^







迷う度、悩む度、暗闇は押し寄せて来る


抱締める度、愛する度、叫びになる






傷付け合う事でしか、思いを伝える事は適わず


安らぎを持つ術無く、散って逝く人もいた


嘆きの中、希望の中、命の意味を覚え


孤独な現実だけを、この眼は見つめ続けた


遥かに続く刻も、永劫には成り得ない






信じたのだ


だから旅立つ


思い出に立ち止まる事無く



誓ったのだ


だから走り続ける


恐れも揺らぎもかなぐり捨てて






裏切りでも


憎しみでも


それが絆だと言えるのならば



分かれ


背け


我と言う存在を忘れろ






その時こそ我は


伝説となろう・・・






 

雨、逃げ出した後






 窓の外は薄暗い。
 採光されているとは言え、ジオフロント内部に採り込まれる光量は地上のそれに依存する。まだ朝にも関わらず外がここまで薄暗いのは、他ならぬ地上で雨が降りしきっている為だ。空は重々しく曇り、景色を溶かし込む様に延々と振り続いていた。

「…以上が、先日の戦闘報告です。」

 外の状況を知ったのは、薄闇に映っていた人外の者達の戦いがぷつりと切れると同時に、低い唸りを伴なって部屋に光が射し込み、女の声が静かに響いた後だ。
 男は、今まで黙して開く事無かった唇から、漸く一つの溜息を漏らし応えとする。

「…何度見ても凄まじいな。正直ここまで出来るものとは…」

 冬月にしてみても、この結果は驚愕に値した。通常運用が適えば確かに桁外れではあるが、ここまで常軌を逸した行動が可能とは夢にも思わなかったし、暴走した姿こそEVA本来の本性が剥き出しにされた姿で或ろうと思っていたからだ。ところがシンジはその遥か上を実現させて見せた。これでは“使徒”や“鬼”等と言ったモノより、まるで…

「…神の御技、か…」

 正直そうとしか思えない。EVAとしてのスペックを遥かに越えた動き。それを遣って退けたのは紛れも無く、己の横に座る男の血を分けた息子なのだ。
 冬月にはまだ見えていない。シンジが何を思って勝利への道程を直走ろうとしているのか。
 項垂れる男を横目に報告を続けさせる。リツコが僅かにトーンを落として先を続けた。

「サードチルドレンは現在、作戦行動時服務規定違反に寄り、一週間の禁固刑となっています。」

「そうか。」

「…よいのか?」

 ゲンドウの了承に些か不審気に問い質す冬月。ゲンドウの応えは尤もであり、しかし素っ気無かった。

「軍規は軍規だ。特別扱いでは周りに示しも付かん。」

 その件は終わりだと言わんばかりに話を切り換えるゲンドウに、諦めの溜息を吐く冬月。冬月には判っていた。ゲンドウがシンジを避け始めている事を。先日までの覇気は身を顰め、身を屈める男。彼は息子に対し一つの不信を抱いている。「恐れ」と言う名の不信を。
 今までの冷徹な男とは思えない態度は、今後彼の命取りともなるだろう。そして彼はまだ何か一人で抱え込もうとしている節がある。それは彼自身の思い故なのだろうが…

『…まったく。手の掛かる生徒だ…』

 取り敢えず。冬月は彼の補佐役として、彼と彼の息子のメンタルケアまで請け負わざるを得なくなり、早々に為すべき事項として頭の片隅に書き加えておく。ユイ君…私は君の代りじゃ無いんだがな?
 そんな冬月の内心を知る筈も無く、ゲンドウはリツコに質問を続けた。

「で?これは他のEVAにも可能と見るべきかね?」

「いえ。本来初号機のスペックとて、成し得る事ではありません。しかし、筋組織を破壊までしたとは言え、初号機はそれを成し遂げました。見て下さい。初号機が消失した時点で、初速は光速の四分の一、最高速時で三分の一まで出ています。MAGIとEVAのレコーダーでのみ辛うじて観測出来ていました。ですが、他のEVAで同様の事が出来るかと言えば、答えはNOです。MAGIもその可能性は否定しました。」

「では何故初号機はあのような事が出来たというのかね?」

「正確な所、私にも…ただ推測は幾つか。」

 相槌を打ち先を促す冬月。リツコはそれを受け己の考えを述べてゆく。一つ、初号機が既に覚醒している可能性。一つ、初号機が『PROT TYPE』であるが故、本来のスペックが引出された可能性。一つ、EVAが使徒のコピーである以上、その能力も未知数であり、今回はその一端が現出した可能性。
 だがどれもその決定的証拠は無く、所詮推測でしか無い事は提示したリツコ自身が良く分かっている様だった。

「そして、最後ですが…私はこれが最も可能性が高いと思っています…」

 怪訝な顔を浮かべる冬月。ゲンドウは今まで臥せていた視線をリツコへと戻す。二人の注意を引いた所で、彼女はこの話の“本題”へと移った。

「サードチルドレンが…『適格者』である可能性…」

 僅かに身動ぎしたゲンドウを冬月は見逃さない。当たりか…
 冬月もゲンドウに知らされていない事ではあったが、そう考えれば全ての辻褄が合って来る。シンジの、本来のEVA制御の理想形とも言えるシンクロ値。EVA本来の運用形態をもってすれば、あの動きにも納得は行く。が、

「しかし、本当に有り得るのかね?彼が今まで全く発見出来なかった『適格者』であると。」

「…分かりません。ただ、もしそうであれば初号機の奇跡的な動きにも納得は行きます。シンジ君の思考制御に初号機は付いて行くのがやっとだった、と考えれば筋組織にあれだけの負担が掛かっていたのも必然になります。ただ、幾つかの矛盾点も出ています。EVAの制御を管制しているMAGIに一切その様な状況が記録されていない事。記録では確かにA10神経を通してコアを仲介して起動していますし、コアも反応を示しています。仮に初号機が独自に適格者とシンクロしているとしても、MAGIの制御を離れてEVAは動きません。」

「つまり彼は『チルドレン』であり、『適格者』では無いと?」

「確かにMAGIはその事実を示してはいます。が…それでは結局…」

「堂々巡りだな…」

 深い深い溜息。ふとそれが己が吐いた物だと気付き、腹の中だけで自嘲する。視線を反らせば、俯いたまま瞳と口を隠し沈黙する男。彼は…知っているのだろう。先程の反応だけでも十分な状況証拠だ。そろそろ茶番も終わりにせねばならんだろう。今やNervは彼の“本心”無くしては前に進めない。

「碇…お前は分かっているのだな?」

 静かに。冬月から流れた重い言葉にゲンドウは漸くその身から呪縛を解き、重々しく息を付いた。僅かの間がこの部屋の広さと侘びしさを意識させる。出て来た言葉はやはり、予想通りであった。

「…恐らく、そうだろう。シンジは直接EVAとシンクロしている筈だ。」

「し、しかしMAGIには…」

「EVAとてある意味MAGI同様人格を得ている。コアという名のな。」

 否定しようとしたリツコを、あっさりと覆すゲンドウ。その言葉の意味はリツコにも冬月にも直ぐ様理解出来た。

「成る程。記録はフェイクか…」

 初号機がMAGIすらも手玉に取っているとすれば話は変わって来る。同等のスペックを持った生体コンピューター。本来EVAの頭脳とMAGIは兄弟、否。姉妹のような物だ。とは言えどちらも所詮は指示された命令を忠実にこなす為の存在でしか無い。となればその差は自ずとその指示を出す者にこそ差が生じる。そしてEVAに指示を出しているのは紛れも無くシンジの筈だ。直接シンクロをしているともなれば尚更であろう。MAGIはまんまと偽物のシンクロ結果を掴まされていたと言う事になる。

「…しかし、そうなると分からんのはお前の息子だ。何故そこまでして事実を隠蔽する?やはりSEELEと絡んでいるとしか…」

「それは有り得ん。」

「何故そう言いきれる?!下手をすればNervはSEELEの手に落ちるぞっ!?」

 当然の帰結を当然の如く否定するゲンドウが冬月には理解出来ない。明らかにシンジはNervを欺こうとしているにも関わらず。その苛立たしさが、冬月の声を否応にも荒げさせる。
 が、ゲンドウは静かにその身を起こし、窓際にその身を佇ませ暫しの無言の後、聞こえるか否かの声音で呟いた。
 果たしてその真意までは、冬月には理解出来なかった。

「…シンジは……俺を恨んでいるからな…」





 闇に沈む回廊。そこに幽かに響く、息遣い。もしその場でそれを聞けば、そこに潜む狂気を感じる事もあるいは出来たのかもしれない。しかし今、その荒い吐息の発信源を見ている者達に、それを知るのは不可能だった筈だ。彼等には彼等の職務を全うする義務があったし、それを責められる訳でも無い。況してや、少年の狂気を知った所で彼等に何が出来ると言う訳でも無いのだから。
 黙々と基礎トレーニングを積み続ける少年は、今その身を冷えた床に手を着き腕立て伏せを百回は超えた所だろうか。その身を漸く床に投げ出し、一度の休憩に入った様だ。そして少年の居る狭く暗く冷たい部屋は、士官対象の比較的小奇麗な物ではあったが、紛れも無く独房以外の何物でもなかった。
 彼等職員二人は、その様子をモニタ越しに横目で確認しながら雑談に興じて居た。実際は、監視だけではなく独房のある区画全般を管理するのが彼等の仕事だ。基本的に刑を受けた者達は受けた刑の重さにも寄るのだが、余程の事が無い限りは略この区画に入れられ刑期を過ごす。実はまだ他にも受刑者を収容する場も有るには有るのだが、この区画に於いて受刑者は規則的な生活を強いられる事になる。とは言え、朝七時にベルで叩き起こされ各自朝食を取った後、昼間では自由。昼食の後も自由。勿論夕食の後も自由であり、独房内であれば読書等の娯楽も可能な限り許されていると言う、果たして刑を受けているのかいないのか疑ってしまう状態になっているのがここの現状である。実はその裏にはNervが軍隊という組織にまで成り切れていないと言う事が上げられるのだろう。そして夜十時にはベルとともに消灯となるのだ。そして彼等受刑者達の監視・世話をするのが彼等に与えられた職務と言う訳である。尤も前述の様に然して忙しくなる様な任務でも無いので、監視の間は彼等とて暇が出来ると言う訳だ。
 そして彼等の目下の話題の提供者は、モニタに映る現在最もNerv内ではVIPとして本来扱われるべき少年である。

「しっかし…毎日毎日良く続くよ。あれだろ?サードチルドレンって第三使徒戦当日に呼出された素人だったんだろ?」

「あぁ。そう聞いてるぞ。おまけに学校にも行かずここに来てからずっと訓練詰めらしい。」

「幾ら人類の為っつったてやり過ぎじゃねぇのか?」

「ま、同情は禁じ得ないがな。でも、サードが自分で志願したらしいぜ?大した責任感だよ、あの歳で。」

「ふーん、そうなのか…しかし、そんなに頑張ってる子供に、命令違反で禁固一週間ってのは厳しくねぇか?だって今本部で動けるEVAの唯一人のパイロットだぞ?んな扱い…」

「上の決めた事だ。あんまり詮索すっと余計なとばっちり食うぜ。」

「だって…その上ってのはサードの父親だろう?」

「…まぁ、あまりいい気のするもんでも無いのは確かだがな…」

 少年が収容されてから三日。全く変化の無い生活には、一見彼の健気さと意思の強さが伺える。そんな少年を見守る彼等の言い分に多分な上層部批判が含まれているのは確かだ。それは既に彼等のみに関わらず、本部の下部職員全体に及んでいた事だった。全人類の未来を守ると言う“正義”の名の元に、崇高なる思いを持って任務につく彼等にとって、少年に対する扱いは僅かながらも組織に対し軋轢と言う小さな波紋を起こし始めていた。尤もそれが彼等の傲慢なる思い込みと罪悪感から生まれた感情であり、当の少年にとってはどうでもいい事であるのだが、計らずもこの事態が彼の目的に有利に働いている事だけは確かであった。





「ちぃと付きおうてくれんか?」

 日焼けした精悍な顔付きの少年は唐突に切り出すと、何時に無い真剣な顔付きで少女に向き合った。背後には何時もの飄々とした顔を浮かべた眼鏡の少年。一瞬不審気に目元が揺らいだものの、特に反対すべき理由も無かったのか素直に頷いた少女は無駄の無い動作で立ち上がる。僅かに不穏な空気を感じ取ったのか、今まで少女と会話に興じて居たヒカリは慌てて声を掛けた。

「す、鈴原?」

「ん?」

「…あ、あの…」

「…そんなに時間掛けんさかい。」

「…で、でも…」

 粘るヒカリにやや呆れたのか、根負けしたトウジは諦め顔で溜息を付くと、少しばかりその表情を崩して降参した。

「…はぁ…わあった。委員ちょも来てくれ。」

「…う、うん・・・」

 唐突な切り換えに戸惑ったのか、別の感情がそこにあったのか、ヒカリは僅かに頬を染め了承する。その様子に内心苦笑するケンスケと、僅かに首傾げるレイ。ヒカリは慌てて三人の後を追い、その心中先までの少年の真剣さとその中に若干含まれた棘のような不穏さを思い出し、少なくとも楽しい会話が待っている事だけは無いのだろうと、少々重い気分に苛まれた。

 人気の無い休み時間の屋上。どんよりと立ち込めた曇り空の下、そこに立つ四人の少年少女。レイとトウジは向き合って沈黙したまま。ヒカリは不安を前面に押し出した表情で二人の斜線から少し離れた所に居り、一方ケンスケは明らかに部外者全として、三人から離れた柵に寄り掛かり遠方を見詰める。ヒカリがおろおろしだした頃、レイの無反応さに押されたのかトウジは漸く切り出した。

「あの紫のロボットのパイロットっちゅうのんは、どないな奴なんや?」

「?…初号機?」

 正直レイにとって少年からこういった質問が来ると言うのは予想外ではあった。彼等の間に接点が見当たらなかったからだ。トウジの言う『紫のロボット』が『初号機』であるという事は、流石に解かる。というか彼等の間で『紫のロボット』と問われればそれ以外有り得ないのだが。とは言え、これにはレイも困ってしまった。パイロットの事等のNervの内部事情をそう大っぴらに話せる物でも無いのだが、まぁ彼等には既に分かっている事なので然して問題も無いかとは思う。トウジが人気の無い屋上へ自分を呼出したのもその辺の気遣いからであろう。その事が問題ではなく、レイが悩んでいたのは他でも無い。

『…碇…碇シンジ……私の心を言い当てた人…不思議な感じ…嫌じゃない…でも…皆を助けなかった…何故?…解からない…』

 心の内がどうあれ、彼女がシンジの事を知る筈も無い。何せ実際に顔を合わせたのは今までたった一度しか無いのだから。数度の言葉のやり取りで、まだ心の希薄な彼女がそこまで推し量る事が出来る訳も無く、暫しの逡巡の後に出て来た言葉はやはりと言うか素っ気無いものであった。

「…分からない…碇君とは、あまり話してはいないから…」

「さよか…碇っちゅうんか。」

 こくりと頷くレイに、トウジは溜息を吐く。とは言え、レイの返事を予測でもしていたのか、その落胆は余り重苦しいものでは無かった。その様子を不審に思ったのは、成り行きで付いて来てしまい、二人のやり取りに只疑問しか浮かばなかったヒカリだ。

「鈴原…一体何が…」

「あぁ。いや…綾波に言うたかてどうにもならん言うのは分かっとったんやが…」

「???」

 トウジは一息付くと、その心中を吐露し始めた。ケンスケはもう事情を知っていたのだろう。変わらず柵に持たれたまましかし心は三人の方を向いている様ではあった。

「実は、始めの戦闘ん時にな、妹が瓦礫の下敷きになってもうての。幸い命に別状はないんやが、後遺症は残る言われとってな。家はおとんもお爺も仕事やさかい、面倒見たってやれるんはわいだけやねん。」

「………」

「…あ…鈴原…」

 漸く事の事情に納得したレイは、しかしどう言った物か迷いあぐねていた。対するヒカリも似たような物で、やはりその口から出たのは気遣し気に名前を呼ぶだけ。それを察してか、トウジの口調は幾分和らいだ物へと変化した。何時の間にかケンスケが視線だけをこちらに向けている。

「ま、確かに最初はその、碇か?そいつがヘボな戦いしたからやとか思っとったんや。でもな。この間表に出てアイツの戦い方を見てよく判ったんや。アイツは勝つ事だけを考えとる。それだけが良いとは思うとらんが、でもアイツはワイ等と同い歳なんやろ?それを考えると、何かな…否定出来んくなってもうたんや。それにあんなに頑張っとる奴が、ホンマにヘボやったのかとも思ってな。妹に聞いたら、案の定逃げ送れた時に怪物が壊したビルの下敷きになったんや言う取ったわ。そんな事も知らんとワシ、一方的にアイツを批難してもうたさかい、謝ろう思うてな。もしアイツがワシの目の前に居ったら、有無を言わさず殴っとった気がすんねん。だから、な。」

「鈴原…」

「………」

 一気に思いを打ち明けるトウジには、実際特に非が有る訳では無い。しかし彼の信念としてはそれを許せなかったらしい。黙っている事で問題が有る訳では無いが、それは卑怯な事であると。その思いが彼に吐露させていた。その様子を見守っていたヒカリはと言えば、そんな優しさ溢れる男気に半ば純真乙女街道を突き抜け、瞳を潤ませていたりする。そんな様子にケンスケは呆れていたりするのだが、乙女のらぶらぶ光線を受けている当人はと言えば、やはりと言うか類稀なる鈍感さで全く気付く気配も無い。それを見て更に溜息吐くケンスケ。
 一方、レイはトウジの真っ直ぐな思いをそのままに受け取っていた。出来る事なら彼とシンジを会わせてやるべきなのだろうと思う所では有るが、それは恐らく適わないのだろう。シンジが自分とは違う環境に有る事をレイは何とは無く肌で感じ取っていた。それは遂この前までの自分の様な立場に近いのでは無いのかと。捨てられた自分には既に執着も未練も無い。今は新しい絆があったから。何より今の絆の方が暖かく魅力的であったから。だが幸せの欠片を手に入れた自分と入れ替わる様に、唐突に現れ吸い込まれる様にNervの呪縛に囚われ戦い続ける少年。今のレイは彼を不可思議な対象としてその紅い瞳に映し出していた。笑み浮かべ自分の心を言い当てた少年。不利な戦闘状況に人を殺す事も厭わぬ判断を即決する少年。作戦無視をしてまで抗い勝利を得たにも関わらず罰則を素直に受ける少年。そのどれもがレイに不安と好奇心を注いでいた。何故?何故?何故?それだけが脳裏を過ぎる。その思いが別の形を成して彼女から漏れ出したのは、果たして必然だったのだろうか。

「…伝えておくわ…」

「「え?」」

 その一言は目の前にいた少年少女を多いに困惑させ、しかし暫しの間を置いて欠けたピースが埋まる様にすっぽりと収まった。その三人を見守りふっと笑み深めるケンスケ。
 果たして、レイのその言葉の裏に『シンジともう一度会う口実が出来る』等と言う思いが有ったとは誰も知る事はあるまい。況してやレイ本人すら気が付いてはいないのだから。

「…あぁ。伝えといて貰えるか。」

「えぇ。」

 快活な笑みを浮かべる少年に、何故か心温まるレイ。隣でもヒカリが優しげに見守ってくれる。だがレイは唐突に思い出した様にその口を開いた。

「…妹さんの怪我…」

「あ?…あぁ。まぁ、それはしゃあ無いんや。結局事故みたいなもんやさかい、別にもう恨んだりしとらんよって…」

 慌てて否定するトウジの言葉を遮ってレイはふるふると首を横に振ると、再びその桜に染まった小さな唇を紡いだ。

「赤木博士に頼めば、Nervの医療技術で後遺症も無く完治する可能性も有るわ。」

 ほんの思い付きを直ぐ様言葉に出来た少女の言動も驚愕に値するのだが、目の前の二人はレイの言葉の指す意味にも十分驚いていたのだ。前回、シンジが転生する以前の世界で、トウジの妹は最早ネルフの医療技術を持ってしてみた所で、快復すら見込みの無い物であったのは、この世界では誰一人知る所では無い。しかし実は第三使徒戦においての被害は前回のそれに比べれば大幅に軽微だ。シンジも意図してそれをやっていた訳ではないのだが、結果として街の被害は格段に少ない。だからなのだろうか。トウジの妹が受けた傷害が前回のそれに比べ、十分完治の見込みが有る物であり、それは結果として短期間で実証される事となる。

「ほ、ホンマか綾波!?」

「本当なの綾波さん!?」

「…保証は出来ないけど…」

「か、かまへん!Nervに診て貰えるんならこっちとしても希望があるっちゅうもんやっ!」

「分かったわ。頼んでみる。」

「おおきにっ、おおきにっ!」

 降って沸いた提案に大いに喜び破顔する少年に、何故か自ずと使命感が沸き出て来るレイ。そんな自分の心情に、困惑しつつも嬉しく思うのだ。自分が色々な感情を手にしつつある事を、彼女は確かに感じていた。新たな絆が新たな自分を生んでくれる。それが嬉しかったのだ。
 実は子供達には及びも付かなかった問題があるのだが、それはレイの依頼を受けたリツコからゲンドウの耳へと入り、ゲンドウが直々にNerv技術部に務めるトウジの父を呼出し凍り付く緊張の中、ゲンドウがNervの負担で金銭面で医療保証をする旨を伝える事で解決するのだった。

 呼鈴が彼等を再び教室に戻る旨を知らせる。んじゃ、戻ろか?というトウジの提案で屋上を後にする四人。
 本来もしもの時の為にとトウジに付き合わされたケンスケは、結局ストッパーとしての役目を負わなくて済んだ事に安堵しつつ、また彼等の関係が深まったであろう事にも喜んでいた。
 不意に。彼に疑問の念が過ぎる。それはある意味彼にとって好奇心から来るものでしかなかった。

「…なぁ、綾波。」

「…何?」

「なんで、綾波は学校に通ってるのに、その碇って奴は来ないんだ?」

 はっとしたレイの顔に、ケンスケは聞いてはいけない事だったのかと一瞬怯んだ。が、レイの心は別の所にあった。レイはミサトから聞いて知っていたのだ。シンジが自ら望んで通学を拒否し訓練に専念していると言う事実を。そしてここに至ってレイは自分の考えが思い込みであった事を知る。シンジは決してNervに囚われている訳では無い。昔の自分の様に。そしてその立場が入れ替わった訳でも無いと。では何故、何故シンジは自ら望んでその様な事をしているのか?拒否出来た筈のパイロットをなぜ引き受けたのか?自分の意思でNervに逆らっておきながら、何故刑罰は素直に受けたのか?何故Nervが出した転校申請を取り下げ、自らの意思で訓練に励んでいるのか?何故?何故?何故…

「……あ、綾波?」

 俯き考え込むレイを心配そうに伺うケンスケの声に答える様に、すっと表を上げ正面を見据えたレイは、紅の視界の中に何か別なモノをを映し出していた。

「……知らない…」

 そう。レイは知らなかった。『碇シンジ』と言う存在を。
 隣で「そ、そうか。変な事聞いて悪かったな」と掛けられた声が彼女に届く事は無かった。
 扉の前で立ち竦むレイの頬に、ぽつりと雨粒が落ちてきた。





 葛城ミサトは朝から機嫌が余り宜しくなかった。シンジが独房に放り込まれてから四日目の朝。出勤途中の車の中でも、昨晩のレイとのやり取りを考えていた。夕食の合間に問われたのは意外にもシンジの事であった。曰く、何故シンジはEVAへの搭乗を引き受けたのか?それは司令と二人で話して彼が決めた事だ。と言うと、暫し考え込むようにした後再び問われた。曰く、学校に通わないのか?それは彼が拒否したからだ。こちらも散々手を打ったが梨の礫で全く聞き入れられない。と答えれば三度質問。曰く、何故シンジは刑罰を受けているのか?それは当然命令無視をしたからだ。その答えにレイは沈黙をして黙り込んでしまったのだ。
 始めはミサトもおっ?っと思ったのだ。レイはひょっとしてシンジに好意を寄せているのか?と。一瞬天性のからかい癖が鎌首を擡げたが、しかしどうも赴きが違った。そして最後の質問がミサトを困惑させていた。『何故シンジが罰を受けなければいけないのか?』それはまるでミサトが弾劾されるかの様な言葉だった。実際にレイが問いたかったのは『何故シンジは自分の意思で逆らったのに、素直に罰則を受けたのか?』と言う思いからだったのだが、彼女の語録の少なさではその全ては伝わらない。更に間の悪い事に、Nervでは職員達が上層部に不信を持ち始めているのをミサトは薄々感付いていた。実際は不信と言う程の事でも無いのかもしれない。彼等の思いは『何故彼の機転で勝利を得たのに、罰則を与えるのか?』と言う事だ。それは自分も十分理解している事だし、それでもNervと言う組織内で軍規を乱す訳には行かない。シンジは勿論まだ幼い少年では有るが同時に自分の部下でもあり、組織内に於いて命令系統の所在を明確に示す為の刑罰は、どうしても不可欠であり軍人としての彼女が引けない最後の一線だった。リツコの口から伝わりシンジもその命令は素直に飲んだ。一足遅れたとは言え自らも足を運んでシンジに直接伝え、彼もまたそれを承諾している。軍隊では何の問題も無い事では有るのだが、如何せん軍事組織としてはそこまで徹底されてはいないのが今のNervだ。そしてその不平不満は自ずと命令を下した上層部へと立ち戻って来る。それ故ミサトは甘んじて受け入れていたつもりだった。何より自分の中にも罪悪感はあったから。しかし。家に帰ってまで妹分のレイにその事を言われてしまった。それが彼女の罪悪感を刺激し、不快感を煽った。
 結局、黙り込んだレイを前にミサトは何を言える訳でも無く、普段から少なめの会話も一層少なくなり、気拙い一夜を過ごしたのだ。結局今朝もその重々しい雰囲気が払拭される事は無く、結果、彼女は寛げる筈の自宅でも寛げず、悶々と雨の中自慢のアルピーヌで爆走してNervへ出勤して来たのである。

「……はぁ~~~~~っ……」

 だからこんな溜息も出ると言うものだ。その艶っぽい溜息を聞き付け、本当に心配なのか内に秘めた思い故なのか、彼女の直属の部下である日向マコトは珈琲を片手に彼女に労いの声を掛けた。

「どうしたんです?葛城さん。元気無いですね?」

「ま~ねぇ…」

「………」

 変わらぬ腑抜けた返事に、一筋の冷汗が流れる。ミサトの返事が恐かったのか、それとも自分程度では彼女の心が動かないからなのか。ちょっとした青年の悩みに差し伸べられた救いは、他ならぬ彼女を良くも悪くも知り尽くしている女だった。

「…無駄よ日向君。ミサトがビール以外で体調を取り戻す事は出来ないし、況して万年ビア樽が体調を崩す何て事は有り得ないわ。」

「………」

「「「………」」」

 ギロンと音を立てて鋭く突き刺さる視線がリツコに向けられる。が、彼女には全く効かないのか素知らぬ顔でマヤと作業を進めている。そんな様子にマコトもシゲルもマヤも冷汗をだらだらと流すしかなく。果たして本当に救いだったのかどうか。聞かなかった事にして作業を続けるシゲルとマヤを横目に、矢面に立たされたマコトは恨みがましい視線を彼等の背中に送るしかなかった。

「で?どうしたの。朝からそんな気の抜ける溜息吐かれると、こっちもやる気が削がれるんだけど?」

 辛辣な言葉はこの二人の間では当然の事なのだろう。ミサトは刺すような視線を緩め事情を吐露し始めた。リツコは作業の手を休める事無くそんなミサとの言葉に聞き入っている。

「…実は昨日レイにさ、何でシンジ君を禁固刑にしたんだって言われちゃって。今朝もなーんか気拙くってさぁ…」

「え?レイが?」

「んー…」

 一瞬手を休めミサトに顔を向けたリツコ。それも一瞬の事だったが、彼女は再び作業を再開しつつ静かに述べた。

「…それ、私も言われたわよ…」

「え?」

 予想外の事にミサトはぼっとリツコを見返した。リツコは視線を合わせる事無く作業に没頭しながらも会話は続ける。

「昨日診察の時にね。でも、その時の雰囲気じゃ、どちらかと言うと『どうしてシンジ君が素直に刑を受けたのか?』って言っている様に聞こえたけど。」

「へ?そうなの?」

「ま、私も始めはミサトと同じ様に聞こえたけど、詳しく聞く内に何となくね。」

「ん~…そうかぁ…でも、それってどういう事…?」

 リツコは作業を一段落終えたのか、その身を漸くミサトと向き合わせた。右手にはお気に入りの黒猫がプリントされたマグカップ。中身は冷めたブラックコーヒー。一口付けた唇が、僅かに潤みを増した。

「要するに、シンジ君は自分の意思で命令拒否をしたわ。人命さえも投げ打って、勝つ為にね。でも彼は禁固刑を素直に聞き入れたわ。」

「……当然じゃない。」

 憮然と言うミサトの胸の内は、それを肯定している。それは軍属たる彼女故の結論だったが。そして、白衣の美女の見解は違った。

「そうかしら?自分の意志を貫いて勝ち取った勝利を、普通は認めて貰えなかったら?それ所か刑罰まで受けさせられるなんて、拒否位したくなると思うわ。」

「でもそんな事Nervでは…」

「それは貴方が軍人だからよ。幾ら組織に属したからって、彼だってまだたかが十四の子供なのよ?そんなにほいほいと事を割り切れるかしら。」

「それは…分かってるけどさ…」 

「別に責めてる訳じゃ無いわ。私も共犯だしね…」

 俯く彼女の脳に奥歯の軋みが伝わる。脳裏に浮かんだのは少年の言葉。

『リツコさん。心配してくれて、有り難う御座います。』

 その言葉は、確かに彼女を困惑させていた。まるで体に突き刺さった楔の如く。それを誤魔化す様に彼女は言葉を繋ぐ。

「だから、レイは不思議だったんじゃないかしら?別に責めていた訳じゃ無いと思うけど。」

「……そう、かもね……でも、」

 一端言葉を切ったミサトは、すっと俯いていた目をリツコへ向ける。

「でも、レイやシンジ君の考えはともかく、不満が蔓延してるのは確かだわ。」

「……そうね。」

「分かってる。シンジ君が悪い訳じゃ無いもの…でも、今のNervでそれは…」

 そう。シンジが悪い訳では無い。それはミサトにも解かっていた。あれは明らかに自分のミスだ。十分な作戦を練る事も出来ず、支援出来なかった。シンジの言い分は尤もだったのだ。だがミサトは一時的な感情とNervと言う軍事組織の名を掲げ、シンジの言い分を切って捨てた。それは、果たして軍人として有ってはならぬ事だろうか?命令系統を維持する義務は確かに有る。しかしそれは先ず綿密な作戦支援を前提としなければいけないのでは無いか?ミサトは自分がただ権力を嵩に着て、シンジを罰したと言う事実から逃げ出したかっただけでは無いのか?それをミサトは確かに感じていた。
 しかし、かと言って今のNervにシンジを容認出来るだけの度量があるかどうか?それを考えるとミサトには是とは言えない。中途半端な組織に、波紋を投げ掛けても船は転覆するだけだ。ミサトやリツコの思いは確かに子供達を守る事に有る。しかしそれを組織に認めさせるには鶴の一声で全てが解決する訳では無い。結果、ミサトは民主主義的多数決で、軍事組織的色の大きい今のNervとしての判断を取った。それでも所詮は完全に統率されてはいない組織。そこに起った細波は、やはり止められなかったと言う事だ。
 そんなミサトの思いを察したのか。リツコは視線を外しつつも静かに呟いた。思いは同じだと。

「分かってるわよ、ミサト。何時か、ね。」

「……ん。」

 二人の重々しいやり取りを、内心はらはらしながら見守っていたマコトは、漸く落ち着いた二人の会話にほっと一息吐いた。作業に戻ったリツコに合わせ、自分もそろそろとコンソールに向かおうとしたのだが、不意にミサトから問い掛けられ、その場から脱出し損ねてしまった。

「ねぇ、日向君。日向君は、『軍隊』と『正義の味方』と、どっちが好き?」

「…え?」

 問い掛けは比べ物になら無い突拍子も無いものだった。

「……えっ…と……」

「ははっ。わっかないわよね?そんなの♪」

 ぽんぽんと日向の肩を叩き、ミサトは自分の執務室で雑務を済ます為か、発令所を後にした。
 残されたのは、考え込んでしまった青年が一人。





 深夜。少年は珍しく、ここ数日無かった悪夢に魘されていた。
 一歩一歩、確かにそれはやって来る。目に見えない、しかし確実に近付いて来る、何か。少年は夢だと理解しているにも関わらず、忍び寄る影に脅え、凍え、恐怖に震える。自分の真後ろまで足音がやって来た瞬間、世界は一面の闇から一転して色彩を取り戻す。そこは見紛う筈も無い、夕闇に沈み行く第三新東京市。そして自分が居るのは確かに電車の中だった。第三を取り囲む様に延々と回り続ける環状線。誰一人居ない客車にただ一人じっと座り込んでいる自分。夢だと解かっているのに、幻想だと判っているのに、己の身体は指一本動かない。唯一自由が利くのはその瞳だけだった。不意に。今まで誰も居無かった筈の自分の真正面の長椅子に少女が座っていた。今はまだ、彼方の地に居る筈の少女。遥か昔、己が存在によって我を失った少女。遂この間、己が手で絞め殺そうとした少女。

『惣流・アスカ・ラングレー』

 脳は冷静にその存在を捉えている。にも関わらず、身体は刻々と震えを増して行くのは何故なのか?解かっている。それは自分の恐怖の対象だからだ。自分が犯した罪の顕現した姿。償っても償っても償い切る事の適わぬ、少年が犯した罪。その象徴。

「………」

 彼女は何も語らぬ。唯、俯いて、そこに存在するのみ。只黙して、しかし確かに己を断罪して居た。少年は見てしまったから。彼女が俯き流れ落ちているその髪の隙間から、覗き込む様にじっ、と。唯じっと見据えているのだ。自分を。恐い。怖い。こわい。コワイ。恐怖。恐ろしかった。夢だと解かっている。それでも、彼女は自分の罪だから。消える事の無い己の罪だから。だからこそ怖かった。

「………」

 その瞳は確かに訴えていた。「なんでアンタだけがのうのうと生き残ってるのよ」と。「なんでアンタだけが人生やり直してるのよ」と。「なに罪償ってるつもりになってるのよ」と。「なにアンタみたいなのが善人ぶってるのよ」と。「アンタなんかに何が出来るのよ」と。「アンタみたいな畜生が何人間の真似事やってるのよ」と。
 延々と紡ぎ出される断罪の言霊。それが刃となって少年の身に一つ、また一つ確実に切り掛かって来る。身動きの取れ無い少年を、容赦無く切り刻んで行く。鮮血が吹き出し、血液は喉を詰らせ、皮一枚繋がった左腕はぷらぷらとぶら下り、右の瞳から紅の河が流れ出す。

「…フッ…」

 不意に。誰かが息を吐いた。見回そうとするが、最早少年の眼球は視神経と筋繊維から切り離され、だらしなく眼窩から垂れ下がりその役目を果たしてくれなかった。

「…フッ…フフフフフフッ…」

 あぁ。そうか。少年は漸く思い当たる。そう。これは…

「フフフハハハハハハハハッッッッッ」

 こレは僕だ。ボクが笑ッてル…

「ハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 唐突に。少年は身体の自由を取り戻した。残った右目は己の血が視界を真赤に染め上げ、左腕は既に千切れ飛び、腹は何処に納まっていたのかも知れぬ程醜い腸を放り出し、右足は縦に二つに裂け骨まで曝け出し、身体中の切り傷からまだ勢い良く鮮血が吹き出し続ける身体で。少年は立ち上がった。血液と尿と糞とLCLの匂いを感じながら。
 その裂けた口に笑みを浮かべた。
 どうやればそんな身体でそんな動きが出来るものなのか。少年には解からない。唯衝動に駆られたに過ぎない。少年に残された右腕が一直線に少女の白く細い首筋へと到達し、その首をきりきりと閉め上げて行く。剥がれ落ちた皮膚から伝わるのは、気管がみしみしと潰れ道を塞ぐ感触。切り落とされた筈の耳から聞こえるのは、ひゅうひゅうと空気の抜ける音。鮮血に染まった視界が見届けたのは、圧力に負け今にも飛び出さんとしている蒼眼の真珠。

「ハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 口の裂けきった笑みが、奇声を上げ、彼女の細く細く、白い白い首を、ボクの狂気が心地好い音を立てて圧し折った。





 暗闇が僕を支配している。目蓋を開けると、やはりそこも暗闇だった。当然だ消灯時間はとっくに過ぎている。左手を持ち上げる。ちゃんと在った。その手で腹を探る。破けて無かった。目の前に手を翳す。視界は赤くは無く、薄闇に覆われていた。

「………フッ…フフフフフフ…」

 解かってる。夢なんだ。でも。真実だ。

「クックッ…クッククククク…」

 僕は今独房に入っている。でもそんな物で罪など償えない。だから僕は自分で自分を裁く。
 この罪を、唯一裁けるのは、どの世界を渡り歩こうとも唯の一人しか居ない。
 それが出来るのは、僕だけだから…

 忍び笑いは息を潜め、シンジは再び暗闇に沈んで行った。





NEON GENESIS EVANGELION

Lunatic Emotion

EPISODE:04 Sleeping beast






 リツコの提案は冬月を十分に驚かせた。それはある意味必然でもあり、しかしやはり危険でもあると言えた。

「本気かね?」

「はい。許可さえ頂ければ三日で調整致します。」

「…しかし…」

 冬月が渋るのも当然ではあった。リツコには解かっている。しかし今これはやるべきだと判断した。そうしなければ我々はこの世界を生き残れ無いだろうと。ゲンドウはじっと思案したまま動かない。冬月はそれを横目でちらと確認だけして再び反論に回った。

「しかし、態々リスクを負う事も無かろう?委員会の目もある。不用意に行動に出れば背信の意があると教えるような物だ。」

「かと言ってこのままにしておけば、明らかに作戦行動の支障にもなります。老人達の目は誤魔化せても使徒の目は誤魔化せません。」

 押し黙る冬月。後はこの目の前の男の了承だけなのだが。リツコは訴える様にゲンドウを見やる。果たして。この男は必要とあれば即決で指示を下す。必要無ければ切り捨てる。心中を晒したとは言え、その頭脳と決断力だけは変わりなかった。勿論口数が少ない事も。

「構わん。やり賜え、赤木博士。」

「有り難う御座います。」

「…いいのか?」

 呆れた様に愚痴る冬月。そしてゲンドウの応えも判っていた。

「委員会等適当にあしらっておく。敵に勝つ為には必要な事だ。」

「…当然、その敵の中のに老人も含まれる訳か?」

「勿論ですよ。」

 口調を変えたゲンドウの口元は手に隠されているものの、きっとあの笑みが浮かんでいる事だろう。ほんと、悪戯好きなんだわ、きっと。内心苦笑するリツコは、そんなゲンドウの様子に幾分救われる。優しげな眼差しに気付いたのか、ゲンドウが微かに頬を染めたのを、リツコだけは気付いた。それを誤魔化す様に重々しく命令を下したのも当然見逃しては居ない。これをネタに今度おねだり出来るかしら?

「では、初号機の筋力増強と調整作業は任せる。」

「了解しました。」

 一礼の後、執務室を後にする。実際三日と言う数字は大変ではあるが不可能では無い。自分とマヤが居れば後は徹夜を我慢すれば出来る範囲だ。本当はそこまで無理をする必要も無いのかもしれない。だが現状の危機に仮定で臨むのは危険だ。使徒が何時やって来るか分からない今、万事は尽しておかねばならない。とは言えそんな状況の中、職員を寝込ませて使えなくする訳にもいかない。幸いにも初号機は既に基本の修復作業を終えている。仮に今使徒が現れても最悪の事態は避けられる。だが筋力の増強作業も急務だ。冬月に言ったように何れは作戦その物に支障が出る。シンジも三日後には拘束を解除される。丁度テストも出来る。それ故の妥協線が先に提示した日数だった。
 EVAの筋力増強と言ってもそれ程難しい事では無い。ハード的問題は開発当初から散々研究し尽くされている。尤もブラック・ボックス的な部分も多分にあるのは事実だが。だから実際の作業は一日もあれば終了するのだ。問題はその調整作業だ。今のEVAの基本スペックは『チルドレン』を前提とした形で完成されている。それは身体の未成熟な子供が搭乗する事を前提とされた為だ。本来『EVAの魂』と『適格者』のシンクロによって操縦を前提とされ建造されたEVA。しかし『適格者』は発見されず、尽く人はEVAに“飲み込まれた”。副産物的に完成された『とり込まれた親を媒介としたシンクロシステム』。それが『チルドレン』を生み出した。しかしEVA本来の能力を存分に引出す事はチルドレンには略不可能に近いだろうという予測の元、現在のEVAの形態が完成したのだ。シンクロシステムとは言わば『操縦者の意思を残し、己の身体とEVAの身体を入れ換える事により操る』様な物だ。そこには操縦者が『自分の肉体を操る感覚』が前提とならなければならない。そうでなければ操縦者の脳は拒否反応を示すからだ。例えば平均的な肉体の青年の身体が、突然オリンピック選手の肉体と入れ代わったとしたらどうだろう?勿論その肉体自体は華麗な演技を観客に披露出来るだろう。しかし、青年の脳―――意思はその演技を出来ない。否、見た事があって想像は出来てもその肉体を操る術は持っていないのだ。それはEVAも同じであった。『チルドレン』ではEVAの全てを操れないのだ。だからこそ現在の形にEVAの姿は落ち着いた。子供でも操縦出来る極一般的な平均的な人型の体型。それは逆を言えばEVAは本来の姿では無いとも言えるだろう。何せEVAはあの使徒のコピーなのだから。あそこまで統一感の無い姿形。それでも彼等の本質は何等変わらない。これからもここに来るであろう未確認生物全てが『使徒』なのだ。だからこそATフィールドを操る。だからこその『BLOOD TYPE BLUE』。それ故EVAも現状が全ての姿だとは言い切れない。ただ、操縦者が人間である以上、人型である事は避けられない。まさか適格者でも烏賊の姿の自分を早々操れる物でも在るまい。仮に操れる物だとしても其処に何等メリットは無い。能力も十分引出す事は不可能だろう。
 今回の増強で劇的にEVAの姿が変わる訳では無い。別にマッチョなボディにする必要性は無いし、今はデメリットの方が多い。せいぜいが零号機やドイツの弐号機の様なスマート寄りな物よりも若干整った筋肉の付いた、所謂『男性的』な姿になるだろう。現にシンジは度重なる訓練で徐々に筋肉が付き始め、おまけに成長期でもある。それを考えれば自ずと理想形は見えて来る。戦闘に特化した肉体。言ってしまえば『軍人』だ。だがやはりいきなり其処まで持って行くのにも不安は残る。シンジが『適格者』であると断定できた訳では無いし、それにシンジが追い付ける保証は無い。だからリツコは最低限前回の戦闘でシンジが見せた動きに追従出来る肉体を、EVAに与えるつもりだった。シンジが何処まで成長するのかは分からない。使徒の数だって限られている。SEELEを倒した後の政局もどうなるか分からない。Nervが生き残る為にEVAが何時まで必要になるのか、それは誰も知らない事だ。それでもシンジはこれからも訓練を積むのだろう。そして最終的にはやはり『軍人』肉体へと辿り着くのでは無いだろうか。その時、初号機は果たしてどれ程の力を示すのだろうか。
 まあ、今は生き残る事しか成す術は無い。使徒を倒さぬ限り未来は無いのだ。そして未来を生き残る為には、この三日間の徹夜も致し方ない。実際のハードの交換作業が一日で終わるとは言え、結局その微調整の方が格段に労力を割かれる。今まで散々修正を繰り返し漸く整ったバランスなのだ。今のEVAとは。そこに予定外の力が加われば当然バランスは崩れる。そしてその調整には恐らく多大な労力を要すると言う訳だ。おまけに実際にシンジを乗せての微調整も欠かせない。シンクロ時に違和感が無いか調べ尽くさねば、最悪戦闘中にEVAが動かない事さえあるかもしれない。そんな事になっては目も当てられないと言う物だ。手は抜けない。これは、マヤには死んでもらうしか無いわね。

 泣き付くマヤの顔が浮かんでしまって、思わず苦笑が漏れる。擦れ違った職員が見惚れて振り返ったのだが、リツコが気付く事は無い。
 ふと、気付く。
 シンジは…シンジが適格者だったとして、彼は一体EVAをどういう思いで操っているのだろうか?
 唯勝つ為に。彼は何を背負っているのだろう。本来の子供の特権すら捨て学校にも行かず、己に甘えを許さず家族さえ近付けさせない。一体その背にはどんな思いを背負っているのだろう…
 唯勝つ為に。意思でEVAの本来の力を引出す選ばれし『真なる適格者』。誰一人成し遂げられなかった本当のEVAを従えし者。彼は何処に向かっているのだろう…
 唯勝つ為に。生き残る為には仲間の意思も無視し、脅える弱き者を目の前にしても揺るぐ事無くかなぐり捨て、己が勝つ為に死力を尽くして我を貫き通すその闘志…
 それはまるで…生きるという本能に忠実に従う生物の、否…獣の本能。
 …シンジ君が、獣?…

「……フッ…馬鹿ね…」

 唐突にニコチンが欲しくなり白衣のポケットを弄る。出て来たセーラム・ピアニッシモは既に空になっており、そのままクシャリと惨めな姿に変えられた。
 軽く溜息を付いて、何時の間にか立ち止まっていた足を再びケージに向ける。
 さあ。マヤにも頑張ってもらわないと。





 鈴原トウジの笑顔が見れた事は非常に嬉しい。勿論数少ない友人になってくれた彼が笑顔でいてくれるのはレイにとっても嬉しいからだ。隣でもう一人友人が自分の事の様に喜んでいるのも頷ける。彼女の頬がほんのりと朱に染まっている理由までは分からなかったが。

「ホンマ、おおきになっ、綾波!何や治療費の事までNervで見てくれるっちゅう話しやないか。おとんも喜んどったわっ。」

「そう。良かった。」

「今度妹にも会うたってくれ。あいつも喜ぶさかい。」

「えぇ。」

「おぅ!ケンスケも委員ちょも来いやっ。」

「え?そ、その…良いの?…」

「かまへん、かまへん。今は腰が治っとらんから歩けんが、アイツも退屈しとんねん。毎日喧しいくらいやわ。」

「どうせトウジは俺達が持ってく土産の方にご執心なんだろ?」

「うぐっ…な、なんで分かったんや…」

「…トウジは単純なんだよ…」

 学校の朝がけたたましいのは今も昔も同じだ。しかし今のレイにはもうこの喧騒を不快には思わない。寧ろ心地好い。友達が傍に居るからだと、レイは思う。今までは一人だった。そこにあったのは只繰り返される日々だけ。只消え去る日を待ち望むだけの世界。しかし。今は違う。違うと言える。それも自分の意思で。それが嬉しかった。
 笑顔とまでは行かないが、ここ数日で随分と表情が柔らかくなったレイ。昔の彼女は硬く冷たい無機質な表情しか持たない正に人形に等しかった。それは他の生徒達を少なからず遠ざけて行ったのは言うまでも無い。
 だが今の彼女はどうだろう。言葉少ななのに変わりは無いが楽しげにヒカリ達と寄り添う光景は、今までの彼女にはなかった物であり確かに周囲に対する彼女の認識を改めさせて行った。
 本来類稀なる容姿を持つレイである。それがどういった事態を引き起こすのかは日を見るより明らかだ。
 尤も、露骨にその現象が現れ出すのはもう少し先の事なのだが。
 何はともあれ現在の周囲の状況を正確に把握出来た人物は一人だけだ。常にその手の情報は敏感に察知し、情報収集を怠らず、挙句はそれを売り物にまで昇華させる炎の商売人。しかし彼にもまさか自分が当事者になってしまうとは計らずも予測だにしていなかったのだが。

『……?…』

 相田ケンスケは微妙な気配の変化に気付いた。それが日頃のサバイバル訓練に寄る成果だったのか否かは誰も知る所では無い。ただ、確かに彼は感じたのだ。

『…なんだ?な~んか視線が………っ!!』

 気付いた時には遅かった。

『ひっ…ひ~~~~~~~っっっ!!!!』

 教室中から発散されるその殺意の様な野郎共の視線に突き刺されたケンスケは、思わず失禁しそうだったと後に語る。
 当然、情報に鋭い彼が現状の把握に思い当たるまでに、一秒掛からなかったのは言うまでも無い。

『ま、待てッ!!お、俺は関係無いっ!!関係無いぞぅおぉぉぉぉっっっっ!!??』

 冷静な頭脳と感情の弾き出す言葉は一致し無い物らしい。
 そんなケンスケを知ってか知らずか、レイの言葉は更にケンスケを窮地から逃れられない物にしてくれたりする。

「…今度、ミサトさんがパーティーを開こうって。来て、くれる?…」

「勿論や。なぁ、委員ちょ。(ぬっは~っ♪ミサトはんにまた会えるぅぅぅっっ!!)」

「えぇ、当然よ。(鈴原…また良からぬ事を考えてるわね…鼻の下が伸びてるわ…)」

「……相田君は?……ダメ?」

「……え?…」

 何時の間にそういう話になっていたのか。いや、そんな事が今問題なのでは無い。断じて無い。問題なのは…
 レイのその容姿で小首傾げておねだり等されて見た日には、日頃溜まり溜まっている愛い少年達には刺激は強すぎるというモノだ。そして、そのお願いに抗う術を如何なニヒルな少年を突き通す相田ケンスケとは言え、抗う術があろう筈も無かった。そしてそれが破局への序曲。

「い、いやぁ、勿論、行くよ。うん。」

「良かった。」

 笑顔では無い。無いのだが、確かに安心しきった表情。ケンスケは確かに見た。彼女のバックに満開の花畑が。そしてその瞬間、背後に沸き立つ地獄の竈と悪鬼達の放出する殺気も、同時に感じ取っていた。
 どうやらこの場合トウジは対象に入らないらしい。成る程、ヒカリという補助と委員長というバックボーンが存在する彼にはこの制裁からは排除されたらしい。寧ろ前者の影響が大きい様な気がするケンスケだったが。

『…お、おのれぇ~…ト、トウジ………っっ!!??』

「……ちょぉっと付き合ってくれるかなぁ?…相田く~ん……」

 背後から掛けられた級友達の猫撫で声に、思わず身を竦ませる嘗て栄華を誇った商売人。
 更に勢い増し行く狂気の渦と、目の前の見目麗しい御花畑に、ケンスケは自分の明日が無い事を覚悟した。

『あぁ…蝶々が…蝶々が…』

 窓が閉じられ唯でさえ雨降るこの天気で、教室の何処に蝶々が飛んでいるのかは甚だ謎だが、少なくとも彼には見えた様だ。
 相田ケンスケ十四歳。夢見る様な顔で男子達に取り囲まれ教室から消え去ったと綾波レイは語る。





「パーティー、ですか?」

 伊吹マヤがきょとんとした顔で応える。思わず両手の動きも止まると言う物だ。勿論仕事中にそんな事をすれば結果は目に見えている訳で。

「マヤ、手が御留守よ。」

「は、はいっ!先輩っ。」

 慌ててコンソールの操作を再開しつつも、ミサトの問いにはしっかりと返す辺り、リツコの片腕の名を持つ彼女らしい。結局は自分が邪魔の原因でもある訳で、思わず苦笑いしてしまう。

「それで、葛城さん、パーティーって?…」

「あ、あぁ、レイのね。快気祝と引っ越し祝い。両方やっちゃおうと思って。」

「あぁ、成る程。」

「どう?今週末。」

「んー、微妙ですねぇ。これの最終調整が今週末ですから…」

「これって、例の初号機のマッチョマン計画?」

「か、葛城さん……」

「………」

 たじろぐマヤの視界には、どよどよと暗雲立ち込めている尊敬すべき筈の先輩の姿。その状況を作り出した本人はと言えばけろっとした物で、全く気にしていない様だ。案の定、低い声音がミサトを襲った。

「…ミサト。その呼び方は止めなさい。誤解を生むわ。」

「だってぇ…長くて呼びにくいんだものぉ。良いじゃない、こっちの方が呼びやすくて。」

「…そういう問題じゃないのよっ…」

「所で、どうなの?そんなに大変な訳?」

 危険信号を察知したのか、ミサトは空かさず話題転換を謀る。この辺は流石に作戦部長としての手腕の現れか。尤もこんな所で発揮されても困るのだが。
 リツコも今は無駄な体力を使うくらいなら、仕事に労力を注ぐ方が良しと思ったのか、ミサトの策に乗った様だ。この辺はお互い知った間の阿吽の呼吸と言う奴だろう。

「そうね。頭で解かっている程、実際は上手くは行かない物だわ。思った以上に難航はしているけど、スケジュール通りには上がるわよ。こっちはね。」

「こっち?」

「ハード的にはって事。後はソフト…シンジ君次第ね。彼が何処まで初号機のボディを把握出来るかによるわ。」

 ミサトが眉間に皺寄せ考え込む。リツコの言った事は分かったのだが、“言わんとしている事”は解からない、と言う顔だった。そんな様子をちらりと横目で確認して、リツコは補足を始める。彼女の機会音痴は今に始まった事では無い。

「要するにシンクロした時にシンジ君が感覚的に身体の隅々、それも一本一本の筋肉繊維に至るまで異常が無いか感じ取れるかって事よ。」

「……そんな事出来るの?」

「だから、感覚的によ。例えば右腕が突っ張る感じがするとか、大腿を動かした時に痛みを感じるとか。」

「あぁ…」

「その上で私達が細部を洗い出して、その微調整を施して再度異常が無いか点検。その繰り返しよ。」

「……それって大変ねぇ…」

「……だから、そう、言ってる、じゃない…」

 一個一個確かめる様にキーを叩きながら、言葉を区切るリツコに一瞬ぎょっとなるミサト。慌ててフォローに入る。徹夜一日目とは言っても、先々日まで件の破壊されてしまった筋組織の修復作業の為に、やっぱり徹夜続きの日々を過ごした彼女をこれ以上激昂させるのは如何なミサトでも回避すべき事態だった。

「そ、そうっ…じゃ、じゃぁ、もし早く終わっちゃったりなんかしちゃったりしたら、参加してやってねぇ。レイも喜ぶと思うしぃっ。シンジ君はこっちで先に誘っとくからさっ。終わったら一緒に連れて来てよ。」

「…えぇ…そうさせて貰うわ………って、え?…」

「…な、何?…」

 苛々しながら凄まじい速度でキータッチを続けていたリツコのしなやかな指先が、ぴたりと止まる。その顔は実に意外そうな表情で固まっていた。

「…シンジ君を誘ったの?」

「ぁ~ん。これからよ。ほら、こないだ話したじゃない。」

「……多分…来ないと思うわよ。彼。」

 先刻までとは別の意味で暗い影が彼女を覆う。リツコには何となく解かり始めていた。シンジがそう言った安らぎを求めてはいない事を。彼の中に在るのは只今を生きる為に勝ち続ける事。だから学校にも同居にも興味を示さない。自分には必要無いと排除しようとする。勝つ為にはその身を削ってでも訓練でも何でもやるのだ。それ以外の物は必要無いと。諮らずも、それが嘗ての父親の姿と酷似しているのは、血の繋がりが在るからだろうか。
 尤も、シンジの思いが何処に在るかまでは、リツコに解かろう筈も無かったのだが。
 そんな思い思考に沈む彼女とは違い、あっけらかんとのたまう作戦部長。

「だぁい丈夫よん♪今回は秘策が有るものっ。」

「…秘策?」

 意外な明るさに思わず思考の海から抜け出したリツコ。一方で企みを携えたその瞳を細めると、自慢気にその案を披露した。

「私もアンタも嫌われちゃったからねぇ…ここはもう禁じ手で一気に畳み掛けるしか無いわよっ。」

「……だから、何?」

 隣でマヤまでもが仕事をほっぽり出して、三人の美女(約一名童顔)が顔を寄せ合いもぞもぞと密談をしている。絶対目を合わせて関わりたくは無いが、それでも好奇心で聞き入ってしまう技術職員達の気持ちも解かると言うものだ。

「レイに誘ってもらうのよっん♪レイったら昨日も何度もシンジ君の事聞いて来るんだもん。もうすっかり恋する乙女って感じよねっ。これであのシンジ君も同年代の女の色香に抗える筈は無いわっ!」

「………」

 自身満万でぐぐっと拳を握り締めるミサト。隣できゃーきゃー不潔ですぅと騒ぐマヤ。呆れ果てて顔に縦縞入っちゃってるリツコ。最早好奇心も失せ絶対関わりたく無いと無視を決め込み仕事に没頭する技術職員の皆々様。

「…ハァ…呆れた。そんな事でシンジ君が承諾すると思ってるの?」

「絶対来るわっ。成功確率100%間違い無しっ!」

「恋する乙女のらぶらぶパワー炸裂ですねっ!葛城さんっ!!」

 最早関わる気力も起きないリツコだが、それでも心の中ではシンジが承諾する事は無いと確信していた。レイの変容ぶりにも驚きはしたが、彼が決してその程度の安らぎで救われるような気がしない様にリツコには思われるのだ。彼は只勝つ為に、その為ならば何だってするだろう。でもそれ以外の事は受け入れない気がするのだ。
 結局、リツコは自嘲気味に呟くだけで、その言葉が騒ぐ二人に届く事は無かったが。リツコの心がまだ晴れる事は無い。

「…無駄ね。彼は望んでいないわ…何も…」





 シンジが投獄されてから七日目。刑期が終わり、漸くシンジは自由を取り戻した。時刻は十七時。正に一週間きっちり檻に入れられたとという訳だ。そんな些細な所で妙にしっかりしているこの組織に思わず苦笑も漏れると言うものだ。運動を欠かさなかったとは言えやはり外に出れば開放感と言う物は有る。エレベーター前のロビーではあったがぐいと伸びをして一人ごちた。

「さて、今日は予定が空いたな。どうしたもんか…取り敢えず、娑婆の空気でも吸いますか?」

 苦笑しながら昔の自分ではこんな科白は絶対出てこないなと思う。それでも自分の本質は変わってはいないのもまた真実だ。それは己が一番良く分かっていた。自分は何処まで行っても、卑怯で、臆病で、卑屈で、何一つ自分で決められない愚かな生物。多くの命を汚し、多くの命を捻り潰し、多くの命を無へ返した。そんな罪多き自分が早々変わる筈が無いのだ。今の自分は仮面だ。自分を覆い隠し、最後に望んだ自分自身が決めた望みを達成するまでの、鋭利な刃。それが今の自分なのだ。
 上昇し続けるエレベーターの中で、思い耽る少年は何処までも黒く、漆黒に染まって行く。
 軽い音色が目的地に着いた事を知らせ、静かに正面の扉が開く。そこは正面ゲートヘ通じる一本道の通路。シンジが窮屈な箱から一歩踏み出した瞬間、彼の歩みは止まった。
 通路に繋がるエレベーターホールに設けられた休憩所のソファの一つ。そこに彼女は居た。

「…綾波…」

「…あっ…」

 シンジの呼び掛けに振り返った蒼銀髪の少女は、シンジの姿を見止め僅かにその紅の瞳を見開いた。一方シンジも僅かに驚いてはいた。別に本部にレイが居ても可笑しくは無いのだが、先のレイの姿が奇しくも以前訓練の後一緒に変える為に自分を待っていてくれていた時の姿に酷似していた為だ。静かに奥のソファに佇み鞄を左脇に置いて、膝上に載せた文庫本を読むその待ち姿が。
 とにかく、呼び掛けてしまった以上話しをしない訳にも行かず、シンジは無難な所で切り上げてその場を立ち去ろうと決めた。特に今彼女に関わる気は無かったから。尤もその辺の几帳面さが妙にシンジらしいといえばらしいのだが。

「…やぁ。久し振り。」

「…えぇ。」

「葛城さんでも待ってるの?」

「……いえ。」

「?…そう。じゃぁ、検診か何か?」

「………」

 ふるふると首を振るレイに、不審に思うシンジ。では一体レイはこんな所で何をやっていたと言うのか。そして、シンジは心中で感じていた予想が確信に変わっていた。

『成る程。どうやら随分と成長が早いらしい…ちゃんと受け答えするなんて、格段の進歩だね。面白い…』

 補完計画のキーとなる少女。その彼女の心が成長していく事には異存は無い。それによって前回はゲンドウの計画が土壇場で頓挫したのだ。ゲンドウが既に己の計画を捨てている事は略確定事項にもなっていたが、これで間違い無く引き返す事は出来ないだろう。例え彼女の器を入れ替えた所でその魂は繋がっていたのだから。シンジにとってそう幾つも補完計画が並走されていてはやはり都合が悪い。SEELEの計画だけが残るのであれば、シンジにも邪魔が入る事無く勝てる見込みが出て来ると言うものだ。

「ふーん。ま、いいや。じゃ、僕はこれからちょっと散歩だから。」

「…あっ…」

「ん?」

「………」

「どうしたの?」

「………」

 黙り込む少女に困惑する少年。傍から見ればまるで恋する乙女が告白しようとしてるのだが、中々言い出せないでいる、というミサトの思惑通りの展開に見えはするのだが。実際そこまでシンジの想像力が発達している訳も無く、彼には疑念しか浮かばない。何より以前から異性の考えを読むのが死ぬ程下手な少年である。
 一方レイはと言えば、ミサトから託ったパーティーの誘いをする為、今日刑期の終わるシンジをここで待っていたのだ。何故、彼女がここで待つという行為を取ったのかは、少女自身にも解かってはいなかった。シンジは今Nerv内の寄宿舎に住む身である。余り外に出る事の無い彼に会うには、直接部屋に向かった方が会う確率は高かったのにも関わらず、彼女はここで彼を待っていた。彼女は気付かない。シンジと始めに出会った場所がこの正面ゲートの外に繋がる先の街路樹に繋がっている事を。そしてシンジだけが知る、酷似したこのシュチュエーションを。
 黙ったまま俯いて動かなくなったレイに、困り果てたシンジ。以前なら暫く待てば思案の後何等かの言葉を返してくれる事もあったのだが、今回は全くその様子は無く、何故だか萎縮して小さくなってしまったレイに違和感しか沸かない。
 動くに動けない状態に、仕方なくシンジは自分からアプローチする。正直昔も今も、レイの考えは良く解からない。

「時間有る?」

「……?」

 唐突な質問に顔を上げ、疑問の意を示すレイ。言葉が無いのに、この表情の乏しい少女の言わんとしている事“だけは”解かると言うのも、果たして少年の特権だろうか?

「少し散歩に付き合わない?ジオフロントの中だけだけど。」

「………」

 暫しの沈黙の後、少女は承諾を示してこくりと頷く。本を鞄に入れレイの準備が整うのを待って、シンジは歩き出す。それに付き従う様に小走りにシンジに近付くと、シンジの左後方で付かず離れず付いて来る俯き加減の少女。
 その様子を見て内心苦笑する。まるで以前のレイのままだな、と。レイはよくこの位置でシンジに付いて来ていた。そして自分の前には、赤の髪が翻っていた物だ。
 少し長めの通路を無言で通り抜けた二人は、正面ゲートで警備の人間に見止められる。外に出るにもここでIDカードの提示は必要になる。シンジは独房から出た時に返して貰った自身のIDをポケットから出し、警備員に渡そうとすると彼はそれを受け取りながらシンジに話し掛けた。

「ようっ、久し振りだなぁ。」

「はは。御陰様で。」

「出て来たばっかりでもう走るのか?」

「まさか。今日は久し振りに散歩です。」

「そりゃ良い。気分転換でもして来な…しっかし、上も何考えてんだかなぁ?せっかくお前さんの機転で勝てたってのに、こんな聞き分けの良い子供を独房入りにするってなぁ、ったく。」

 ぶつぶつ言いながら壮年の警備員はコンソールに向かってID照合を始める。何時もの挨拶だけかと思っていたシンジも、意外にも彼の口から出た上層部批判とも取れる言葉に驚いていた。と同時にこの組織の脆さも改めて認識させられたのだ。我欲に走り組織を感情の有る人間だと認識出来なかった司令官。それに只付き従うだけの己が意思を捨てた副官。己の感情を棄て切れず軍人に成り切れなかった指揮官。母の有能さに憧れ女の母を憎んだ末己も同じ道を歩んだ技術面での影の補佐役。真実を知らず自分達は正しいと信じ込んだ末人形(マリオネット)と化した職員達。
 何れこの組織が生き残っていたとしても、到底世界を支える器など存在していた筈も無いだろう。所詮は中途半端なシビリアン・コントロールに過ぎなかった訳だ。 
 そして、上層部がその志を入れ換えたとしても、所詮は中途半端なままだったと言う事だ。シンジにはそれが可笑しくて堪らない。母の思いに応えようとする父は所詮無駄な足掻きをしていると。それが早々に襤褸を出し始めている。かと言って今すぐこの組織が立ち消えて貰ってはシンジも困るのだ。だからと言う訳でも無いが尻拭いを請け負う。尤もそれは自分に有利な方向に向けられていたが。

「そんな事は無いです。僕が命令を無視したのは事実だし、Nervに入ると決めた以上こう言う事もあるんだって覚悟はしてましたから。」

「…くぅ~…偉いなぁ、坊主っ。頑張れよっ!世界中が敵に回っても俺だけはお前さんの味方だからよっ!」

「はは、有り難う御座います。」

 予想以上の効果に少し引きが入るシンジ。苦笑を張り付けた顔に、突然男の顔がぐいっと寄って来た。更に仰け反って硬直するシンジ。何だかミサトさんみたいな反応だなぁ…と気付いた時には遅かった。

「ところで…」

「…は、はい?」

 ひょいっとシンジの左後方に視線をやる警備員。そこには当然ぽけっと自分等を見上げる少女が一人。その姿を確認して再び二人が視線を見合わせた途端、男はにやりと口元を歪ませた。

「デートか?」

「なっ…ちっ、違いますよっ!」

「ほ~ぅ…」

「……信用してませんね?」

「ぅわぁ~かいってのは良いねぇ~っ。」

「………」

 まるっきりミサトさんだ…軽い頭痛を覚えたシンジは、レイの照合が終わるのを確認すると、そそくさと退散を決め込んだ。レイの手を取り足早に立ち去るシンジ。彼の背に自称シンジの味方からの熱いエールが飛んだ。

「先走るんじゃねぇーぞーっ!!落ち付いていけぇーっ!!」

『何をだよっ!?』

 視界から正面ゲートが消えた頃、漸くシンジはその足を緩めゆっくりと歩き始めた。と、唐突にか細い声が上がる。

「……碇君……」

「ん?」

「……手……」

「あ、ゴメン。」

 見れば退散する時に握ったままの手。案外自分はおっちょこちょいな所が抜けない。これも変わって無い証拠だろうか?おまけにまた謝ってるし…いい加減自分の性格が嫌になっているシンジは、特に慌てる事も無くレイの手を放そうとした。しかしその試みは呆気なく拒否され、意に反して自分の手は離れない。レイが、握ったままなのだ。

「…綾波?」

「……碇君の手…暖かい……」

 レイは大事そうにシンジの手を己が手で包み込む。いとおしそうに包み込んだ手を見詰めるレイに、シンジは凛憫の視線で見詰め静かに呟いた。

「………違うよ、綾波。この手は穢れてる。」

「………」

 シンジから発せられた拒絶は、思いの外底冷えする声音だった。驚いて見上げたレイはその場で固まってしまった。あまりの無表情さに。何も映し出さない黒曜の瞳に。それはまるで、否。嘗ての自分さえ比較にならない程の。そこにあったのは恐怖。

「…放してくれないかな。」

「……ごめん、なさい…」

「…気にしなくて良いよ。別に大した事じゃない…」

 項垂れてしまったレイには気付かなかった。シンジの掌にはっきりと現出した刻印に。シンジは再び歩を進め始め、レイは僅かに逡巡した後それについて行く。

 静寂だけが二人を包み込む。既に周囲は地上の夕暮れの光を取り込み、ジオフロント全体を茜色に染め上げている。日の光が出ていると言う事は、ここ一週間降り続いていた雨も漸く上がってくれた様だ。
 木々は何処までも優しくその葉を広げ、草花は健気にその身を佇ませる。湖は柔らかに日の光を揺り返し、何処からか吹き込む微風は、少年少女の前髪を優しく撫で上げて行った。

「…綺麗だね…」

 静謐のジオフロントに再び音が立ち戻ったのは、シンジの柔らかい声音が始めだった。気付けば二人は湖畔を望む小高い丘に来ていた。直ぐ前で自分に背を向け、湖畔を眺めるシンジがいる。その音色に僅かに安堵したのかレイは漸く声を出す事が出来た。

「…えぇ。」

「…綾波。」

「…何?」

「僕に何か用があったの?」

「……えぇ。」

 あれだけ緊張して言えなかった事が、今は滑り出す様に言葉が紡ぎ出される。それを不思議に思いながらも、レイは今のこの状況を嬉しく思っていた。先刻のシンジの表情に一抹の不安もあった。しかし今のこの優しげな風は紛れも無く本物だと思ったから。

「何?」

「私、引越したの。葛…ミサトさんの所に……」

「……知ってるよ。」

「怪我も、治ったわ…」

「うん。」

「……それで、ミサトさんが御祝いをしてくれるって…」

「そう。」

「…学校の…友達も来てくれるの…この間保護された三人…」

「あぁ…」

「………」

「……碇君…」

「ん?」

「……碇君にも、来て欲しいの……」

「………」

 静寂。打ち寄せる波の鼓動。木々の囁き。小鳥達の賛美歌。
 どれだけの刻が経ったのだろう。一瞬の煌きにも思えるし、永劫の流れにも思える。それでもレイは、拒絶も恐れる事無く、只ひたすらシンジの返事を待っていた。その大きくは無い背を見つめて。
 もし来てくれるなら御礼を言おう。「ありがとう」と御礼を言おう。もし来てくれなくてもまた誘おう。「良いよ」と言ってくれるまで何度でも誘ってみよう。そしてその時は、やっぱり御礼を言おう。「ありがとう」と言おう、と。
 レイは、何故か早まる鼓動を、心地好く思った。

 そして、シンジは振り返る。
 その顔は夕日に染まり美しい笑顔を象っていた。





「……良いよ。お祝い、してあげる。」





 柔らかく優しげな声。
 そのお返しの言葉は、もう決まっていた。





「……ありがとう……碇君……」





 漆黒の瞳が、紅に染まり、僅かに揺れた。






[続劇] 

[to Contents

First edition:[2000/09/01]