それなのに、何故ミサトの話しに自分は受け応えしているのか?昨日一日掛かって考えた事だ。そして一つの可能性に行き着いた。
 『家族』
 それだけだった。上司と部下という関係は確かに有るものの、それは先日否定されていた。他にも考えて見たがどうも当て嵌まらない。その結果が『家族』という絆だった。そう。絆。レイには既にミサトとの絆だけしか残されていなかった。家族がどんなものか、レイには想像も付かない。だからといって、レイにはそれを手放す事は出来なかった。少女にはもう、それに頼って生きていくしかなかったから。
 束縛と消滅しか無かった生活から、唐突に訪れた自由。それはレイにとって困惑と恐怖でしか無かった。レイのそんな行動は、ある意味自然だったのかもしれない。まるで生れ落ちた赤子が母親を求める様に。

 静寂の訪れた葛城家。
 そこに一本の電話。けたたましく住人を呼び付けるそれは、やがて眠りに付こうとしていた主を、再び眠りの世界から呼び戻した。
 のそのそと布団の隙間から伸びる手は騒音の相手を見付け出し、僅かに残響が部屋に響いた。

「ふぁい……ぁあ、リツコ…」

《どう?母親になった気分は?》

「んなんじゃないわよ…せめて姉妹にしてよ…でもま、予想してたよりはマシかな。受け答えはしてくれるもの。」

《返事位はするでしょ?》

「いや、そう言うんじゃなくて、世間話っポイのとか。」

《へぇ。レイが?早くも一歩前進って所?》

「ん~。ま、かもね。そっちは?」

《………》

「やっぱ、ダメ?」

《えぇ。梨の礫ね。》

 ミサトには分かっていた。何故リツコが電話を掛けて来たのかが。彼女は珍しくも弱気になっているのだろう。
 彼女が先週総司令室から戻って来た時、彼女の中で何かが変わっていたのは一目で判った。それは何より自分が体験済みだったし、あの司令相手に話しをする為残ったのだから、何かがあったのだろう。それを特に問い質す気は無かったが、明らかに彼女の中で心境の変化があったのは確かだ。
 その謎も、翌日にははっきりとした。彼女はシンジとの同居を望んでいた。そう。あの時のゲンドウとの約束を守ろうとしているのを見て、ゲンドウが赤木リツコを変え、また、リツコ自身何かから救われたのだろうと知った。
 だから、この一週間、特に話し合わなくても二人の行動は有る一つの信念の元に成立っていた。
 『子供達の心を救う事。』
 この一点に尽きた。だからお互いのサポートにも回っていたのだ。だが、リツコの相手は一筋縄では行かなかった。二人掛かりでもこの一週間全く反応を示さないシンジに、いい加減諦めの気持ちも出て来ると言うものだ。
 リツコの気持ちは良く判った。伊達に旧知の仲でもない。

「ん~。やっぱあれよねぇ…他人が嫌いなんでしょうねぇ…」

《…でしょうね。そこだけは報告書通りかしら。》

「うちの諜報部も当てになんないわねぇ…今日ももうやってるの?アレ。」

《連絡ではね…》

「大丈夫なの?いざって時にぶっ倒れられるとこっちも困るんだけど…」

《…始めの内は酷かったみたいね。でもここ数日は慣れて来てるみたい。流石に若いわ。》

「…かと言って、何時までもこのままで良い訳じゃ無いんだけど…彼の言う事も尤もではあるのよねぇ…」

《………》

 リツコが静かになった所で、ミサトは布団の中から顔を出し、仰向けに寝転がった。天井を見上げたまま、二人は暫し無言だった。

「リツコ。」

《何?》

「時間が必要よ。じっくり心の鎧を解いてあげましょ。私も手伝うからさ。」

《…ミサト……有り難う。》

「んっふふ~っ。かぁわいくなっちゃって~っ。」

《なっ!?》

「あ、そうだっ!今度食事にでも誘ってみたら?」

《…シンジ君を?》

「そ。ついでに、家でパーティーってのは?私が特製カレーを」

《結構よ。》

 即座に通話は切断され、ミサトは受話器片手に天井に向かって愚痴た。

「………あによぉ~…」

 僅かに。こめかみが引く付いていたのは御愛嬌だ。





 教室という空間にとって、朝は喧騒に包まれると相場が決まっている。御多分に漏れる事も無く第壱中学二年A組の朝も、生徒達の声で賑わっていた。
 そんな中、一際周囲とは異なった空間を作り上げている少女がいる。
 一言で言ってしまえば、『絵画』。
 静かに佇む蒼銀の少女。紅の瞳はじっと窓の外を写し出している。綾波レイという少女は一般的な社会で非常に“浮く”存在だ。その容姿もそうだが、何より寡黙という以上に周囲に解け込まない。性格故か、彼女は周囲の人間との交流を持たなかった。
 子供というのは意外に物事に敏感だ。ちょっとした感情の機微を表現する術は持たなくとも、感じ取る事は出来る。それ故クラスメイト達は、近寄り難いレイを遠巻きに扱う事しかしない。レイ自身の拒絶もあるし、周囲もレイを拒絶していた。

 そんな中、一人の少女がレイに近寄って来た。

「あの…綾波さん?」

「………」

 寡黙な少女は返事と言うものの必要性を感じていなかった。故に黙って振り返りただ相手の顔をじっと見つめる。レイ自身は「何か用か?」と言外に言っているのだが、見つめられた方はレイに話し掛けた事で睨まれている様で、何処かばつが悪い。当然少女も暫し困惑した様子を見せたのだが、怯む事無く言葉を発した。

「退院出来たんだ?もう、大丈夫なの?」

「………」

 黙して、しかし辛うじてこくりと頷き返すレイ。取り敢えず意思の疎通は図れるものと確認出来、少女は胸の内だけでほっと溜息を付き、本題に移った。

「あのね、昨日まで綾波さん休んでいたから、私がプリント預かって昨日届に行ったの。だけど綾波さんの家、あの…誰も居なかったから…」

「………」

 少女が最後に言い淀んだのは他でもない。レイの住居がまるで廃墟の様な再開発地区にあり、実際名簿の住所の通り彼女の家に赴くとそこは廃墟同然だったからだ。それを言っても良い物かどうか、悩んだ末の尋ね方だった。まあ、女の子がそんな所に住んでいる等、少女には信じられなかったし、そんな事を言ってもレイを傷付けてしまうだけだと思い、彼女にも家族くらいは居るだろうと微妙に話しをずらし、曖昧な言い方となっていた。
 勿論、少女の危惧(レイが廃墟に住んでいた事)は事実であったのだが、その事がレイに伝わったかどうかはまた別だ。事実、レイはそんな深い意味合いまで捉えては居らず、少女が今までの住居に行き、会え無かった事を非難しているのだと捉えた。暫しの沈黙の後、レイは静かにその理由を答えた。

「…引っ越したから…」

「えっ?そ、そうだったの?」

 少女が驚いたのは二つの理由からだ。一つはそのままの意味。突然の引越し。それは往々にして誰しも驚く。そしてもう一つ。レイの返事は同時に、彼女が確かにあの場所に住んでいた事を肯定しているからだ。少女には俄に信じられなかった。
 そして一つの疑問が、確信となる。あんな廃墟に家族で住んでいる等滅多に有り得ない。失礼にならないかと思いつつ、しかし間違い無いと感じながら、少女は確認した。

「ひょっとして、綾波さん一人暮しだったの?」

「………」

 肯定。学校に来てる以上、レイにも保護者は居るのだろう。しかし、何かの事情で一人暮しをしているのかもしれない。少女はそう考え、また彼女の今の状態を労わろうとする。
 それは少女にとって当然の感情だった。責任感もあったのかもしれない。それ以上に情も深かった。だから、今珍しくもこの二人が拙いながらも会話を成立させている事に、周囲は驚きの目で二人を見ており、二人はそれに気付いていなかった。

「そう…一人暮しでその怪我じゃ大変でしょ?」

 何か手伝える事があれば。そう思って出た言葉。しかし、それも意外な返答で少女を一瞬困惑させた。

「……今は…一緒に住んでるから…」

「え?…あ、そ、そうなの?じゃぁ、御家族とかと?…」

「いいえ…保護者と…」

「?」

 少女は一瞬理解しかねた。両親と保護者。似て非なる物。だがこの時代、両親が健在の家族は少ない。殆どが片親だ。セカンド・インパクトという脅威によって。事実このクラスでもその殆どがそうだった。
 だから少女にもレイの言葉の意味は判った。要するに今までレイは何かの理由で一人暮しだった。保護者は居たのだろう。でなければ学校に来れる筈も無いし、子供一人で生きて行くには擁護施設に身を預けるしか無い。おそらく仕事が忙しい人なのかもしれない。そして、今回の怪我でその保護者がレイの身を案じ同居する事になったのだと。
 事実は微妙に違うのだが、とにかく女の子の一人暮しは何かと大変だろうし、その辺は母が他界していた少女にとっても、父親が忙しい身で滅多に帰らないので良く分かる。辛うじて姉妹がいる事で家族の温かみに触れて生きて来た。
 だから、少なくともレイに一緒に住む者が出来た事は喜ばしい事だと、そう思ったのだ。

「…そっか…綾波さんにも、家族が出来たんだね…良かったわね。」

「………」

 レイが始めて反応を見せた。正確には会話にも受け答えを見せていたのだが、実はレイの意識は始めに少女と顔を合わせて以降、全く向いていなかった。
 それはレイが困惑していたから。なぜ自分がこの少女と話しをしているのか。始めはプリントの話しだったのに、今は何故か自身の身の上話をしている。そして何よりもしっかりとそれに返事をしている自分に戸惑った。昨日からレイは戸惑ってばかりだ。
 全てはミサトとの会話からだった。話しの中で何故か心安らぐ自分。その発端はたった一つの言葉から。
 『家族』
 未だレイには理解出来ない。今レイに与えられたたった一つの生きる術。まるで言い当てられた様な言葉に、思わず反応していたのだ。
 レイははっとしたまま少女と目を合わせ、

「………」

 何故か顔が熱くなるのを感じていた。

 少女は見た。見てしまった。
 前々から気になってはいた。それは自分が責任感から、クラスから外れた立場にいるレイを思っての事だ。だがそれに対し、どうする事も出来ない自分も確かにあった。一方で、レイを憧れの対象として見ていた部分も無くは無い。何せ周囲とは一種違う雰囲気を纏い、孤立してはいるがレイは元々かなりの美少女と言っても良い。その容姿に憧れる者は少なくない。しかし、それは同時にレイをより孤立させていたのだ。
 今日だって、漸く学校に出て来たレイに、偶々自分が預かっているプリントを渡す為に話し掛けたのだ。単なる責任感から出た会話。
 だが、
 今日に限ってそれは少女の予想を遥かに上回り、会話を成立させ、そして…

『か、か、か、可愛いぃぃぃぃぃっっっっっ!!!!』

 ぽっと僅かに頬を染め、恥ずかしげに自分を見上げる目の前の美少女。男ならば一発で悩殺物である。事実、少女も一瞬あっちの世界へ飛びかけていた。幸い、一歩手前で危ない世界へは立ち入らずに済んだ少女。
 だが、それ以上に少女には、レイの反応が何を意味しているのか解かった。
 レイは、家族が出来た事が嬉しかったのだろう。今まで一人であんな所に住んでいた少女。心が荒んでいても無理は無い。それが、漸く共に過ごせる者が出来た。その喜びは一入なのかもしれない。
 だからだろう。今日レイがこんなにも少女の話に反応してくれたのは。少女は気付いた。

『これからは、綾波さんとも仲良くなれるのかもしれない…』

 少女は、今だ頬染めるレイに目線を合わせ、にっこりと微笑んだ。

「そう。でも、学校とかでその怪我じゃ大変よね?何か困った事があったら、何時でも言ってね?」

「………」

 レイは目の前で色々と話し掛け、世話を焼こうとしている少女が誰か、辛うじて覚えていた。クラスでの役割も。故に、この会話はその責任上の事だと始めは思っていたのだ。だから関心もあまり無かった。事実始めはそういった話しだった筈だ。
 だが今目の前の少女には、そういった類の会話をしている様に、レイには見えなかった。言っている内容は確かに責任上発生しそうな内容ではある。が、少女は何処か楽しそうで、レイは今まで感じた事の無い、否。先日味わった、あの感覚を思い出していた。

『…暖かい…』

 レイにはそれがどういう事なのか理解出来ない。結果、疑問でしか返せなかった。

「…何故…私に構うの?…」

「え…」

 実にそっけない、まるで全てを拒絶するような言葉。少女も確かに一瞬怯んだ。やはり彼女は全てを拒絶するのかと。
 しかし。
 少女は確信した。彼女は不安だったのだ。今までそんなに交流を持たなかったクラスメイトの一人から、突然優しくされた事に。再び拒絶される事に。
 少女は再び笑顔で返した。何せ、レイは未だに頬を桜に染めているのだ。これで拒絶と受け取る方が可笑しかった。

「だって、クラスメイトじゃない。それに、綾波さんとはお友達になりたいと思ってたの…ダメ、かしら?」

「…とも、だち…」

 レイは本来拒絶など持ち得ない。自分と言うものが確立していないから。今まではたった一つの目的の為に、流される様に無為に日々を生きて来たから。いつかこの身が消える日が来ると。
 だが今は違った。彼女は今生きる目的を、無意識の内に欲していた。その一方で未知なるものに対しての不安と恐怖。相反する感情の中、その感情が何を意味しているのかも知らず、ただ、流されるしかない少女。
 新たな家族という絆に今だ戸惑い、自分の中で処理出来ていなかった所に現れた、新たな絆。彼女はまだ、それを絆として理解はしていない。
 しかし…

『…暖かい…嫌じゃない…』

 レイは何時の間にか、首を縦に振っていた。昨日と同じ様に。
 かくして、レイの目の前の少女は、本当に。本当に嬉しそうに笑みを深めた。

「よかったっ。じゃあ、私達は今日から友達。ね?」

 再び頷くレイの手を、少女が握り返して来た。
 接触。
 人の手が暖かい事を、レイは初めて感じた。

『…何故?…でも、嫌じゃない…』

 チャイムが響いた教室の中で、立ち去る少女の背を見つめる。
 「困った事があれば言って欲しい。」という少女。

『…友達……後で、聞いてみよう…』

 先の言葉に言われるまま、レイは自分の疑問を聞いてみようと思った。
 『家族』とはどういったものか?
 『友達』とはどういったものか?

 その日。
 綾波レイに、初めての友人が出来た。
 友人の名は、洞木ヒカリ。





 シンジは一日のロードワークを欠かさなかった。
 ジオフロント。その敷地面積は広大だが、そこに建設されている建物の数は意外と少ない。寧ろ建造物よりは森林の方が占有面積は多い。勿論それ等は植林だが。故に、人工的に整地されている道路が、その森の中を縫う様にジオフロント内を駆け巡っている。それ等はカートレインや地下鉄路線等の地上部への連絡通路として利用され、Nerv職員の多くが利用する。尤も、この昼下がりの時間帯には皆職務中で、滅多に人と擦れ違う事はないが。
 それ故、シンジはこの時間帯にロードワークを割り当て、一日10km。10分の休憩を挟み100mの走り込み十本をこなしていた。他のトレーニングもあり、初日など酷い筋肉痛に悩まされたが、人間とは大した物で、数日もすれば然して痛みに悩まされる事も無く、寧ろメニューの量を増やしつつあった。筋肉痛は普段使われない筋肉が酷使される事によって起こる物で、痛みが消えない内に使い込んでいけば、徐々に使われていなかった筋肉繊維は発達し、その筋力を上げていく。
 今のシンジは多少疲労はするものの、始めの頃の様に痛みに悩まされる時期を通り越していた。後は徐々にその時の体力に応じて、運動量を増やして行けば良い。

 森の木漏れ日の中、トレーニングウエア姿に首にハンドタオルを引っ掛け、走りつづける少年。
 シンジは何故今まで運動する事をあれ程嫌っていたのかと思う。まあ、以前の何に対しても目的も見出せなかった自分では無理も無いのだが。
 しかし、そんな思いこそシンジ自身を追い込む要因にしかならない。負の感情へと。自分は何時からそれ程殊勝な人間になったのかと。自分は今までと何等変わらない。
 卑小で、矮小で、愚劣で、卑怯な自分。周囲の人間全てを殺してまで生き残った自分。そんな自分に許された在り方はただ一つしかない。
 自分の思考を負へ、深い闇の底へと押し込め、シンジはただ黙々と走り続けた。

 シンジはただ体力造りの為にトレーニングを積んでいる訳ではない。EVAを自由に操る為に、果ては全ての使徒を駆逐する為に、これはどうしても欠かせなかった。前回。彼の知る限り、対使徒戦はどう考えても綱渡り的だった。一つ間違えば人類滅亡も有り得た筈だったのだ。ほんの僅かなミスが一つでもあれば、使徒には負けていた。
 そしてもう一つ。今回のシンジは母ユイを介す事無く、直接初号機とシンクロしている。それ故フィードバックもそれ相応、というよりは寧ろ直接返って来る。それは既に先の戦闘で実証されていた。また前回の様に幾度も助けられた『暴走』も期待出来なかった。暴走自体は引き起こせ無い訳ではない。シンクロ率を引き上げ、初号機に身を委ねればそれは可能だ。しかし今回。それは最悪でも最終戦まで使う事は出来ない。何より戻って来れる保証は何処にも無かった。先の長い戦いで、シンジと初号機を欠くような事になれば、人類滅亡も確定したような物だろう。それは避けねばならなかった。
 故に、シンジは全ての使徒を独力で殲滅するしか無いと踏んでいた。その為には極限まで初号機を駆る為の、体力と精神力が必要だった。そしてその不安材料の最優先事項が、彼自身の体力不足だったのだ。
 だからこそ、日々の厳しいトレーニングを自らに課し、欠かさず続けていた。格闘訓練や、銃器の取扱いについても同様である。
 流石に二週間やそこいらでプロ並とはいく筈も無い。しかし、やるとやらないとでは大きく違うのだ。
 以前のシンジはそんな事も解かっていなかった。
 否。解かろうとはしなかったのだ。そんな些細な事さえ、今のシンジには憎悪の対象になっていた。

 汗を流しながら、呼吸乱さぬよう走り続ける。
 やがて森を抜け、本部エントランス前が近付いて来る。前方には警備の男が二名。軽く会釈をしながらそのまま通り過ぎ、駅方面へ駈け抜ける。
 擦れ違い様、男達が声を掛けて来る。既に顔馴染になっていた。
 シンジは基本的に聞き分けの良い子供であり、突然EVAのパイロットに任命されたにも関わらず、特に文句も言わず人類を救う重責に、必死に応えようとする少年だ。と、本部の職員達に見られている。
 いや、見せていると言った方が本来は正しい。実際には演技という程大仰な物ではないが、本音を隠して良い子を装うという部分では以前と何等変わり無い。ただ、そう簡単に本音を他人に見せなくなっただけだ。
 心の奥のどす黒い何かを、シンジは決して見せようとは思わないし、見せる必要も感じていなかった。

 駅までの街路樹に沿い、只管走り続ける。
 ふと、
 シンジの視界に意外な人物が写り込んだ。

 蒼銀に揺れる髪。
 第壱中学指定のセーラー服。
 細く今にも折れそうな印象の身体。
 白く透き通るかのような肌。
 幾つかの白い包帯がその身を包む。
 そして、
 そこから覗く、紅の瞳。

 綾波レイ。

 見間違える筈が無かった。
 意外にもシンジはレイと接触を控えていた。何よりも補完計画の要となる少女。始めはシンジも、レイを制御する事は今後の重要な鍵となる為、どうすべきか考えあぐねていた。
 しかし、シンジよりもゲンドウの方が先に動いていた。レイがミサトの元に移住した事は、元保護者のリツコから聞かされていた。そしてゲンドウの目的もより明確になって来たのだ。どうやらゲンドウは補完計画の行使を諦めている。何よりレイを手放した事で、それははっきりとした。そしてリツコが先週からシンジに迫っている訳も理解した。
 ゲンドウは全てを捨て、SEELEとの徹底交戦を決め込んでいるであろう事を。補完計画の放棄とはそういう事だ。そしてもう一つ。あの男は、全てをやり直し、皆を救って償おう等と考えているに違いなかった。

『…流石。僕の父親だけの事はあるよ…ほんと、虫唾が走るよ。父さん…』

 だからこそ、シンジは接触を控えて来た。自分と深く関わらないレイが今後どういった方向へ成長して行くのか。それを見てみたくなったのかもしれない。と同時に、今はまだ海の向こうにいる少女も、変わって行くのだろうかと。

 シンジはゆっくりと歩速を緩め、ゆっくりと歩き出した。
 前方から、視線を足元に落とし、鞄を片手に向かって来る少女。どうやらまだこちらには気付いていない様だった。そうだろう。あの少女はまるで周囲に関心は無いのだから。
 上がった息を軽く整え、路面脇の木に近寄ると、そのまま根元に座り込んだ。見上げると木漏れ日が指し込み、シンジの上気した顔を斑模様に変えていた。

 ただ、静かに。

「…やぁ。」

 少女が全く少年に気付く事無く通り過ぎようとした瞬間、少年は先程から変わらぬ姿勢で呼び掛けた。
 ぴくりと反応する少女。立ち止まりゆっくりと声のした方に振り返る。少年が木陰で座り込み、木漏れ日を見上げていた。
 静寂。ジオフロントに蝉はいない。ただ湖畔で波が打ち立つ音が微かに聞こえて来るだけだ。
 暫し少年を見つめた少女は、何も反応を見せない少年を横目に、再び本部への歩みを進めようとした。
 しかし、それを待っていたかの様に、再び声を掛ける少年。

「君が、綾波レイだろ?」

「………」

 少女は再び振り返り、少年を見つめる。今度は少年もこちらを見ていた。
 再び静寂。先に口を開いたのはレイだった。業を煮やしたかに見えなくも無いが、この少女に限ってそれは無いかもしれない。

「…何?」

 そっけない一言に、シンジは思わず苦笑した。そして返す。

「君じゃないの?」

「……そうよ。」

「僕はサード・チルドレン。」

「…そう。」

 再び苦笑。

「名前。聞いてくれないの?」

「………」

「ま、いいか。僕はシンジ。碇シンジだ。」

「…碇…」

「そ。碇ゲンドウの息子だ。」

「………」

「これから検査?」

「……えぇ…」

「葛城一尉の所に住んでるんだってね?赤木博士に聞いたよ。」

「………」

 苦笑。そして、

「新しい生活は楽しい?綾波。」

 驚愕。そう。それは確かにシンジが知っている、他人には判らぬ程の、僅かな表情の違い。レイは確かに驚きと、そして困惑と動揺を持ってシンジを見ていた。レイは何故今日始めて会ったこの少年に、そんな事を聞かれねばならないのか判らなかった。と同時に、自分の内面を言い当てられた事による、怖れ。言われるまで解からなかった。レイは確かにミサトとヒカリとの会話を心地良いと感じていた。それは楽しいという事であり、そしてこれはレイが引越した昨日からの事なのだ。まるで全て知っているかのような少年の口調にまでは、流石に彼女は気が付けなかった。

 三度静寂。今度はシンジが続けた。

「ま、いいや。取り敢えず、これからはパイロット仲間だ。よろしく頼むよ。」

「………」

 くすりと苦笑したシンジは、そのままロードワークへと戻って行く。
 レイはその姿を黙って見送るしか出来なかった。
 そして思う。そう、今日一日自分は楽しかったのだ。昨日まではあれ程どうやって生きていけば良いのか脅えていたのに。
 家族になってくれたミサト。
 友達になってくれたヒカリ。
 そして、楽しんでいる自分を教えてくれたシンジ。ゲンドウの息子。

「…碇、シンジ…」

 レイの髪が緩やかに揺れた。





NEON GENESIS EVANGELION

Lunatic Emotion

EPISODE:03 Social Workers






「…なんや。随分減っとるのぉ。」

「トウジ…」

「鈴原…」

 洞木ヒカリがクラスメイトの相田ケンスケに頼んだ、休み中の生徒に届けるプリントの件で抗議をしている最中に、件の本人はやって来た。不貞腐れた一言を呟いて。
 鈴原トウジ。それが件の生徒の名だ。
 親友であるケンスケがそれに相槌を打つ。

「そりゃそうさ。本物のドンパチがあったんだ。疎開する家も多いだろうさ。」

「鈴原、何で三週間も休んでたのよ…」

「あ?連絡行ってヘんのか?センセには言っといたがなぁ…あのセンセも大概ボケとるしのぉ。」

「で?どうしたんだ?怪我でもしてたのか?」

 ケンスケは軽い気持ちで聞いた。先刻も、ヒカリと三週間前の戦闘時に、怪我でもしたのでは無いかという話しをしていたのだ。だが、こうして自身が元気に登校して来た所を見ると、どうやら危惧するまでも無かったようだ。少なくともそう思っていたのだが。
 トウジは渋い顔になり、重い声を搾り出した。

「…妹の奴がな…」

「え…ナツミちゃんが?…」

「ホントなの?鈴原…」

 いらぬ所で的中してしまった話題に、思わず二人は居心地悪い顔になる。トウジの重い声に病状がそれ程酷い物なのかと、嫌でも心配になると言うものだ。
 二人の顔を見たトウジは慌てて、先まで纏っていた空気の重さを取り払った。

「あぁ、安心せい。危うく瓦礫の下敷きになりかけたんやが、軽い骨折と打撲で済んだんや。ただ、家はおとんもおじんも研究所勤めやろ?世話見てやる奴がおらんから、わいが見とったんや。」

「なんだ、脅かすなよ…」

「でも、良かったわね。妹さん…」

「おぉ。心配してもろうて悪いのぉ。委員ちょ。」

「あ、わ、私は、ほら、委員長として、その、あの、」

「おぅ。わぁっとるって。」

「う、うん。」

 いい加減慣れるか、くっ付くかにして欲しい物だと思わないでもないのだが、まぁ見てて飽きないのでケンスケは特に突っ込む事は無い。何に?とは敢えて言明する必要もあるまい。

 ガラガラと開く戸板。そこから現れたのは包帯塗れの少女。
 無言のまま自分の席に付こうとする少女に、ヒカリは駈け寄って挨拶をした。

「おはよう。綾波さん。」

「………お、おはよう…」

 僅かに頬を染めたレイを微笑ましく見ながら、ヒカリはレイの席まで行き、朝の残り少ない時間をお喋りに興じる。勿論レイを相手に。
 ここ一週間。ヒカリはすっかりレイの傍にいる事が多くなり、またレイもそれに受け答えするようになっていた。尤も、その表情は中々変化しない為、仏頂面で相手している様に見えなくも無い。
 が、レイは確かにヒカリと一緒にいる時間を、大事に思っている様であり、それはヒカリも理解している様である。

 そんな様子を見て、トウジは何か意外な物を見るような目で、暫しボケっと眺めた後、大仰にケンスケに囁いた。

「…なんやぁ?委員長と綾波の奴、何時の間に仲良くなりよったんや?」

「さぁなぁ……気になるのか?」

「ア、アホ抜かせっ。」

 今日も第壱中学の朝は平和であった。
 数刻後までは。





「…それにしても、碇司令の留守中に第四の使徒襲来か。思ったより早かったわね。」

 葛城ミサトの呟きは他ならぬ、非常事態宣言発令によるものだ。
 そしてメインモニタには領海内に侵入を果たした第四使徒が、その威容を映し出していた。

「前は十五年のブランク。今回はたったの三週間ですからね。」

 ミサトの呟きに応えたのは、彼女の部下でありオペレーター担当、日向マコト。
 マコトの言葉ににやりとモニターを見据え、ミサトは厭味を吐いた。

「こっちの都合はお構い無しってとこね。女性に嫌われるタイプだわ。」

 モニタの中では、戦略自衛隊の手により使徒に対し数々の火器を用い、波状攻撃が強いられるが、使徒はそれを物ともせずに突き進む。ATフィールドによって守られるその躯体はまるで傷付かず、ぬらりとした体表はその煌きを微塵も鈍らせる事は無い。
 その様子を見て、ゲンドウの留守を預かる冬月コウゾウが愚痴た。

「税金の無駄使いだな。」

 青葉シゲルが上層部の連絡を取り次ぐ。その内容は図らずも冬月の愚痴に呼応する様でもあった。

「葛城一尉!委員会からエヴァンゲリオンの出動要請が来ています!」

「五月蝿い奴等ね。言われなくても出撃させるわよ。」





 一方、第334地下避難所では、第壱中学で授業中だった生徒達が一斉に会していた。その様子はさながら遠足か修学旅行の乗りであり、子供達には戦闘と言われても些か現実離れしている様であった。
 そんな中、一人不安そうな表情を湛える少女が一人。洞木ヒカリだ。
 非常事態宣言が成される直前に、彼女の友人が一人、急用と称して早退をしていたのだ。その直後の非難勧告である。まさか外に出たままと言う事は有り得ないだろうが、それでもヒカリは心配だった。
 まだ友人関係になったばかり。何より彼女は怪我をして退院したばかりなのだ。もしそんな身で戦闘に巻き込まれでもしたらと思うと不安で仕方が無い。
 何も出来ないと解かっていても、ヒカリはあのか細い少女を放っておけず、せめて無事で居てくれる様にと、身を案じる事しか出来なかった。

 同じ避難所の別の一角では、また別な悩みを抱える少年も居た。尤も、こちらの次元はかなり低俗なのだが。

「お前ほんまに好っきやなぁ?こういうの…」

「う~っ、一度でいいから本物が見たいぃ…今度いつ敵が来るかも分からないのに…」

 暫しの逡巡。少年―――ケンスケはそれを実行に移そうと考えた。

「トウジ。」

「なんや?」

「内緒で外出ようぜ。」

「………」

 ケンスケがあまりに当然と言う口調だった為、一瞬ヒューズの飛んだトウジ。が、流石に内容が内容だけに彼は直ぐ様再起動した。

「あ、アホか~っ!?んな事したら死んでまうやないけっ!」

「バカッ!静かにしろよっ…」

 大声を上げ呆れかえるトウジの口を、慌てて塞ぐケンスケ。周囲を見渡すが喧騒で誰も聞いてなかった。ほっと息を付き再び声を潜める。

「大丈夫だって。遠くから見るだけなんだから。な?頼むよぉ~、こんなイベント滅多に無いんだからさぁ!」

「せやかて、危ないのに変わり無いやんけ。」

「それはここだって一緒だろぉ?なぁ、頼むよぉ。」

「しかし…」

「……トウジ。男なら腹括れ。」

「ぐっ!?」

 鈴原トウジという少年はこの言葉に弱かった。『男なら』。なら、何だと言うのだろうか?ま、それは本人しか知り得ない所では在るが。
 少なくともケンスケはトウジの操縦法を心得ている様ではある。

「し、しゃあない…付き合うたるか…」

「何処に?」

「せやから外に…うわ~~~っっ!!??」

 トウジが振り返ったそこに居たのは、先程まで不安に暮れていたヒカリであった。何時の間にやら直ぐ後ろで話しを聞いていた様である。

「ふ~~~ん……外ね…」

 神出鬼没振りに冷汗を流しながら、二人の少年は必死に弁解を考えていた。
 が、事態は意外な方向へと進んだ。

「じゃ、あたしも行く。」

「「へっ?」」

「綾波さん、非難勧告の直前に早退したから…でもこの辺のシェルターってここしかない筈だし、探したけどここには居ないみたいだし…ひょっとしたら、怪我で逃げ遅れてるのかも…」

「で、でも委員長、逃げ遅れって事は有っても、そういう奴は必ず戦自に保護されてるだろうし…」

「せ、せや。態々外に出んでもえぇやないか。」

「でも今外に出ようとしてたんでしょ?」

「「ぅぐっ!」」

「なら、私も行く。」

「…おいおい、委員長…」

 てこでも動かない様子のヒカリに、正直ケンスケは面食らっていた。普段はそんな少女ではないのだが、今回ばかりはどうもあの寡黙な少女に随分と入れ込んでいる様である。
 流石に女の子を連れてまで外に出ようとは思わなかったのか、ケンスケはシェルターからの脱走を諦め掛けた。
 が、

「しゃあないのぉ。わしも探すの手伝うたる。但し、危なくなったら直ぐ戻るんや。ええな?」

「おいっ、トウジ!?」

「鈴原…」

「しゃあないやろ。いけ好かんちゅうても、クラスメイトが危ない目に合っとるかも知れへんのを、黙ってられるかい。」

「…トウジ…」

 入らぬ所でトウジの『男魂』が再燃してしまっていた様だ。
 まぁ、ケンスケとてそれほど冷たい性格では無いし、トウジの言い分は尤もだ。何より大義名分を持って外の撮影が出来るのに越した事は無かった。

「全く…どいつもこいつも物好きばっかだよ…」





 後僅かで発進準備が整う所で、唐突に発令所のドアが開いた。
 そこには包帯を身体中に巻かれ、痛々しげな様相をした少女。

「レイ?どうしたの?」

「………」

 レイは黙してミサトの傍までやって来る。しかしその目線はしっかりとモニタを見据えていた。
 通常EVAのパイロットは作戦行動中如何なる場合にも備え、何時でも出撃出来るよう待機しておかねばならない。当然、ミサトもそれを諌めようとした。

「今は作戦中よ。パイロットは待機室で…って言っても零号機は動かせないか……副司令。」

「構わんよ。」

 振り返り白髪の初老に向かい許しを請う。好々爺は問題無いとばかりに軽く頷いた。
 ミサトは横目でレイを見、そして彼女と同じ様にモニタを見据えた。

「見ておきなさい。あれが私達の敵よ。」

「………」

 少女が今何を思っているのかは、ミサトには解からない。
 同じ存在?同じ種族?レイの元になったモノと同じ存在が、この街目指してやって来る。少女に対し憎しみは無い。寧ろ慈しみ。彼女を守りたい。しかしそれはミサトには出来ない。何れこの少女も戦場ヘと駆り出すであろう自分。そんな自分にミサトは嫌気が刺す。
 だが。それ意外は全力で少女を守りたかった。少女が人として生きていく為のものを守りたかった。それがミサトがレイにしてやれる、唯一の事だった。





 シンジは三週間振りの高揚感に、心地好く身を委ねていた。
 専属パイロットとは言え、実際にEVAに乗る機会が早々ある訳では無い。実戦か起動試験の時ぐらいのものだ。ここ三週間はData取りの為のシンクロ実験が主だった為、実際に搭乗したのは初戦以来今日が始めてだ。
 直接シンクロを果たしたシンジには、既に不安材料は微塵も無かった。初号機は完全に自分の支配下にあり、最早揺るぎ様が無い。初号機から与えられた情報と知識は、シンジに全てを教えていた。
 そして何よりもシンジは、この高揚感に完全に魅入られていた。魂が解き放たれる様な、全ての束縛をかなぐり捨て、己が存在だけが確固たるモノとして、そこに有る。もう、何者も彼等を押し留める術は無いのだろう。

 そして今。視界の端に映ったウインドウには、彼の記憶通りに第四の使徒が現れ、その見難い姿を爆炎の中に晒している。
 彼の倒すべき敵。二つ目の駒。約定された彼の来訪。
 第四使徒。シャムシエル。

《シンジ君!行けるわね?》

「何時でもどうぞ。」

《練習通り、射出後A.Tフィールドを中和し、パレットガンの一斉射。良いわね?》

「了解。」

 『効きっこ無いんだけどね。』とは流石に言わない。どうせ使って見せなければ理解出来ない人間達ばかりだ。それでも居てもらわないと組織が成立たない以上、致し方ないと割りきっていた。






 三人の少年少女が、山間の境内への道を昇って行く。街は静まり返り、何時もは五月蝿い蝉時雨も、今はぴたりと止んでいた。

「ちょっとっ!…ど、何処行くのよっ!?」

「高い所から探した方が早いさっ!ここからなら街が一望出来るっ!」

「ふぅ…どや?居そうか?」

「んー…ダメだな…人っ子一人いないよ。」

「やっぱもう非難しとるんかいのぉ…」

 ファインダー越しに比較的近い市街近辺を覗いては見てるが、ケンスケの視界に人影は入ってこない。一方でトウジとヒカリは、近い所を見渡すがそれらしい人影はやはり見えない。

「ごめん…そうだよね…もう、非難してるよね…」

「まぁ、そう言うな。少なくともコイツは喜んどる。」

「うっひょ~っ!来た来た来た~~~っ!!」

「「………」」

 ケンスケの視界には当初の目的である『敵』の姿が映っていた。
 ぬらりとした体表。けばけばしい色彩。大きな目玉を抱き、節足動物のような足を多数持つ生物。しかしその全体像は、まるで足の無い烏賊その物だ。
 空中を疾走して来た烏賊は、その躯体を不意に止め、その身をゆっくりと起こし始めた。頭部らしき部分をそのままに、身体部分を起こすと同時に、手のような物を左右に広げる。腹には赤色の光球が光り、その周りを囲む様に節足が被う。
 正に異形の物体と呼ぶに相応しい。

「うっげ~っ…アレが敵かいな?…」

「き、気持ち悪い…」

「何言ってるんだよ、二人ともっ!これこそ人類の敵って感じじゃ無いかっ!?」

「どういう感覚しとるんじゃい…それより、ロボットはどないなっとるねん。」

 トウジの言う通り、敵は既に臨戦体制を整えているが、街には他に何の姿も無い。ビルが立ち聳えているだけだ。
 が、突然地下から響いて来る轟音。それは何かレールか何かを滑り来るように、どんどん大きく響いて来る。やがて街の一角でどんと一際響き渡ると、一瞬の静寂が訪れた。
 化け物の近い位置で変化は起きた。立ち並ぶビルの一つ。その一面が唐突にシャッターの如く開かれたのだ。

 そしてそこに現れたのは…

「来たーーーーっ!!エヴァンゲリオンだっ!!」

「アレが…」

「…紫の、鬼?…」

 興奮状態で嬉々としてカメラに収めるケンスケとは違い、トウジとヒカリは明らかに脅えた様子でその威容を見ていた。
 これから始まる得体の知れぬモノ共の戦いを思ってか?
 それとも、





 今回は命令無視も止む得ないとシンジは思っている。使徒を倒す為ならば禁固の一週間や二週間は、甘んじて受けるつもりだ。今のシンジには使徒を倒す事が何よりも優先されていた。

「A.Tフィールド。展開。」

 瞬間、初号機を中心に視覚出来ない何かが広がる。
 今のシンジは世界中の誰よりもA.Tフィールドの何たるかを理解しているだろう。物理的にどうとか、光学的にどうとか、そんな物はA.Tフィールドを知る為に何の肥やしにもならない。シンジはサード・インパクトで既にそれを体感していた。
 A.Tフィールドとは「自分自身」だ。自分という存在を広げる。大きくする。それが『展開』と言う現象を起こす。そして自分自身を相手に干渉し、相手の殻を取り払うのが『中和』。相手を完全に拒絶し排除しようとすれば『消滅・破壊』という現象を引き起こす。
 一方で自分の内に引き篭もれば、A.Tフィールドは反転し『アンチA.Tフィールド』となり、全てを捕り込もうとする。まるで擬似ブラックホールの如く。
 A.Tフィールドとは言わば“存在”の磁場だ。その存在が強く在れば在る程、壁は強固に堅牢になって行く。存在意思が形成する磁場。思いが強ければ強い程、その強度は増し大きさも変化する。
 そして今、シンジは自分。つまり初号機に自分を重ね、その周囲へ僅かにA.Tフィールドを広げたのだ。

『さて、先ずは見極めようか?』

 パレットガンを受け取り、ビル影から踊り出る。と同時にA.Tフィールドを拡大、接触、中和まで一瞬で終了させる。どうやらこの使徒は意外と“存在”が弱かった様だ。

『ま、当然か。昔の僕でさえ中和出来てたんだから。サキエルよりは弱いな…問題は…』

 ミサトの指示通りパレットガンを発射。が、流石に以前の二の轍は踏まない。一点照射で数十発打ち込んで、即移動。再びビル影に入り、機を見て再び正射。広範囲に爆炎を齎す劣化ウラン弾では、元々使徒に傷一つ付くまい。それよりは鉄鋼弾等の方が余程効き目があると言うものだ。
 伊達に射撃訓練まで受けていた訳ではない。
 その辺をミサとも理解はしているのだろうが、如何せん頭が硬い。突飛な事は思い付く癖に柔軟性に掛けている。

 再びビル影に身を潜め、様子を見る。が、シンジには何となく解かっていた。
 気配までは行かない。どっちかと言うと勘だ。

「来る。」

 その場を飛び退く初号機。次の瞬間、光の鞭がパレットガンとその周囲を切り刻む。一瞬で瓦礫と化した兵装ビル。
 一度引き戻る様に爆煙から光の筋が消え去り、再び煙を突き破ってその牙を剥き初号機へと迫る。が、初号機は寸での所で光の鞭を回避し、間合いを測って行く。

『…よしっ…見える…』

 一番懸念していた事。それがこの使徒の最大の攻撃力である、この光の鞭だ。前回は運良くぎりぎりの所で逃げおうせていたが、今回は集中してさえいれば複雑な鞭の軌道とはいえ、避けられない程ではない。
 実際には、今のシンジはかなりの確率で鞭の軌道を見ているのでは無く“読んでいる”。今この状況で解かれと言う方が酷だが。
 でなければ、先端が音速を超える様な軌道を、そう易々と見える訳が無いのだから。





 三人の少年少女は目の前で繰り広げられる、異形の戦いに魅入られ、動けなくなっていた。一方で、恐怖と不安も徐々に募っているのだが。

「なんやっ、押されとるやないか…大丈夫なんか?…」

「は、早くシェルターに戻ろう…」

「…すげー…」

 一番この状況にはしゃいでいたケンスケが、何時の間にか青い顔でそれでもカメラを放さず呟いた。ケンスケの口調に違和感を感じたトウジが、彼の横顔を見る。
 彼は冷めた顔でこめかみに汗を掻きながら呟いた。その汗は、果たして熱さの為だけだろうか。

「ケンスケ?」

「すげーよ、あいつ。あの攻撃を紙一重でかわしてやがる…一体どんな奴なんだ?…あのパイロット…」





 もう一人。その事実に気付いた者が居る。リツコだ。
 目の前を流れる観測データは、明らかに鞭上の先端部分が音速を超えている事を、明確に示していた。

「…まさか…あの子、あの攻撃が見えているの?…」

 リツコの呟きは隣にいたミサトにも聞こえていたが、今はそれ所では無かった。予想外の攻撃に不意を付かれた形になったが、獲物を失っては攻撃に幅が利かない。
 ミサトとしては中距離で仕留められるならば、無理をして近距離戦闘をシンジに強いる気にはなれなかった。

「シンジ君!予備のライフルを出すわ!受けとってっ!」

 返って来た答えは、全く乱れの無い、落ち付いたシンジの声だった。

《…見ていなかったんですか?使徒には通用しませんよ。第一この攻撃の中まだ素人同然の僕にどうやって照準を合わせろって言うんです?》

 明らかに冷やかしの科白だ。この攻撃をかわしながら、こんなに冷静に返答している癖に、のうのうとのたまう少年。
 こんな言い方をされれば誰だって頭に来る。

「イイから言う事を聞きなさいっ!!死にたいのっ!?」

《死にたくないから言ってるんですよ。》

「いい加減にしなさいっ!」

《それはこっちの科白ですよ。無駄口叩くしか無いんならこっちで勝手にやりますよ。》

「何言ってんのっ!!命令違反よっ!!」

《初号機、近接戦闘に移ります。》

「ちょっ!?シンジ君!!」

 怒り心頭のミサトの言葉を最後に、シンジからの反応は消え去った。
 と同時に、控えめな声でマヤが名乗りを上げた。

「…あのぉ~…回線、初号機から切られてます…」

「……くぅ~っ……あのクソガキゃ~っ!!」

 怒り狂う大魔人ミサトに、思わず首を竦ませるオペレーター陣。隣で呆れた溜息を漏らし、呟いた言葉はミサトには聞こえなかった様だ。

「…どっちが子供か判らないじゃない…」

 もう一人。溜息を付く者が居た。皆の頭上から鶴の一声が下る。

「…構わん。やらせて見なさい。」

「副司令!?」

 ミサトが険しい顔で振り返る。当然だ。それは命令違反を良しとする事にもなる。軍規が乱れる事もあるが、何よりミサトには子供達を危険には晒したくは無かったのだ。だがそれは今この状況では、単なる足枷にしかならない。
 勿論、冬月もその事は判っていた。ミサトが情に流されている事も、シンジが独断先行し過ぎている事も。
 しかし何より冬月にその言葉を言わせた理由。

『碇が怖れる息子…さて、どう戦う?…』





 シンジは二本の鞭の攻撃をかわしながら、一度離した間合いを徐々に詰めつつあった。
 そして、同時に弱点も。鞭の最大攻撃距離が限られているのだ。

『…コイツ…旋廻が遅い。』

 シャムシエルの攻撃をかわし、右側へと回り込む。すると左手の鞭で牽制をしつつ本体を左旋廻させ、右手からの攻撃を再開させる。
 つまり、シャムシエルには背後が死角になっているのだ。一度入り込めれば旋廻仕切るまでに時間を要する。本体の動きは余りに遅かった。どうやら飛行形態と戦闘形態では移動速度に差が生まれてしまう様であった。

「ならっ!」

 シンジは今まで描いていた円軌道の回避運動から一転、突然直線上に突進し始めた。唐突に変えられた回避運動を音速を超える運動で制御していては、そう簡単に初号機の動きには付いていける筈も無い。
 もた付いている二本の鞭を尻目に、初号機は猛烈な勢いで突き進む。

『貰ったっ!!』

 ここでは以後に回り込めば使徒に攻撃を回避する事は出来ない。
 シンジは思った。ミサトも思った。リツコも思った。冬月も思った。マヤやマコトやシゲルもそう思った。トウジやケンスケやヒカリまでもがそう思った。誰もが思った。
 が。

 唐突にシンジの中で警笛が鳴り響いた。
 後ろに流れて解け込む周囲の風景。中心には視界に捉えて離さない使徒。
 その使徒から光の点が二つ生まれた。
 その瞬間、シンジは目を見開きその身体を横に投げ出した。
 ビルを薙ぎ倒し爆煙を上げて転がり込む初号機。

「な、何だっ!?」

 シンジには自分自身に何が起こったのか解からなかった。それを理解する前に自身の体が突然浮き上がるのを感じた。使徒にその足を捕まれ、空中に放り投げられたのだ。もう一本の鞭が狙った様にアンビリカルケーブルを切断する。
 また同じか。という思いがシンジの中を過ぎる。と同時に不甲斐ない自分の有様にも。
 飛ばされた浮遊感の中、シンジの視界に使徒の姿が映った。

 使徒の鞭は四本に増えていた。

「…やってくれるじゃないかっ…」

 呟いた瞬間、衝撃。
 シンジは背に痛みを感じながら、その身を起こそうとする。使徒は待ってはくれない。自分の手で倒さなければ。

《シンジ君?!シンジ君返事しなさいっ!無事なのっ?!シンジ君!?》

 唐突に通信が入る。どうやら衝撃の際、スイッチが入れてしまったようだ。ミサトの声を五月蝿く思いながら、シンジはその身を起こす。

「そんな大声出さなくても聞こえてますよ…っつつ…」

 上半身を起こすと左手に神社の境内が見える。どうやらまた同じ山に激突したようだ。

「…分かってますよ…倒せば良いんでしょ?倒せば……………」

 ふと…
 何かが脳裏を過ぎる。
 そして、左手を見た。

「……………何だ。こりゃ。」

 ホントに思った。まるで冗談の様に、初号機の開かれた指の間其々にモノがあった。
 一つはカメラを持って涙でぐしゃぐしゃの顔を向けた少年。
 一つは頭を抱え同じく涙でぐしゃぐしゃの顔を向けた少年。
 一つはセーラー服着て涙でぐしゃぐしゃの顔を向けた少女。

「何だこりゃ。」

 本気で思ってた。





「洞木さんっ!?」

 今まで誰一人聞いた事の無かった少女の叫び声が発令所に響いた。
 と同時に、スーパーコンピュータMAGIが映像解析した結果を情報としてモニタに弾き出す。

「レイのクラスメイトッ!?何でこんな所にっ!!」

「どうするのっ!?このままじゃっ…」

《初号機、活動限界まで残り3分50秒!!》

 ミサトは形勢が不利になった事を瞬時に見て取り、撤退を決め込んだ。先ずは人命第一。
 使徒との距離間は…まだある。

「シンジ君っ!!その子達をエントリープラグに入れなさいっ!救出後後退。回収ルートは34番!山の東側よっ!!」

 ミサトの案に誰も文句を言わなかったのは、Nervの首脳陣たる残り二名が何も言わなかったからだ。今のネルフに人命を無視してまで勝つ事に意義を感じている者は居ない。
 たった一人を除いては。





《聞こえたわねっ、シンジ君!?》

 シンジは忘れていた。欠片も記憶には留めておかなかったせいか、事態に直面してみて漸く思い出した。

『そう言えばこんな事もあったなぁ…』

 今のシンジにはその程度の事だった。あの頃は感情に任せてしか動いていなかった。『人殺しになるくらいなら』『ミサトは本気で自分を思ってないから』そんな子供じみた感情で、トウジ達をエントリープラグに乗せ救出したのだ。
 だが。今のシンジにして見れば、『サード・インパクトを起こす位なら人殺しでも構わない』というのがシンジの思いだ。況してや今のシンジは、既に地球上で最多の大量殺戮をした人間という事にもなる。
 そのような些細な事で自分の目的を見失うような些末な感情は、当の昔に捨て去っていた。

 一方でその胸の内にとぐろ巻く、黒い臭気。
 『ここでこの三人殺したら、さぞミサトさんが怒るだろうなぁ』とか『綾波が叫んでたな…洞木さんかな?潰したら怒るかな?』とか『そんな事したらアスカに殺されるだろうなぁ』とか『所で、何で委員長が居るんだ?』等など。
 最早シンジの心から、罪悪感というものが消え去りつつあった。

 だからだ。ミサトの命令は、甚だ最良の選択には聞こえなかったし、サード・インパクトを起こしてまで救う一つ二つの命に、一々構ってなど居られなかった。

《シンジ君!!聞いてるのっ!?》

「…………無視します。戦闘再開。」

《ちょっ!?シンジ君!?》

「戦闘地区を移します。アレの回収宜しく。」

 即座に繋がっていた通信を遮断する。
 歳後の一言はちょっとした気紛れに近い。レイがヒカリの名を叫んだ。つまりはどういう訳か二人は知り合いの関係。もっと言えば、あのレイが知り合いと認めるのは余程の事だろう。
 補完計画の要となる少女。今彼女を敵に回したくは無い。それにゲンドウによって変化したレイが、更にヒカリと接する事でどう変わるのか?それを知りたかったのかもしれない。

 三人を挟み込まない様に左手を持ち上げる。それでも多少の傷は負ったかもしれない。が、そこまではシンジも面倒は見きれなかった。
 正面を見る。使徒は後僅か100mの所まで近付いていた。それでも攻撃を仕掛けてこないのは、動かない初号機を警戒しての事だろう。
 シンジは右手を地に付けたまま、その身体を浮かしドロップキックを使徒に食らわせる。予想外の反応だったのか、シャムシエルは攻撃する暇も無く1kmは吹き飛ばされ、初号機もその反動で山の麓まで跳び着地した。
 立ち上がり際、ちらと後ろを見て、モニタを拡大。大丈夫。三人は生きている。後は回収反に任せる事にする。
 シンジは再び正面を向く。
 使徒はその躯体をのろのろと起き上がらせようとしていた。

「…さて、もうネタは尽きてるだろうなぁ?…六本目は勘弁して欲しいけど…」

 漸く1km先で使徒がその体制を整えた所だ。使徒の鞭の長さは目算で500m前後だ。この距離では届くまい。使徒も先の攻撃を警戒してか近寄ってこようとはしない。ゆっくりと肩のウェポンラックからプログレッシヴナイフを取り出す。
 睨み合ったまま動かない初号機と使徒。
 横目に見たアラート表示は『2分58秒』。
 シンジは暫し思案した後、決めた。

「…やって見るか。」

 シンジは静かに息を付いた。

 静寂の間。

 そして、

「はっ!!」

 瞬間、初号機は掻き消えた。

 否。

 使徒の500m先。“五体”のEVA初号機が、居た。
 慌てた様に鞭を振るうシャムシエル。
 五体のEVAが突進して来る。
 一本目が一体の初号機を貫く。
 が、その姿は陽炎の様に揺らめいて消えた。
 二本目が貫く。
 二体目が消える。
 三本目が貫く。
 三体目が消える。
 四本目が貫く。
 四体目が消える。

 そして、
 歳後の一体はシャムシエルの懐に居た。

「…さよなら。」

 深く。
 深く。
 深く。

 ナイフは彼の懐を抉り、その命の灯火を吹き消した。





 静寂が支配する発令所。
 人々の顔は青褪め、誰も一言も発する事が出来なかった。
 最も始めに思考を復帰させたのは青葉シゲルであり、彼はその職務を全うする為声を捻り出した。些か擦れ切った声ではあったが。

「…も、目標…使徒、完全に…沈黙…しました…」

 それは誰しも解かっていた。だが、

「…な、何なの……今の…」

 ミサトは自分が見たものを信じられなかった。確かに。初号機は五体いる様に見えたのだ。

「…そんな、残像が発生する程の速度で、EVAが動ける訳無いわ……」

 リツコが驚愕に目を見開く。理論上、否。有り得る筈が無いのだ。実体化する程のスピードで残像を残して移動する生物等。

『……成る程な…これが碇の怖れる理由と言う訳か…一体何者だ?…』

 素性も判っている。本人だと確認も得ている。SEELEの刺客と言う事もあるまい。だがそれ故に、不合理な点も多い。冬月にさえ彼が何者なのかは推し量れなかった。
 だが、今はそれをする時ではあるまい。何よりこの、止まってしまった時計を勧めなければならない。
 それが出来るのは今は自分だけだ。

「……葛城君。」

「はっ!?…さ、作戦終了!第一種戦闘配備を解除っ、第二種戦闘配備へ移行!!回収班、初号機の回収、及び民間人三名の保護を最優先にっ!」

 何とか時計は進み出した様である。

『やれやれ…』

 一息付いた初老だったが、予想外の所から新たな事態は起きた。
 初号機が突然膝を付いて倒れ込んだのである。
 直ぐ様異常に気付いたリツコはマヤに指示を出す。

「初号機との通信を強制接続!」

「は、はいっ!?」

 数秒の後、MAGIの強制接続は、エントリープラグの中のシンジを映し出し、音量調節のされていなかった彼の声が響き渡った。

《痛たたたたたたたたたっっっっ!!!!》

「……な、なに?」

 大音響の中、唖然とする一同。モニタには足を押さえて悶絶するシンジ。
 その意を瞬時に理解したのは、Nervが誇る科学者、赤木リツコ唯一人だった。

「神経接続を強制カットッ!!」

 マヤが即座に解除キーを入力する。例えどんな状況でもリツコの声に即座に反応出来るのは、彼女の本能のような物だからかもしれない。
 神経接続が解除され、初号機の通信が再びモニタから消え去った。
 何が起こったか分からないのは皆同じ。それを聞いてくれたのは他でもない、彼女の親友であった。

「……一体、何なの?」

 ふぅと一息付いたリツコは、呆れた様に説明を始めた。

「考えれば直ぐに分かる事だわ。無理な運動をして筋肉に負担を掛けたら、人間は如何なる?」

「えっ?……っと、筋肉痛…」

「そう言う事よ。EVAにあんな常識外れの負担を掛けたんですもの。きっと筋組織がボロボロだわ。」

「うぞっ!?EVAが筋肉痛ぅっ!!??」

 唖然とするミサトに、リツコは吶々と説明する。その顔は些か疲労に満ちていたが。勿論精神的に。

「本来EVAには人間の身体構造を模して設計されているのよ?だからこその人造人間。人間に出来る事は殆ど再現可能だけど、人間以上の能力を引き出せば、あっという間に肉体は崩壊を起こすわ。」

 唖然としているのはミサトだけではなく、オペレーターの人間達も同様だ。

「はぁ…これで補修に一週間は掛かるわね…また徹夜だわ…」

「そ、そりゃまた、お気の毒様…」

 ミサトには引き攣った笑みを浮かべる事しか出来なかった。





 回収されたトウジ、ケンスケ、ヒカリの三人はその身柄を黒服の男達に取り囲まれて、Nerv本部に収容された。
 一つの部屋に通され黒服達が去った後、再び彼等の前に現れたのは妙齢の美女と、蒼銀髪の少女だった。

「あ、綾波さんっ!?」

 ヒカリは驚いた。何処からとも無く現れた黒服達に取り囲まれた時も驚いたが、それ以上に今度は驚いた。
 現れたレイはたたたたとヒカリに走り寄り、抱き付いたのだ。涙を浮かべはしなかったが、レイは目蓋をぎゅっと閉じ、光の首に抱き付いていた。

「な、何で綾波さんがここに?…」

「まぁまぁ。それは後で説明するわ。それより、何であなた達あんな事したの?危うく死に掛けたのよ?」

 美女の方が二人の少女の様子を微笑ましく見つつも、その口調だけは厳しく三人を諌めていた。それに応えたのは短髪のジャージを着た精悍そうな少年である。

「済みませんでしたっ。確かに、Nervの戦いにも興味はありました。せやけど、非難勧告の直前に綾波さんが居無くなったのを、委員ちょ…洞木さんが心配しとったんです。それで、ワシ達が一緒に探してやろうと…」

「…洞木さん…」

 当時の話に反応したレイは、顔を上げヒカリの顔を見た。ヒカリは申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめんね。綾波さん…私が余計な事鈴原に頼んじゃったから…心配掛けちゃって…」

 そう言ってヒカリは、美女の方にも頭を下げた。

「…本当に、済みませんでした。鈴原達は悪くないんです。許してあげて下さい…」

「そ、そんな事無いんです。始めに出ようって言い出したのは俺なんです。偶々綾波が居ないって知って、それで俺が戦闘見たさに二人を連れ出したんですっ!悪いのは俺なんです。本当に、済みませんでしたっ!」

 揃って三人が頭を下げるのを見て、美女―――葛城ミサトはくすりと笑みを深めた。
 目の前ではきょとんとしたレイが、何が起こっているのかいまいち分かってない顔で佇んでいる。
 ミサトは安心した。レイにも友達が居た様だ。それもこんなに思いやりのある少女が。そして正義感溢れる正直者の少年と、自分本意が珠に傷だが相手の気持ちをを立ててやれる少年が、レイの傍に居る事を知ることが出来たから。
 レイはまだまだ人として成長するには、色んな事を学ばなければいけないのだろう。そういう意味では自分一人が頑張った所で、隔たった考えをレイに植え付けてしまうだけだ。
 それよりは同年代の子供達と、こうして一緒になる事の方が余程レイの為にもなる。

「成る程。事情は判ったわ。私はNerv作戦本部長の葛城ミサトよ。と同時にレイの保護者でもあるんだけどね。」

「え?あ、あなたが…?」

「えぇ。それに、レイはエヴァンゲリオンのパイロットでもあるの。だから、非常事態宣言が発令される前に、既にNervへ向かっていたって訳よ。」

 さらっと流された事実。それを理解するには子供達の経験不足の頭は、即座に反応出来なかった。
 だが案の定、

「「「……えぇぇぇぇっっっっ!!??」」」

「ほ、ホントなの?綾波さん!?」

「えぇ。」

 短い返事。しかし確実な肯定。ヒカリはぽかんと口を開けて固まってしまっていた。横でトウジも大口を開けている。反応したのは軍事マニアだけだった。

「じ、じゃあっ!?さっきのエヴァンゲリオンを操縦してたのは…」

「あぁ、それは違う子よ。レイはこの通りだしね。それで、あなた達?この事は他言無用よ?もしEVAの事を口外するような事があれば、逮捕されるから。注意して頂戴。」

「「「は、はい。」」」

 三人は未だ現実感の無い顔で、ぼけっと返事するに止まった。
 ミサトはちょっとキツ過ぎたかなと思いつつも、最後にお茶を濁してこの場を締めた。

「ま、余程の事さえなければそんな事にはならないから安心して。ただ、一つだけ御願い。レイの事。これからもよろしくね?これは、家族からの御願い。」

 そう言って軽くウインクを飛ばすミサト。レイは再びミサトの言葉に心揺らされていた。
 そしてヒカリは、

「…分かりました。綾波さんとはまだ友達になったばかりだけど、仲良くなれそうだから…これからもよろしくね?綾波さん。」

 レイは何と言って言いか分からず、結局こくりと頷いた。その頬は僅かに紅を帯びていたが。
 一方で盛り上がる男二人。

「任せて下さい、ミサトはんっ!!綾波の事とやかく言う奴が居ったら、ワシがパチキかましたるさかいにっ!!」

「俺だってっ!綾波に近付く不届きな奴はこの相田ケンスケが排除して見せますっ!!お任せ下さいっ、ミサトさんっ!!」

 ミサトは握られた両手に引き攣った苦笑で、ちょびっとだけ例を任せた事を不安に思っていた。
 だが、何時の世もお調子者はお仕置きを受ける運命らしい。ミサトは彼等の後ろに漂う、不吉なオーラを見てそう覚った。

「す~ず~は~ら~っ…あ~い~だ~っ…」

「「げっ。」」

「調子に乗るんじゃ……なーーーいっ!!!」

 部屋の中を駆けずり回る三人を微笑ましく思いながら、ミサトはレイを見た。
 まだ、彼女の中では色々な物が掻き乱されている様な状態なのだろう。その表情に笑顔は浮かばない。
 しかし。
 確かに、ミサトは感じていた。
 レイの表情が先程までの不安気なものでは無く、

 僅かに、安堵を生んでいる事を。

「待ちなさ~~~いっ!!!」

「お、お助け~~~っっ!!」

「か、堪忍や~、委員ちょ~~~っっ!!」





 更衣室に腰掛ける少年は、薄く笑みを浮かべ佇んでいた。
 リツコにはそれが、確かに嘲笑っている物だと確信した。

「…何故、命令を無視したの?」

「赤木博士に言う必要は無いでしょう?」

「答えなさい。」

「…言ったでしょ。葛城さんの命令は効力を発揮しなかった。あのままでは何時まで経っても形勢は不利なままだった。だから近接戦闘に切替えたんです。」

「それは葛城一尉が決める事です。貴方にその権利はありません。」

「でも戦ってるのは僕です。」

「……まぁ、いいわ。では、何故民間人を助け様とはしなかったの?」

「尋問なら葛城一尉がやるべきなんじゃないですか?」

「答えなさい。」

「……そんな事をしていたら、あっという間に使徒にやられてましたよ。」

「我々は人類を救う為に戦っているのよ。目的と手段を履き違えないで。」

「それは貴方達でしょう?数人の命と人類全て。どちらが思いのか判るでしょ?」

「だからと言って僅かな命を粗末に扱う事等許されていい事ではありません。命令通り一度後退して体制を立て直す事だって出来た筈です。」

「あの時後退していれば、確実に回収スポットから使徒は本部に攻め込んで来ていた筈です。EVAを回収した後に再出撃している間に、本部は壊滅。人類も滅亡していたでしょうね。」

「そんな事どうして貴方に解かるのかしら?使徒がそれ程の知能を持っているとはとても思えないわね。」

「解かりますよ。戦っているのは僕ですよ?第一見たでしょ。僕が回避行動を突然変化させたのに、奴は即座に別の攻撃を繰り出して来た。アレで知能が低いなんて言われても、それこそ説得力が無いと思いますけど?」

「………」

「もうお終いですか?早くシャワー浴びに行きたいんですけど。」

「まだよ。最後のアレ。どうやったの。」

「…やっと赤木博士らしい質問ですね。でも、知りませんよ。」

「嘘ね。」

「嘘じゃないですよ。本当に知らないんだから。第一知ってたら、あんな酷い筋肉痛になる様な無茶な事、態々自分からしませんよ。」

「………」

「まぁ、ただ出来るかなと思っただけです。使徒の光の鞭は四本、だったらデコイを四体分作ってやれば、案外引っかかるかなと思って。ただ突っ込んだらまた正面からやられるだけでしたからね。」

「理論上あんな高速でEVAが移動出来るようには設計されていないわ。それでも出来ると思ったの?」

「だって動いてたじゃないですか?一番最初に使徒と戦って、僕が気を失っている時。記録、見ましたよ?速かったじゃないですか。全然映ってませんでしたよ?」

「………」

「何を言いに来たんです?赤木博士。LCLが乾いてきちゃってるんで早く落としたいんですけど…」

「………」

「…分かってますよ。禁固刑って奴でしょ?」

「………」

「別に気にしてませんよ。自分で命令破ったんだし。ここが軍隊だというのも覚悟してます。」

「…ごめんなさい。シンジ君…」

「別に、赤木博士が謝るような事じゃないでしょう。僕がやった事です。で、どの位ですか?」

「……一週間よ…」

「分かりました。と、その前にシャワーくらい浴びさせて下さいね?このまま一週間なんて御免ですから。」

「………」

「それじゃ。」

「………」

「…リツコさん。」

「!?」

「心配してくれて、有り難う御座います。」

「………」

 微かな音を立てて、扉は閉まった。





 コールが鳴り響く。
 一回。
 二回。
 三回。
 四回。
 五回。
 ………
 短い電子音が暗い室内に響き、デスクの上の電話機が、録音を始めた。

《あ、もしもし?リツコ?居ないの?

ま、いいや。あのさ、気にすんじゃ無いわよ?

大体さ、態々貴方が行く必要なんか無かったのに…

アレは私の役目なんだから。無理しちゃって…

あの子に何言われたか知らないけどさ、

あんまり気にするんじゃ無いわよぉ。

そんなんで落ち込んでたってしょうが無いんだからさぁ。

ああいう捻くれたガキはね、

一回ガツーンと言ってやん無きゃ分かんないモンなのよぉ。

ほら。要するに、『飴と鞭』って奴。

だから、ガツンと言ってやったんなら、

今度は思いっきり甘えさせてやんなきゃ。

今度家でパーティ開くからさ。

ほら、今日保護された三人。レイの友達なの。

あの娘も漸く幸せってものを掴み掛けてるのよ。

だからさ。あいつも連れて一緒に来なさいって。

私も手伝うからさ。同い歳の子達に会えば

あいつだって学校行きたくなるって。

だから、元気出しなさいっ。

何時までもあんた一人で塞ぎ込んでたって良い事無いんだからねっ。

仕事ばっかに労力使うんじゃ無いわよっ。

んじゃ。》

 再び電子音。

《メッセージが、録音されました。録音メッセージは、一件、です。》

 静謐。

 暗い室内で、僅かに空気が動いた。

「……私には分からないわよ………彼が何を考えてるかなんて……」

 女は僅かに声をくぐもらせて、再びベットに顔を埋めた。






[続劇

[to Contents

First edition:[2000/06/22]