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第弐話

新たなるモノ、古きモノ






壱.






時を一年程遡る。
 世界を震撼させた『使徒戦争』の終結から約半年。その間世界は坂道を転がり落ちる石のごとき急展開を見せてきた。真相を知らぬ者達は、只起こる事態に流されるままに感情を露にし、新たな情報を与えられても静観するだけしかなかった。彼等に何か出来る程、事は小さく無くとても収集が付く様な状態ではなかった。
 しかし、世界は劇的な変化を見せつつあった。
 世界が意識を取り戻したその日、その放送は世界各国をあらゆるメディアを通じてリアルタイムで放送された。一人の男によりその真実は人々の目に触れ、意識へと送り込まれ、激情となって放出された。その感情は今まで一度も歴史の表舞台に上がる事の無かった秘密結社へと向けられ止まる事をしらなかった。反対に男、碇ゲンドウ率いる国連非公開組織Nervの世論地位が高まっていったのはある意味当然と言えば当然だった。結果、公開組織への組織改革・Nervの超法規的権限・第三新東京市の早期再建計画と、文句ない好条件がNervを取り巻いて行く。
 世界はNervに平和を託し、再興にかける意欲を燃やし、そして徐々に日常の平穏を取り戻しつつあった。





 先日国連にて行われた『第一次研究報告会議』に、世界が未だ悲嘆に暮れている。
 そんな時期だった。自分がそこに立っていたのは。
 目の前には至って普通の自動開閉式扉が鎮座し、主人の帰りを待っている。ドアの左に目を向けるとそこにはこの家の持ち主の名と、これから暫く同居人、否、家族になる少女の名。以前までそこに居た筈の少年の名。そして、自分の名があった。恐らくは少女が気を利かせて準備したのだろう。今はその気持ちを素直に受け止める事が出来た。そう。嬉しいと。
「ほらっ。早く入んなさいよっ。」
「遠慮はいらないわよ~?今日からここが貴女の家なんだからぁ。」
 入り口でボッとしているうちに一緒にいた二人は既に中に入り自分を待っていた。赤髪の溌溂とした少女と、その後ろには黒髪の成熟した女性が立って自分を招き入れようとしていた。
 僅かばかりの身の回りの品の入ったボストンバックを持ち直し挨拶をして入ろうとした時、
「待った。」
 得意げな顔で止めたのは黒髪の女性。人さし指を立てると満面の笑顔でこう言った。
「貴女は今日からうちの家族なんだから、他人行儀な挨拶は止めてよ?」
 隣では同じようにニコニコと笑顔を浮かべる赤髪の少女。一瞬意味を分かりかねたが、先ほど見た表札を思い出しふと気付く。
 そして、自分も改めて笑顔に戻って、だが少し恥ずかしく思いながら控えめな、でもはっきりと聞こえる様に声を出した。

「...ただいま。」

 それが少女の、綾波レイの初めての帰宅といえる行為だったのかもしれない。

 あの後、レイの退院は直ぐに決まった。
 一時は心配されたレイの身体機能。クローン体であるというリスクを背負ったその体は、Nervにおける全ての精密検査をクリアし、無事退院の運びとなった。
 それに異を唱えたのは言うまでも無くNervが誇る技術開発部長赤城リツコ博士だ。
「通常、クローンと言うだけでそのリスクは大きな物だわ。身体は生身の人間よりも虚弱になってしまう。そんな身体に何度も記憶操作で脳に負担を掛けてきたし、ましてやリリスの遺伝子情報も組み込んだ不安定な存在。本来なら生きているのさえ奇跡に近い事なのよ。以前までは確かにそうだった。でも、今回の検査で明らかになったわ。レイの身体は紛れも無く人間、ホモサピエンスの物になっているわ。サードインパクトがレイの身体に何を及ぼしたのかは分からないけれども、只今はレイが今後何不自由無く生活出来る事は確かよ。でも、そのアルビノだけはどうにもなら無いから我慢して。ま、その方がレイって感じだけどね?」
 そして、かねてからの約束通りレイは葛城家へ転居する事になったのだ。
 レイのマンションは既に半壊しており、散々な有り様になっていた。取りあえず持ち込む荷物をまとめて葛城家へ引っ越しする為の準備を、と思ったミサトとアスカだったがレイの部屋を見た二人の顔は唖然とした顔で5分は固まっていた物だ。部屋の中は爆発の衝撃で荒れ放題だったが、部屋の荷物は極端に少ない。二人は今まで此の寂しい少女を思いやれなかった事を悔やむと同時に、たった一人少女の境遇に深く関わりを持とうとした少年の意図を知った。
「レイ!明日は買い物に行くわよっ!もう、買って買って買いまくるんだからっ!」
「...うん。」
「アスカ~?自分の買い物ばっかりするんじゃ無いわよぉ?」
「うっ!?わ、分かってるわよぉ。」

 レイはシンジの部屋に立っていた。
 窓際のベット。何も置かれていない使い込まれた机と椅子。幾何学模様の絨毯。中身の無いクローゼット。窓から吹き込む春風に揺られる、ライトブルーのカーテン。そして、足下に置かれたボストンバック。それが此の部屋にある全ての物だった。
 アスカは出来れば此の部屋をこのまま残しておこうと思っていたが、何時戻って来るか分からないシンジの為に残しておく訳にも行かないし、何よりレイの部屋も用意しなければならなかった為、結局使える家具だけを残して、シンジの私物は箱詰めされ、押し入れに押し込まれていた。
 少しばかり閑散とした空気が漂う物の、以前のレイの部屋に比べれば格段の違いがある。何より人が住んでいる感覚・気配がそこにはあった。今は少年の匂いを残す此の部屋もいずれは少女の部屋に染まって行くのだろうか。
「...碇君の...匂いがする...」
 ふと、寂しさが過った。










弐.






 5月。
 復興が進む第三新東京市、第三新東京市立第壱中学校はその校舎の大半の修復を終え、子供達を学び舎に迎え入れていた。疎開前の人数に比べればまだまだ少ない物だが、それも復興が進むにつれその数を増やしつつある。
 朝の爽やかな陽射しの中、二人の少女は学校への道のりをのんびりと歩いていた。
 本来なら、アスカの複数に及ぶ『準備』に追われ忙しい朝を迎えるのが葛城家の常であったが、ここ一ヶ月の共同生活の中でアスカが家事を担当する比率が極端に増加した為に、アスカは早起きを余儀無くされていた。元々、アスカは何をやっても卒なくこなす娘だ。但、今までその全てを一手に引き受けていた少年のお陰でアスカは何もする必要が無かったしその必要性も感じなかった。故に、家事に対して何も理解していなかったアスカは、親友ヒカリの元に通い詰め、何度も電話し、漸く最近形になってきたのだ。レイも家事は覚えようとはしているが如何せんゼロからの出発に近かったので、今だ葛城家の生活レベルを維持する為にはアスカに比重がのしかかっていた。
 それが功を奏したかどうかは分からないが、少なくとも登校時間に余裕を持てる様になったのは事実だった。
「おはよう。アスカ、綾波さん。」
「おはようっ。ヒカリ。」
「おはよう。洞木さん。」
 通学路で恒例の挨拶を済ませた三人は、何時ものようにお喋りを重ね学校へと向かう。もっぱらアスカとヒカリの二重奏なのだが、レイも時折ソプラノを囁く。その顔は柔らかく、彼女自身安心して身を委ねている証拠かもしれない。
 既に彼女達は進級を果たし、最上級生として第壱中に通っている。
 はっきり言えば彼女達は目立つ。目鼻立ちの整った顔と成長過程とはいえ魅力的な肢体を持つ快活な美少女と、魅惑的な紅眼と色の抜け落ちた蒼銀髪に線の細い身体と透き通る様な肌が幻想的な少女、二人の様に極端に秀でた部分は無いものの少女としてのあどけなさと優しさを合わせ持つ日本の古風さを全身で体現する少女。この学校の三大美少女として彼女達の知らない所で密かに登録されている。
「よっ。お三方、おはようさん。」
 教室に到着した三人を唐突に出迎えたのは聞き慣れた、しかし久しく聞いていなかったお軽い挨拶だった。
「あ、相田君!?」
「相田!」
「...」
 唖然と立ち尽くす三人を他所に少年、相田ケンスケが笑顔で手を振った。
「元気そうだな?三人とも。良かったよ、また会えて。」
「あ、相田君、戻ってきてたの?連絡くらいくれれば良かったのに。」
 逸早く復活したのは我等が委員長。
「いやぁ、そのつもりだったんだけど昨日引っ越してきたばかりでね。生憎その暇も無かったのさ。」
「それでも連絡くらいしなさいよっ。それなりに心配してやってたのよ?こっちは。」
「...すまんすまん。でも寧ろ心配してたのはこっちの方さ。戦場の直中にいたお前等が生き残る可能性の方が遥かに低かったんだからさ?」
 とてもアスカから出てくるように思えない台詞を聞いて、暫し唖然とした物だがその辺は然して表に出す事も無く笑って返せるのがこの少年の世渡り上手な所だった。
「でも、私達はちゃんとここにいるわ。またこうして学校で会える。」
 ケンスケはあまりレイの声を聞いた事は無い。ましてや会話等はろくにした事も無い。だからレイの言葉は彼にとってはアスカがお淑やかなお嬢様に変身するよりも遥かに破壊力を持っていた。其れ故彼がレイにその事を聞こうと思ったのは至極当然だったのかもしれない。
「...そ、そうだな...綾波、何だか雰囲気、変わったか?」
「...そう?」
「そ、そうか。いや、気のせいだな、うん。」
「......変わったかも。」
「え?」
 考え伏せたケンスケがレイ言葉に顔を上げ、そして今度こそ唖然とした。
 そこには今まで見た事の無い彼女の笑顔があったから。
 後ろでは二人の少女がくすくすと忍び笑いをしているが、彼の耳には全く入ってはいない。
「?...なに?」
 硬直してしまったケンスケを不思議に思ってレイが声を掛ける事でケンスケは漸く我を取り戻した。
「あっ!?...い、いや、な、何でも無いよ。」
「...そう...」
 ほっと胸をなで下ろすケンスケにアスカはすかさず攻撃を開始した。
「な~に見とれてたのよぉ。相田ぁ?だぁめよ~、レイに惚れちゃぁ~。」
「な!?何言ってんだよっ、惣流!!」
「おやおや~?何どもってるのかなぁ???」
 あな恐ろしや、アスカ口撃。
「まあまあ、アスカ。その位にしてあげたら?鈴原までそのネタで一週間は虐めてたじゃない。」
「...さすが惣流...しつこさも人一倍...」
「なんですってぇっ!!」
「い、いやっ!な、何でも無いですっ。はいっ!」
「もう、相田君も止せばいいのにアスカを煽るんだから...処で昨日来たばっかりって事は、鈴原には未だ会って無いの?」
 頭に血が上り始めたアスカを察知し、すかさず話を切り替えるヒカリ。この辺は流石に委員長。
「あ、あぁ、もう会ったよ。昨日こっちに付いてから、真っ先に会いに行ったよ。良かったよ、元気そうで。流石Nervの技術だな?元の細胞を再生しちまうなんて。」
「そうなんだ。鈴原ったら何も教えてくれないんだから。」
「あれは俺が黙ってるように言っといたんだ。ちょっと委員長達を驚かせようと思ってね。」
「アタシをハメようったってそう簡単にはいかないわよっ。」
「...ハマってたと思う。」
「ぐっ...レ~イ~ッ!?」
 今まで見る事の無かったレイの表情に驚きつつも、今はこの緩やかな時の流れに幸せを感じる。それはやはり平和になった証なのだろうか?確かに平和にはなったのだろう。皆の表情は輝いている。もう人類の存在を脅かす使徒は来ない。そして人類補完計画を画策したSEELEもいない。全てはNervに託された。今は幸せなのだろう、きっと。
 だがケンスケは知っていた。ここには親友とも言えた少年がいない事を。だが少女達は笑う。当然皆その事は分かっているのだろう。だが口にはしない。もちろんアスカ、レイやヒカリも少年が還って来ると信じている事は、もう一人の親友であるトウジから聞いていた。何時か、あのおどおどした気弱な顔で『ただいま』と言ってくれるのだと。その上で皆笑うのだ。きっと還って来ると信じて。
 だからケンスケも笑った。少年が何時でも帰って来て良い様に、少年の居場所が無くならない様に。

 ふと窓から空を見上げた。綺麗な青空と白い雲。今日もあの永遠に思える夏の日がやって来る。
 あの少年のお陰で笑って過ごせる。平和な証しのだろう。だから言った。

「平和だねぇ...」





 6月。
 少年は久々に見る校門の前で仁王立ちをしていた。
「久し振りやなぁ。ここに来るんも。」
 短く刈り上げた黒髪と黒のジャージ。色黒の肌は元来その少年が健康的な体躯を持っている証だろう。事実ちょっとやそっとじゃびくともしないのだが、先日までとある事情により休学していた。勿論今ここにいるのはその事情、療養を済ませ健康体で今日から復学する為なのだが。
「ケンスケの話やと今月からミサトはんが担任になっとる言うとったからなぁ。よっしゃっ!!いっちょ気合い入れて行くでっ!!」
 鈴原トウジは勢い良く駆け出すと、誰もいない静かな玄関へと駆け抜けて行った。

「おっっっはようございま~すっっ!!」
 勢い良く開けたドア。そこで大声を張り上げたのは当然たった今階段を掛け登って来たトウジである。
 一方教室内には、唖然とした同級生達の顔と、あちゃーと手で顔を覆うケンスケ、冷たい視線のアスカ、きょとんとするレイ、俯き肩を戦慄かせるヒカリ。そして教壇には麗しの美人女教師(本人談)の微笑があった。
「あら。おはよう、鈴原君。」
「おっ、おっ、おおぉっっ!!!ほ、ほんまにミサトはんやっ!!き、今日から復学する鈴原トウジっ!!只今参上致しましたっ!!」
 やたらテンションの高いトウジに対し、ミサトは至って平静な表情で応対していた。
「えぇ、聞いてるわよ。私が今月から三年A組の担任になった葛城ミサトよ。改めてよろしくね?鈴原君。」
「おぉぉぉ...わいは幸せもんやぁ...ミサトはんの生徒になれるやなんてぇ....」
「鈴原君。私の事はこれからはミサト先生って呼んでね?一応学校だしさぁ。」
 突然男泣きをするトウジにさえも全く動じないミサト。
「は、はい。分かりましたぁっ!!ミサト先生!」
「それと...」
「はいっ!!何でありますかっ!!ミサトさん!あ、いやミサト先生!!この男鈴原トウジっ、ミサト先生の為なら例え火の中水の中、何処まででも御供させて頂きまっせっ!!」
「遅刻よ。廊下で立ってなさい。」
 滝の涙を流す熱血男鈴原トウジと、あくまで微笑を絶やさない麗しの美人女教師(本人談)葛城ミサト。
 そして教室を揺るがす程の、地から沸き上がって来る此の方のお言葉。
「す~ず~は~ら~っっっっ!!!!!」
 男鈴原トウジは後に語る。あの時の委員ちょはエヴァ弐号機よりも恐かったと。

 そして今日の彼の一言。
「...平和だねぇ...」

「...そう。良かったわね。」










参.






 静謐。
 暗闇が支配する此の広大な空間にいるのは唯一人。嘗ては人類の未来を勝ち取る為の、だが何時かその目的さえ擦り変わってしまった計画の中枢を担った場所。天地には計画の名残りとも言える宗教的幾何学模様。
 特務機関Nerv総司令執務室。それが此の場の名称だった。
 何時迄も静寂が支配するかと思われた此の場所も、一つの呼出し音によって破られた。
 男はそれを受け、静かにインターホンのスイッチを入れた。
「私だ。」
 マイクから聞こえた一言に男は黙したまま今度はドアの開閉スイッチを押す。
 此の部屋にあるたった一つの出入口から姿を現したのは、副司令冬月コウゾウだった。
「碇、いい加減雑用で私を呼出すのは止せ。もう此所は疚しい組織では無いのだぞ?雑用は秘書でも雇ってやらせれば良かろう?」
 冬月は大分草臥れた様子で矢継ぎ早に愚痴を零す。ゲンドウの側に来る迄に肩を揉んで見せたりもするのだが、それはあくまで彼也のジェスチャーだろう。どうやらそれだけ扱き使われるのに嫌気が刺しているのだろう。だがそれも此のNerv総司令には効いた試しは無く、一通りの演技をした処で話を切り出す。
「で、何の用だ?市議会の同意なら既に取れてるぞ。奴等もいい加減此所が日本の中枢足る事には気付いただろう。出すならとっとと出せば良い物を、いちいち渋って見せおって。」
「済まんな。苦労を掛ける。」
 思わず黙り込み、ゲンドウの顔を見つめてしまう冬月。此の男も変わった物だと。
「?どうした?」
 不信に思ったのか、ゲンドウが冬月に向き直る。
「あ、いや...お前も変わったと思ってな。」
「...そうか。」
「...で?どうした?」
 再び問うた冬月に、暫し黙り込むゲンドウ。椅子から立ち上がりデスクのボタンを押すと、背後の壁が一斉に昇り始めジオフロントの情景が姿を現し出した。
 ゲンドウは窓際に立ち但静かにその様子を見遣る。冬月は暫し訝しく思ったが自らもそれに習った。
 ジオフロントの天蓋部には今だ戦闘の傷跡を残してはいるが、その穴も四分の一まで埋まりつつある。第三新東京市の復興計画は約一年のスケジュールで完了する。此の地を人類の要と世界が認識したからこそ出来る事。予算の殆どはSEELEから没収した裏資金、人材は先日の国連総会の御陰で次々と此所に集まりつつある。全ては順調だ。これもシンジ君が世界を守った御陰だ。
 冬月が感慨に耽っていると、不意にゲンドウが口を開いた。
「彼が生きていた。」
 一瞬、理解出来ない。
「...彼?」
「“Wildcat”だ。」
「......な、なんだとっ!?」
 狼狽える冬月に、ゲンドウは全く微動だにせずジオフロントを見つめている。
「奴は確かに死んだと報告が入っていたんだぞ!?」
「あれはプロだ。偽装等楽にやってのける。」
 あくまで冷静なゲンドウに冬月は若干苛立ち始めていた。
「何故今頃になってっ!!」
「本人が直接接触して来た。私にな。」
「くっ...何が目的だ?やつは全てを知っているんだぞ。下手をすればNervを壊滅させるのさえ...」
 焦り始める冬月。ある意味Nervは世界に嘘を付いている。結果的にそう見えるだけで、Nervは世界の為に戦おうとした訳では無い。冬月自身何時かは弾劾されると言う覚悟は決めている。だが今は時期尚早だった。今真相が白日の元に曝されれば、Nerv職員の身柄さえ満足に確保出来ないだろう。
「...『何故嘘を付く?』と、聞かれたよ。」
「......」
 薄らと口元に笑みを浮かべるゲンドウ。だがそれは以前の不適な笑みでは無く。
「正直に言った。シンジの、皆の為だと。」
「...で、奴は何と?」
 その時点で冬月はゲンドウの笑みの意味を知った。だが敢えて聞いてみせた。
「協力してくれるそうだ。彼は。」
「......そうか。」
 再び冬月は外に目を向け、暫し考え込む。彼は真実を追い求めていた。死をも恐れず。だが何かが彼を変えたのだろう。守りたい物を見つけたのか...それとも、
「彼には暫く裏で動いてもらう。」
「...何故?」
「我々も大分落ち着いて来た。奴等もそろそろ動き始めるだろう。」
「SEELEか。」
「あぁ。」
「...分かった。諜報部を廻そう。指揮は、彼に任せるのだな?」
「頼む。」
 唐突に終わる会話。だが其れが彼等のスタイルなのだろう。大人達には未だ後始末と言う仕事が残っている様だ。
 執務室を立ち去ろうとしていた冬月に、唐突にゲンドウが呟いた。
「...冬月先生。我々は罪に塗れている。其れは覚悟しています。しかし...」
「判っている...未だ、やるべき事は山程ある。何よりシンジ君と...ユイ君の為に。そうだろ?碇。」
「...はい。御迷惑を御掛けします、冬月先生。」
「ふっ。気にするな。私とて同罪だよ。」

 静謐。
 静寂が支配する此の広大な空間にいるのは唯一人。嘗ては一人の男が狂気に捕われ目的を見失った部屋。
 今は、その胸中に確かに一つの意志を秘めた男のいる部屋。
 特務機関Nerv総司令執務室。それが此の場の名称だった。





「...シンジ...」

 呟き。男は何時迄もジオフロントを静観していた。





 






闇。

 周りにあるのはそれだけだ。


此所は何処だ?

私はいったいどうした?

何をやっていた?






何故...






止め処ない思考の渦。

変わらない闇。

ずっと、ずっと同じ事を思う。

何時までこうしていればいいのか?

何時になったらこの呪縛から解き放たれるのか?






それこそ神のみぞ知る、か。






果てしなく続く時間と空間。

不意に闇が晴れた。何の前触れも無く。


目の前には紅い。紅の惑星。






そうか。思い出した。

私はこの星を...

でも、これは?

結界が、無い。

何故...






だが然し。

紅い惑星は徐々に蒼に染まって行く。

ゆっくりと、それこそ幾億年も時を費やすかのように。

内部から染み出るかの様に広がって行く蒼。

やがて、惑星は蒼一色に。






そうか...

そういう事か、



リリン。



結界も元に戻った。

...いや、

そうか...

これが。




器が、必要だ...






そこには何も無い。只の無。











 






四.






 暗闇に支配されていた小さな空間。密閉された其所には生は存在しない、筈だ。
 だが、突然にそれは作動した。赤く光るLED。続いて響くモーター音。次々に点るモニター類。それらは一斉に息を吹き返し、自分が生きている証を、モニターに次々と映し出して行く。
 モニターの光が室内を薄く照らし出す。窓は無く、四方を全てモニターと計器類に覆われたその部屋の一角に、整然と並んだ四つの筒状の物体。しかしその中を伺う事は出来ない。それ等は未だ沈黙を守ったまま。
 やがて、主人の居ないその部屋に警告音が一度だけ響き渡り、すべてのモニター達が沈黙する。
 たった一つのモニターを残し。それは自己主張するように一行の文字を点滅表示し続けていた。

[ STAND BY, OK. Program start... ]










伍.






「ふぅ。」
 男が一息付く。吐き出された息は結晶となって白く立ち上る。気温が低い証拠だ。この寒い国での仕事は一苦労になるだろう。
 2000年に起きた地軸異常でこの国も平均気温が上がったとは言え、何せ元が寒い地域だ。9月ともなれば肌寒さを感じる物だ。常夏の国から訪れる者にはこの気温は少々堪える筈だ。
 だが男は嫌そうな顔一つ見せず、タラップを降りて行く。
 つい先ほど着陸を終えた、ルフトハンザドイツ航空A340-300型機は乗客達を次々と送りだしている。その中の一人である男は今タラップを降り立ち、このドイツフランクフルト空港に到着した。
 それなりのスーツを着込み、それなりの旅行鞄を手に下げ、それなりの靴を履いた男は、それなりのサラリーマンに見えそうな気がする。だが、ネクタイを緩めジャケットは羽織っただけ。伸ばし放題の髪を後ろで絞り無精を体現した様な髭、へらへらと弛んだ口元が彼を一介の会社員にさえ見せていなかった。
 顔立ちから東洋人と見て取れる彼は、幾許か周囲を見渡し納得言ったように微笑んだ後、何か一言呟いて到着ロビー行きのバスへと乗り込んで行った。
「さて、お仕事お仕事。」

 木枯らしが吹き抜ける。気温は低いが空気は済んでいる。
 街外れの寂れた公園のベンチに腰を下ろす。懐から時化った煙草を取り出し火を付ける。煙りが吐く息と同じ様に白く空に立ち上って行く。
 良い国だと思う。ちょっと足を止めれば、あちこちに自然が溢れている。この国で育ったアスカは幸せ者だ。が、果たして彼女はこの景色を目に止めた事は有ったのだろうか。歴史を感じる北欧情緒溢れるこの国の顔を。彼女の事だ。見向きもせずにエースパイロットへの路を走り抜けて行ってしまった事だろう。つくづく不憫な娘だと。
 暫し。トレンチコートを着た一人の東洋人が彼に近付いて来てベンチの隣に座った。
「何してるんです?こんな所で。」
 暫しの沈黙の後。彼はそう宣った。
「さんぽ。いい天気だしな。」
「相変わらずの昼行灯ですね。お久し振りです、加持さん。」
「あぁ。青葉も、元気そうだな?」
 加持リョウジは久し振りにあう知人に、人懐っこい顔で微笑んでみせた。

 街外れの寂れた国道。そこをひた走る車が一台。中には彼等が乗っていた。
「どうだ?向こうは?」
「え?あぁ。順調です。復興工事もスケジュールに若干の遅れは見られますが、もう使徒は来ませんからね。以前の様な手抜き工事をさせない監査の方に重点置いてます。日向が愚痴ってましたよ。スケジュール遅れと手抜き監査が入れ代わっただけで大変なのは変わらないって。」
 加持は煙草に火を付け車のウインドウを全開にする。暫しボッと外を眺める加持を不信気に見つめる青葉だったが、煙草の灰が窓の外で落とされた後、加持の言葉が彼の思考を一瞬止めた。
「...彼奴。元気か?」
 一瞬誰の事か判断しかねる。だが彼がNervを去るまでは共に居たのだ。青葉には加持が指す人物が誰なのかすぐ分かった。
「...元気です。以前にも増して。」
「...そう、か。」
「今は、アスカちゃんの学校で非常勤教師って事で毎日通ってます。作戦部、暇ですからね。」
「聞いてるよ。監視、だろ?しっかし。葛城が教師とは。恐れ入るね。」
「ははっ。ですよね?」
 車内に暫し苦笑がそよいだ。後、静謐。ロードノイズが耳に付く。青葉には先程までの笑みは無く。
 彼には聞きたい事があった。加持と会ったその時から。だがずっと聞けずにいた。
 何故?その好奇心が遂に青葉の口を割らせた。
「...加持さん。彼方、どうやって生き延びたんです?あの時。」
 そう、あの時。青葉は加持を撃った。諜報部として。冬月の命令通りに。だのに何故?
「...変か?」
 加持が振り返った。何時もの人懐っこい、悪戯が成功した時の子供の様な顔。ちょっとむかついた。
「そ、そりゃそうでしょっ!?俺は確かに加持さんを殺したっ!!なのに今彼方はここに平然と生きてるっ!どうやって?何故生きてるんですっ!?」
「そりゃ、決まってるじゃ無いか。君は俺を殺して無いからさ。」
「えっ?」
 唖然とするしか青葉には反応する事が出来ない。それはそうだ。自分は確かにあの時、あの場所で、加持を撃った。そう確かに加持は胸部を撃たれ倒れたのだ。
 しかし加持は自分が彼を殺して無いと言う。そんな訳が有る筈は...殺していなかった?
「あぁ。シゲルは俺を殺してなんかいない。確かに撃たれはしたけど、な。」
「じゃ、じゃあ...」
 それは自分が命令を実行出来ていなかったと言う事。加持を殺しきっていなかったと言う事。そう、加持は生きていた。
「最も、三日三晩起きる事も出来なかったがね。君は情報部の人間だし諜報部の人間でもあったが、プロじゃあない。人を撃ったのはあれが初めてだったんだろ?」
「は、はい...」
 辛うじて返事出来た。青葉は体中の緊張が抜け脱力している。自分は未だ人殺しでは無かった、と。加持はそんな青葉を横目で見ながら続ける。
「撃ち所にもよるが、人間を即死させるには一発の銃弾では足りないよ。習わなかったか?」
「は、いや...はい。」
 そんな事を考える余裕は無かった。あの時青葉は引き連れた諜報部員を離れた場所に配置し、自分一人で潜入した。但、他の奴等に加持を殺させる事は出来なかった。かと言って加持のスパイ行為を見逃す事も出来ない。ならば自分がこの手で彼の息の根を止める。それしか考えていなかった。
「でも、お前が来てくれた御陰で俺は生き延びられた。他の奴等なら、そうもいかなかったさ。確実に息の根を止められて、丸ごと焼却されるか海にどぼんだ。差し詰め青葉は俺の命の恩人って訳だ。」
「や、止めて下さいっ。俺は彼方を殺そうとしたんですよっ!?」
 耐えられなかった。加持は自分を責める様な事は言わないが、自分が彼を殺そうとしたのは事実だ。それを許してくれるからと、へらへら出来る程青葉は図太くはなれ無かった。
 だがそんな青葉を、加持は笑って諭してみせた。
「どのみち俺は誰かに殺されていたんだ。彼方此方で悪事を働いたんでな。それがお前の御陰で偽装出来たんだ。今も俺、加持リョウジはこの世にはもういない事になってる。こうやって生きていられるのもシゲルの御陰さ。」
 青葉は何も言えなかった。それは加持の気遣いもそうだが、もう一つ。今、これから向かう先の事。
 既に車中に会話は無く、唯続く路を走り去るのみ。やがてロードノイズは震動へと移り変わり20分程で止まった。
 回りは何も無い山の中。気が生い茂り、たった今通って来た道もこの先からは途切れている。
 青葉が車から降り辺りを見回す。後から降りた加持は一向にこちらを見ない青葉に問いかけた。
「いいのかい?君は人殺しでは無かった。今なら未だ間に合うんだぜ?情報部の人間なんだ。作戦指示を出していれば」
「加持さん。」
 加持の説得は青葉に遮られる。未だ森を見つめたまま。彼は一体何を見、何を目指すのか?
「俺は決めたんです。例え彼方を殺していようと無かろうと、俺はアスカちゃんやレイちゃん、勿論他の皆も。守りたいんです。もう、何も知らずに諦めるのはご免です。それに、こういう事は俺達大人の仕事でしょ?俺達が、未来を切り開かなきゃ、シンジ君に顔向け出来ませんよ。」
 そう言って振り向いた青葉は悲し気な、だが意志を貫く瞳を向けた。加持は軽く微笑み、
「武器は?」
「トランクに。お好きなものをどうぞ。」
 二人はトランクに詰まった銃器を取り出し装備して行く。加持はベレッタ・クーガー、コンバットナイフを腰に差し、ウジSMGを肩から掛ける。青葉は同じくベレッタ・クーガー、コンバットナイフを。最後にアサルトライフルを取り上げ装備する。
「他の連中はどうした?」
 銃器を確かめつつ加持が聞く。青葉はにっこりと笑うとまた回りを見渡す。
 加持も同じ様に見渡し、静かにほくそ笑む。
「準備は万端です。指揮は加持さんに任せます。よろしく頼みますよ?次期情報調査部部長。」
「ふっ。柄じゃ無いな。そっちこそ無理すんなよ?中央作戦室長?」
 二人はお互いの意志を確かめ合う様に微笑む。青葉が指を鳴らした。
 今まで静かだった森が突然ざわめく。

 そこには数十名のNerv特殊部隊が姿を現し鉄の狂気を抱え佇んでいた。





 男、否。老人は焦りを憶えた。突然の銃声と悲鳴。それが開始の合図となった。漸くあの憎むべき裏切り者への復讐の準備が整ったばかりだと言うのに。
 そうだ。残った人員・設備・資金を掻き集め、切り札まで用意した。これで再び人類補完計画を再始動出来ると思った矢先のこの事体だ。生憎この地に最低限の守備しか残していなかったのが失敗だった。
 袂を別けた碇が、我等を殲滅しようと動くであろう事は予測していた。が、ここまで早々にこの地を嗅ぎ付けて来るとは思わなかった。奴等とて無傷では無かったし、仕掛けて来るまでの時間は十分に有ると想定してのスケジュールだった筈だ。が、実際には奴等の方が一枚上手だったと言う事か。今のSEELEでは虚勢を張るしか能の無い連中しか残っていなかったのが今はっきりと証明されてしまった。彼等は自分が絶対だと思い違いして、杜撰な監理しか出来ない言わば無能者だ。私がいなければ何も出来ない。
 委員会のメンバーは全員LCLに解けて消えた。否、正確には私も一度LCL、生命の起源へと還元されたのだ。だが気付くと私は生きていた。この半ば機械の身体に引き戻されていた。回りには二度と戻っては来ないであろう出来損ないの生命のスープ達。失敗したと気付くのにそれほど時間は要らなかった。
 だが今は悲嘆に暮れている時では無い。我々の計画は頓挫した。最も憎むべき同士だった者の手によって。
 老人は静かに地下施設へと足を向けた。

 噎せ返る異臭。駆け抜ける人間兵器達。飛び交う鉛玉に次々と命が燃え尽きてゆく。
 一人、又一人とSEELEの非武装職員までを駆逐して行く、Nervの特殊部隊。彼等には作戦遂行の文字しか存在しない。SEELEの人間は一人残らず抹殺されてゆく。蹂躙や強姦等、戦場で有りがちな余計な行動は彼等には存在しない。只殺すだけ。一撃で確実に息の根を止める迅速な行動しか彼等には存在しない。それが彼等の様な特殊部隊に要求される唯一つの事。只の殺戮マシーンなのだ。
 だが人を殺す事に変わりは無い。事実、辺りには硝煙が立ち篭め、壁には流れ弾が多数めり込み、廊下の奥からは悲鳴と発砲音が木霊する。足下には幾つも転がる、先程まで生きていた人、人、人。ナイフで喉元を抉られ狂気の表情で倒れる者。腹部を捌かれ内蔵を飛び散らせて絶命している者。壁を血に染め座り込む頭部を破裂させている者。体中で銃弾を受け原形さえ止めていない者。最早凄惨を極めた彼等の牙城に生気感じられない。有るのは狂気と殺戮と破壊の意志のみだ。
「大丈夫か?」
「平気です。この位は。」
 兵士が走り抜けて行く中、歩幅を緩める二人。加持と青葉。
 加持はレシーバーで各部隊と連絡を取り細かく指示を飛ばす。その姿を横目で見ながら流石だと青葉は思わざろう得ない。その様は正しく戦闘のプロであり、これなら自分が失敗したのも当然であり、また生きていても当然だった。
 尤も青葉はそんなに考え込む余裕は無かったのだが。先程は強がって見せたものの、やはりこの凄惨な光景は見るに耐えない。さっきから吐き気を押さえるのでやっとだった。だが、こうなる事は覚悟してここまで来たのだ。潜入してから幾人も殺しもした。それを今さら戻るわけにも行かず、必死に堪えているのが青葉の現状だった。
 一方、加持のレシーバーには各部隊からの連絡が次々と報告されて来ていた。尤も、潜入後三十分で略けりは付いていた。今入って来ている報告は目的の人物が何処にも見当たらない事。だがそれも先程向かわせた兵隊からの報告で明かとなった。
[こちらLANCE。Forecast pointへ到着。Targetは確認出来ず。Over。]
「Wildcat。了解。」
「逃げられたんでしょうか?」
 通信を聞いていた青葉が心配げに聞く。だが加持は何かを確信しているかの様に言った。
「いや。そんなに短時間で脱出は不可能だ。恐らくは、下だな。」
「研究施設?...じゃあ、資産(アセット)を起動する気じゃ!?」
「急ごう。」
 二人は数名の部下を連れ足早にその場を後にした。





 静寂。だが施設事体が時折僅かに震動を伝えており、今だ上階では戦闘が続いている事を知らせている。それだけがここが地下に隔離された空間だと知らせてくれる。
 薄暗く非常灯だけが照らされ、ライトグリーンの無気味な影を落とす。幽かに浮かび上がる設置物から此所は何かの研究施設だと知れる。誰も居ない、静謐。まるで棺桶の様に。
 だが不意に空間に差し込む光。それは扉を開け入って来た老人、キール・ローレンツ。
 目もとを覆われたバイザー。身体の半分近くを機械へと委ねるその姿は、死という恐怖から逃れる為に、悪魔にさえ魂を売り渡した醜き生き物を象徴しているかの様で。だが、それが人というモノの性なのかもしれない。
 キールは既に焦燥しきった顔でゆっくりと部屋の奥へと進む。背後で自動ドアが閉まる。定期的に聞こえてくる金属音は、何処か空しさを引きずっている様に部屋に響く。
 ふと足音が止む。
「これが世界を裏で支えたSEELEの末路とはな。案外呆気無い物だ。」
 キールは部屋の奥に備えられた円筒状のカプセルに手を添え、静かに呟く。カプセルの上部には人の脳をあしらったかの様にパイプ類が天井へと延びている。そう、Nervのセントラルドグマ最下層。嘗てリリスと呼ばれる少女をそこに幽閉していた物と同様の物体。
 その調整槽に佇むのは、同じく“使徒”の御名で呼ばれた少年。
 聖なる母から生まれたままの姿。銀色に揺れ輝く頭髪。北欧彫刻の様に整った顔立ち。細みの華奢な身体。少女の様に木目細かい肌、アルビノ。ダブリスと呼ばれ、常に微笑を浮かべる天使。心の壁。ダミープラグ。人が生み出した最強の美術品。

 渚カヲル。

「そうは思わぬか?カヲル...」
 既に生気の抜け切った嗄れた手に少年が応える様子は無く、只静かに眠りに付くのみだ。
 キールはふと溜息を漏らし、傍らのコンソールパネルへ手を伸ばし何やら操作を始めた。
「お前の記憶は三歳の時から止まっている。オリジナルのお前にこの十三年間の記憶は無いはずだ。苦労するだろうが、安心して目覚めるといい。お前には何もしてやれなかったな。それどころか血縁としては最も醜悪な事をしてしまった。許してもらおうとは思わん。もうこの老い耄れの身体も限界だ。そしてSEELEも。お前は一からやり直せば良い。SEELEは私の手で終わらせる。」
 キールの手が震えながらプラスチックカバーの掛けられた赤いボタンを押す。と同時にカプセルの下部から気泡が幾つも浮かび上がってきた。
「Grandpaに出来るのはこの程度だ。Vatiには私が謝っておこう...済まんな、カヲル...そろそろ、限界らしい...」
 キールはその場にどさりと崩れ落ちると二度と動く気配を見せなかった。

 再び訪れる静寂。
 ごぼごぼと調整槽の液体が排出されて行く中、只二対の赤い瞳だけが寂し気に老人を見つめていた。





 彼等が五分後に到着したその部屋は、異様な光景と言っても差し支えなかった。
 脳を模したパイプ類の固まりに垂れ下がる脊髄の位置に、円筒状のカプセルが設置されている。それは暗闇に浮かび上がる巨大な人の脳に見えなくも無い。その手前に倒れ伏す機械仕掛けの老人。そしてそれを物悲しい紅の瞳で見下ろす鑞人形の少年。何処か冗談に思える一枚絵。
 しかし、彼等にとってその全てが何を指すのか知っている以上、迂闊に手を出す事は出来なく身動き出来ずにいた。銃器を握る手に汗が滲む。
 静かに、少年が動いた。
「哀れな人だね。結局彼には何も無かったんだ。何も知らずに逝ってしまった。」
 小さく呟く少年に誰一人動く事が出来ずにいた。少年は一つ瞬きし彼等を見据えた。
「見ての通り。総帥キール・ローレンツは生体部品との拒絶反応で死亡。SEELEは自らの権威に驕り滅んだ。リリンは何時の世も虚しい争いを繰り返す...そうは思わないかい?Nervの諸君。」
 少年は只無表情に彼等を見据える。その顔に微笑は無く。
 加持はNervから第拾七使徒戦及び渚カヲルに関する報告は既に受けていた。人の身体を持った使徒、ダブリス。生身でATフィールドを操り、EVAをも従える。セントラルドグマに潜入しヘヴンズドアを抜けアダムに接触しようとした。だが直前で初号機により殲滅。彼はアダムに接触する直前でそれをしなかった。否、出来なかったのだ。そう、彼所に在ったのはアダムでは無くリリスの骸。何故彼は諦めたのか?そして最終戦で飛来した量産型EVA。そのダミープラグにはこの“少年達”が乗っていた。レイと同じ、だが少しだけ異なる存在。渚カヲル。そして目の前にいる少年。
 実際に会うのはこれが始めて。だが、加持は何か違和感を感じていた。
 青葉も同様。あの戦闘の最中、あれだけ感じていた恐怖感が今は無かった。あの時、セントラルドグマに向かうカヲルを見ながら思った。本能が少年を『ヒトならざるモノ』だと告げていた。だが今は違う。今感じるのは何か...哀しみ?...青葉は何時の間にか少年と話をしていた。
「渚、カヲル...だね?」
「えぇ。」
 淀み無く流れる清涼の様な声。
「どうするつもりだ?また、アダムとの融合を...」
 青葉の押し殺した声が震え始めた時、詰問は微笑に遮られた。暫しの間。少年の声が響いた。
「ホントに何も知らないんだね。リリンは。アダムはもういない。そうでしょ?加持さん?」
 突然名前を呼ばれ驚く加持。だが、声だけはいつもの飄々とした雰囲気で返した。
「ほう。俺の名前を知ってくれてるとは。光栄だね。」
「そりゃあもう。有名ですから。」
「で?どうするんだい?君がやる気なら、それなりの対応もさせてもらうが?」
 少年は今まで見せた事のない少し驚いた顔を見せると、意外だと笑ってみせた。
「彼方にも知らない事は在るんですね?」
「...どう言う事かな?」
「ま、その話は後ほどゆっくりと。安心して下さい。僕には反抗する気も無ければする力も無いですよ。ただ、碇司令と少しお話がしたいんですが。」
 暫し膠着する両者。尤もカヲルは少しも緊張している様子は無いのだが。始めに緊張を解いたのはやはり加持だった。今まで少年に向いていたウジSMGの銃口はゆっくりと下ろされた。
「...いいだろう。」
「か、加持さんっ!?」
 慌てる青葉を片手で制し、加持は続けた。
「但し、暫く君は捕虜という扱いになるが。構わないかい?」
 少年は柔らかく微笑むと一言。
「服くらいは支給して下さいね?これじゃ風を引いてしまう。」
 そう言って自分の身体を見せるカヲルと苦笑を浮かべる加持に、青葉は唖然としていた。

「しかし、予備のボディーがまだ残っていたとは、知らなかったよ。」
 一緒に並んで歩く隣の少年に向かって加持は呟く。施設の制圧は略完了し部隊は撤退しつつある。残りの指揮を青葉に任せ、加持はこの重要参考人を連行する為に付き添っていた。
 少年は貰った毛布に身を包み、加持の隣を裸足で付いてくるその姿は今は何処か滑稽に見える。本来捕虜と言う事を考えれば手錠でも掛ける所なのだが、それも使徒相手には無駄な事に思えて諦めていた。加持の言葉にカヲルは苦笑すると軽やかに言った。
「いい加減気付いて下さい、Wildcatさん。僕は予備ではありませんよ。」
「?」
 訝る加持。カヲルは笑って続けた。
「レイと僕がこうして此所にいられるのはシンジ君の御陰です。シンジ君が僕等を望んでくれた。だから使徒の身でありながら、こうして生きていられるんです。」
 加持はふと思い出していた。リツコの作成した報告書の中にあった一節。

『綾波レイからは使徒としての遺伝子は消失しており、故人碇ユイのクローン体として存在している。また、出生から(レイ・ファーストからサードまで)の記憶を全て所持している事から、当人を一人間として判断するのが正当であると思われる。』

 リツコのレイへの償いと思い遣りが文書の節々に読み取れた報告書だった。だが、今はそれは関係ない。
 問題は報告書の内容と、先程のカヲルの言葉。それがこの少年にも当てはまるとしたら?...
「...君は、記憶が...いや、人間なのか?...」
 やっと気付いたか、とにこりと笑うカヲル。その表情は何処から見ても人間の仕種としか言い様が無い。
「少し、レイとは事情が違いますけどね。」
「?」
 まだ何かあるのかと訝る加持を見て、更に笑みを深めるカヲル。
 二人はやがて施設を出て、外で待機していた回収部隊のヘリへと乗り込んだ。後から駆け込んで来た青葉を乗せてヘリは飛び立ち上昇を始める。
 青葉は何事かを加持に報告する為大声を張り上げる。加持は真中に座り、青葉の報告を聞いているのか聞いていないのか何やら考えている様子。
 どちらにせよカヲルには興味は無かった。今は只、遠ざかるSEELE最後の研究施設を眺めていたかった。不意に何故かあの人に伝えたい言葉が去来した。

「さよなら。Grandpa...」

雫が一粒。光り、落ちた。










六.






 11月。15年続いた“暑い冬”もとうとうその影を潜めつつあった。
 日本の服飾メーカーは15年間必要無かった冬服が、急遽生産ラインに載るよう手配され、はっきり言えば突然の売り上げ向上に笑いが止まらない状態だった。又電化製品メーカーも同等の理由により暖房機具を生産し始め、又同等に笑い転げている。
 そんな事を知ってか知らずか、少女達は今日も元気だ。
「さっっっっむ~~~~~いっ!!!」
「アスカ。うるさい。」
 二人の少女は先日漸く壱中から指定販売された白のカーディガンを制服の上に羽織り登校中だ。
 紅の少女は今日も今日とて騒がしいし、蒼の少女は日々突っ込みの厳しさが増している。始めの頃はアスカもちょっとビビッていたが、実はレイがお笑い番組で突っ込みの勉強をしているのを知って呆れ返った後、今はそれなりに無視する事にしている。
「あんたねぇ。レイは寒く無いって~の?」
「いえ。寒いわ。」
「でしょっ。やっぱりこんなカーディガン一枚だけじゃ私達を納得させられないわよっ、あのハゲ教頭っ!」
「もう。アスカ、何朝からぎゃーぎゃー喚いてるの?」
「おはようございます。アスカさん。レイさん。」
 二人に声を掛けて来た二人の少女。
 赤みがかったショートボブ、愛くるしい顔に笑顔が良く似合う少女は霧島マナ。一年前戦自のスパイとしてシンジに近付きそして恋に落ちた少女。事の後、追っ手から逃れる為身を隠していたのだが、7月にひょっこり帰って来た。戦自自体が未だ復旧出来ずにいたのとNervの保護を求める為だった。以後彼女はNervの見習いオペレータとしてマヤにくっ付いて本部に出入りしている。
 もう一人は艶やかな黒髪を伸ばし、眼鏡を掛けた童顔気味の少女、山岸マユミ。本をこよなく愛するこの少女は、ふとした事でシンジ達と壱中の学校祭で地球オーケストラバンドなる物を組んで出場した事もある。だがある日戦闘に巻き込まれ父親と共に疎開していった。彼女もマナの後を追ってくる様に8月に転校して来たのだ。
 それから一ヶ月。マナとマユミ、そしてアスカ・レイと更にヒカリを加えた五人が自然と親好を深めたのも不思議では無い事だった。唯、誰一人いなくなった少年の話題を自ら持ち出す者はいなかったが。
「おはよう、マユミ。マナ、何よっ。」
「おはよう、二人共。」
「おはよっ、レイちゃん。まぁた相変わらずの漫才やってたんでしょ?アスカぁ?懲りないわねぇ。」
「誰が漫才よっ!うっさいわねぇっ!!」
 アスカとマナは基本的には仲が良い。良すぎる位だ。但しそれを他人が判別する事は不可能に近い。マナはアスカとじゃれ合うのが楽しくてからかいまくり、アスカは嫌そうにしながらも実はその掛け合いを楽しんでいたりする。だが二人のそれは少々レヴェルが高い。否、単純に度が過ぎると言った方が良いか。何せ只の喧嘩にしか見えない。見ず知らずの人が見れば思わず止めに入る程だ。まあ、それ程に二人の相性は合っていた。否、本当の所は分からないが。
「あ、レイさん。この間言っていた本、手に入ったんですっ。」
「ホント?」
「はい。今度持って来ますから。」
「えぇ。お願いするわ。」
 この二人の仲が進展したのは他でも無い、お互いの趣味が高じてと言う事だろう。レイは元々暇を潰す為の読書だった。別に内容には全く興味を憶えた試しは無かった。何せ主だった物はあの赤木リツコ博士に頂いた医学書だの、物理学だの、量子学だの。それが一転したのは、以前偶々休日に買い物に出た時にシンジと出会し、本屋で買ってもらった詩集が元だった。シンジが好きな作詞家だと言って渡してくれた其れには何故か心引かれた。其れからは詩集や小説を主に読む様になっていた。そしてマユミが戻って来てからはお互いに持っていない本の貸借り、新刊や掘出し物の話等その話題には尽きないようである。
 暫くすると、やがてこの四人に加わる何時ものメンバー。
「おはようっ。みんな。」
「おはよ~さん。」
「おはようっ。」
 洞木ヒカリ、鈴原トウジ、相田ケンスケの三人である。ヒカリは直ぐに四人に加わり女の子同士の会話に花を咲かせ始め、トウジ・ケンスケは後ろから付きつ離れず付いて来る。これが何時もの構図だ。
「なぁ、トウジ。」
「あ?なんや?」
 顔を近付けこそこそと内緒話しを始めるケンスケ。その顔は何処か悲哀に暮れている。
「最近男子共の目つきが怪しいの、分かるか?」
「あぁ、わぁっとる。でも何でや?わい等何ぞ恨まれる様な事したかいのぉ?」
「...決まってるだろ?見ろよ回りの男共のあのぎらついた目。」
 言われた通り、確かに同様に登校しているであろう生徒達の目付きは、今にも自分達を殺しにやって来そうな目だ。
「嫉妬してるんだよ。まぁ、当然って言えば当然なんだけどさ。何せ壱中の五大美少女を独占してるんだもんなぁ...そりゃ恨みの一つや二つ買いそうだもんなぁ...」
「...確かに...」
「「はぁ~...」」
 まぁ、こっちにはこっちの悩みがあるようで。

 朝の教室とは往々にして騒がしい物だ。我が三年A組も御多分に洩れず、否其れ以上に騒がしい。その一端の担っているお二人の声。
「鈴原ーっ!日直でしょっ、早く黒板消しなさいよっ!!」
「わ、わ~とるがな。いいんちょ~。」
 で、更に二人。
「うっさいわねぇっ!どっちも似た様なもんでしょっ!!」
「ちっがうわよっ!!こっちの方が可愛いじゃ無いっ!見て分からないのっ!!」
 まぁ、この辺が主に騒がしさの元凶だ。
「平和だねぇ~。」
 更に追い討ちを駆けるのが、この連中と切っても切れない関係のあるこのお方。朝も早からエキゾーストを響かせ、校内の駐車場へ滑り込んで来る青のルノー。当然ドリフトターンでしっかり駐車枠内に入れるのが毎朝の日課となっている。
 と同時に全校男子生徒が一斉に窓へ飛びつき奇声を挙げるのも、これ又日課。
 ドアを開きそこから軽やかに降り立つ絶世の美女(本人談)は、これ又狙ったかの様にサングラスを取り漆黒の髪を靡かせにっこりと微笑む。そして更に燃え上がる男達の血潮。それに応える美女の投げキッス。更に更に暴動が起きんばかりの、
「「「「「「「「「「ミサトせんせ~~~~っっっ!!!」」」」」」」」」」
 当然締めはこの方々。
「「「「「ばっかじゃ無いのっっ!?」」」」」

「おっはよ~っ、皆。はーい、休みの人手を挙げてー。いないわねー。全員出席っと。」
「相っ変わらずいい加減ねぇ。ホントに教師かしら。」
「何か言ったぁ?アスカ~。」
「べっつに~。」
 とまぁ、三年A組の朝はこんな感じで始まる。
「さてと。今日は大事な話があるの。皆静かにね。」
「自分が一番五月蝿いじゃ無い。ねぇ?」
「え?は、はははは...」
 突然アスカに振られ狼狽えるヒカリ。
「ア~スカ~ッ。」
「はいはい。いいから早くしなさいよ。」
 頬杖を付き片手を振るその姿はとても年上を慕おうと言う所は感じられない。まぁ、アスカには元々そんな物は存在しないかもしれないが。
「まぁ、いいわ。レイ。こっちへ来て。」
「はい。」
 突然教壇へ呼ばれる蒼の少女。紅の少女は幾許の驚きを隠せなかった。
「いいわね?レイ。」
「はい。」
 何事か目配せをするミサトに素直に返事をするレイ。そしてミサトは正面に向き直ると何時もの軽い調子とは違い少し哀しみを帯びた声で話しだした。
「実はね、急な話だけど、レイが引っ越す事になったの。」
 一瞬、目の前が真っ暗になった。目眩の様な、吐き気の様な。其れが何かを認識する前にアスカは叫んでいた。
「ど、どう言う事よっ!!」
 アスカが突然立ち上がった事で倒れた椅子が異常に教室中に響く。だがミサトは変わらぬ落ち着いた声でアスカを制した。
「アスカ、お願い。今は話を聞いて。」
 アスカは何か言いかけたが旨く言葉にならず、渋々席に着き直す。その間アスカの頭の中は事の自体を認識する為に右往左往していた。だが未だに事の事体を理解出来てはいない。
「レイ。自分で話せるわね?」
「はい。」
 アスカとは正反対で落ち着いた様子のレイは、ミサトと入れ代わる様に教壇で正面に立ち皆の顔を見つめる。そしてアスカと見つめ合った所でレイは話し始めた。アスカを見つめたまま。
「突然の事で、驚かれたと思います。私には両親は居ません。今まではアスカと一緒に、ミサト先生が保護者として同居してくれていました。」
 一旦言葉を切り、目を瞑り何かを考え込む様な仕種をすると、レイは再び話し始めた。やはりアスカを見つめながら。
「今度、私は養子になる事に決めました。」
 皆の顔が驚きに変わる。アスカはレイに見つめられながら事の事体を理解出来ずにいた。只はっきりとして来たのは、哀しみと寂しさと悔しさとが綯い交ぜになった感情だけ。何をどうすればいいのか分からないまま、アスカの頭の中をレイの言葉が貫いた。
「でも安心して下さい。引っ越すだけでこのクラスには今まで通りちゃんと来ます。」
 誰も反応出来なかった。
 教壇の隣。窓辺では生徒に背を向けて笑いを堪える美人狂師。
 約二分程その間抜けなオブジェ達は動く事は無かったが、流石は自らを天才(災?)美少女と名乗るだけの事がある彼女が真っ先に復活を遂げた。
「ミ~~~サ~~~ト~~~ッッッッッ!!!!!!!」
「あ~ん。アスカ、許してチョ・」
 再び二分。
「ゆ~る~さ~~~~~んっっっ!!!!」
 一分後。教室の片隅に真っ赤なオブジェ(アスカ作)が完成したとかしないとか。
「レ~イ~ッ!!!」
 次の作品に取りかかるべく標的を捕らえたアスカだったが。
「...ご免なさい。」
 先手を打って頭を下げるレイ。レイからはアスカの顔は見えていないが歩みが止まったのは確認出来ていた。案外策士である。
 だが、レイは予想外の形でアスカに襲われた。襟元を掴み上げられ直立したレイの胸元に、アスカにしがみ付かれていたのだ。途端に立場が逆転し、レイはおたおたするばかり。アスカは泣いていた。
「...ばかっ...一言ぐらい、言いなさいよぉ...」
「...アス、カ......ご免、なさい...」
 抱き合う二人を優しく見つめる仲間達。何時の間にか復活したミサトも静かにその様子を見守っていたが、暫くして二人に話し掛けた。
「アスカ。まだレイの話は終わって無いわよ?」
「え?」
「ほら。聞いてあげなきゃ。」
 見つめるアスカにレイが静かに呟く。
「お願い。聞いて欲しいの。」
 優し気な雰囲気に訳が分からないものの取りあえずレイから離れるアスカ。レイは再び正面を向き話を再開する。
「驚かせてご免なさい。ただ、引っ越す事も、養子縁組するのも本当です。それで...」
 暫し言い淀むレイ。ミサトはその様子に、
「レイ?私から話しましょうか?」
「いえ。大丈夫です。」
 にこりと笑うレイに、ミサトは頷く。言い淀む割には嬉しそうな表情のレイにアスカは真意が分かりかねた。最もその応えは直ぐにレイ自身から発せられた。
「綾波レイは今月限りで居なくなります。私は来月から新しい家族の元で“碇レイ”になります。」
 静寂。皆レイの言った事の意味は理解していた。但反応出来なかっただけ。
 そして、そんな場をフォロー出来るのは教師としての葛城ミサトだけだった。
「皆、ちゃんと聞いてたわね?聞いての通り。レイは来月から綾波姓から碇姓に変わります。もう皆分かってると思うけど、レイの新しいお父さんはNervの総司令碇ゲンドウさんよ。知っての通り碇シンジ君が行方不明になってから碇さんは忙しくも寂しい毎日を過ごされています。ですが、今度碇さんが再婚なさる事になったの。それなら、いっその事色々と面倒を掛けてしまった身寄りの無いレイを家族として迎え入れたいって事になったのよ。レイは今まで一人で生活してて、戦争が終わってからは私の家で同居して少しだけ家族になれたわ。でも、これからは本当の家族がレイを迎え入れてくれるの。だから、ね?皆もお祝してあげて欲しいの。もちろん来月からはレイは『碇』って呼んであげなきゃね?」
 皆、誰も喋らずにミサトの話を一言も漏らさずに聞いていた。このクラスには“碇シンジ”は特別な存在であり、又穢してはならない存在にまでなっていた。だがそれが今回は、レイの養子縁組が暫し危惧された。知り合いが碇姓を名乗ると言う事実。レイにとっては喜ばしい事でも、他の者達には疎まれてしまう可能性もあったのだ。だからこそ態々此所まで手の込んだ事をミサトはしてみせたのだ。そして、心からレイを祝福して欲しいと。
 斯くして結果は、
「レイ。私達、ずっと親友よね?」
 アスカがレイと向き合う。レイはアスカから目を反らす事も無く。
「もちろんよ、アスカ。」
 アスカは挑戦的に微笑むと、
「ずっと、ライバルよっ。」
「えぇ。」
「ずっと姉妹よっ!」
「えぇ。」
「ずっと...家族だから、ね。」
「...えぇ。」
 紅の少女はレイの手を取り、
「おめでとう。レイ。」
 優しく微笑む紅の少女。
 それに応える蒼の少女は薄く涙を浮かべ微笑み返した。
「...ありがとう...アスカ...」
 突然挙がる拍手。レイの大事な友人達。
「おめでとうっ。レイちゃん。」
「おめでとうっ!良かったねっ。」
「おめでとうございますっ。レイさん。」
「おめでとさん。綾波。あ、もうすぐ碇やったな。」
「まだ綾波で良いんじゃ無いのか?ま、おめでと。」
 そして次々と挙がる拍手と祝いの言葉。
 ミサトはその様子にほっと一息付きながら優しく見守っていた。が、
「?...よかったわねアスカァ。ライバルが一人戦線離脱したわよぉ?」
「は?何言ってんのよ、ミサト。」
「あらぁ?だってそうじゃなぁ~い。レイにシンジ君取られなくて済むじゃ無い?」
「なっ!?」
 どうやら悪戯好きの虫が騒ぎだしたらしい。この美人教師はどっかのヒーローの様に三分以上真面目な顔が持続出来ないらしい。
「なっ、な、なな何言ってンのよ!!何でそこでシンジが出て来んのよっ!!」
 見事にミサトの術中にハマり、真っ赤になって応戦するアスカ。だが悲しいかな。この手のノリにはすぐに乗って来る者がこのクラスには多い。案の定。
「あ~ら、アスカちゃ~ん?お顔が赤いわよ~?どーしたのかしら~?」
 猫撫で声で迫る極悪少女マナ。アスカピンチ。
「な、何言ってンのよっ!あんたには関係無いでしょっ!?」
「私はシンジの事好きだものっ。関係なく無いでしょ!」
「あら。だったら私も好きですわ。」
「「うっ!?マユミ...」」
 思わぬとこで伏兵を増やしてしまったアスカとマナ。実は他にも密かにシンジを慕う者達が多数いる事を彼女達は未だ知らない。
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ続ける少女達。ぎゃははと笑う美人(?)教師。
 やはり三年A組の朝は騒がしい。
「はぁ、平和だねぇ。」
「そう。良かったわね。」
 因みに一時限目の国語教師が教室の外で青筋立てているのは誰も知らない。










七.






 12月。寒さの押し迫る年の暮れが間もなくやって来る。そんな時期だ。
 既に何度か雪が降った地上とは違い、この場所が銀世界になる事はあり得ないし、一定の気温も保たれている。
 ジオフロント。それがこの場所の名。嘗て何者かが残したと言われる巨大な球状空間。今はNervと言う組織が土砂に埋まっていたそこを掘り起こし、人工の生活空間を構築している。
 数カ月前まで日の光が差し込んでいた天蓋部も先月末に工事が終了し、Nervは漸く一段落付いた所だった。
 Nerv本部を取り囲む様に群生する森林。残念ながら人の手によって移植された物だが、それでも緑は人の心を潤してくれる。
 レイはこの場所が好きだった。もちろんどちらかと言えば外の自然な森の方が好きだ。夏に皆と行ったキャンプは凄く楽しかった。只、生憎外の森達はすっかり葉を落とし冬支度を終えてしまっている。よって突然やって来た冬の間、暫くはこちらに来て森林浴をするのがレイの習慣だった。尤も此所はシンジの匂いがする様な気がする、と言うのが一番の理由かもしれなかったが。今日はいつものバイトと称するシンクロテストは無いが、何時の間にか此所へ足を向けていた。
 行き先も無い。束縛も無い。唯、気侭に、自由に散策するレイ。耳に流れて来るのは小鳥達のさえずりと、蝉の鳴き声。
「...ここは、何時までも夏なのね...」
 終わらない夏。三人の少年少女が過ごした、暑い夏。それがそのまま此所には残っている。
 それが少し嬉しくもあり、悲しくもある。
 ふと立ち止まる。聞きなれない鳴き声が聞こえた気がした。気になってそちらに向け歩き始めるレイ。然してそれは鳴き声では無く。
「...歌?...」
 誰かが歌っている。声が近付くにつれ人影が見えて来た。歌っているのは彼。
 微かに聞き取れて来たハイバリトン。鳥達と戯れる少年。軽やかに歌うそれは授業で聞いたベートーベン交響曲第九。
「.........」
 レイは彼を知っている。





 ジオフロントを望める窓が珍しく開かれていた。御陰で此の部屋独特の重苦しい雰囲気を幾分緩和してくれる。それが青葉の気を少しだけ楽にしてくれた。尤も最近は目の前の男達に威圧感を覚える事は無い。
 総司令執務室。本来なら最も来たくは無い所なのだが、今回の任務を請け負った以上来ない訳にも行かない。それに今回は重要な報告が含まれているのだ。自分の責任を全うしなければならない。気付かれない様に深呼吸し気持ちを落ち着けた後、敬礼をし帰投の報告をする。
「青葉一尉、只今戻りました。」
「...御苦労。或程度は聞いているが報告を頼むよ。」
 此の部屋の主の右腕である冬月から応えが返って来る。まあ、此所の主は重要な事しか言わないのだが。そして今は自分も彼等の手首程度には働ける知識を持っている。
「はい。SEELE残党殲滅に要した期間は実質三ヶ月。潜伏していた部隊・施設は総計で54。最終的には本拠地となっていたドイツ・ミュンヘン郊外約200kmの山奥にある古城を隠れ蓑にした研究施設を占拠。本作戦を終了しました。」
「54か...随分と隠し持っていた物だな。」
 重々しく感想を述べる冬月。実際SEELEの一部が活動を再開したと確認したのは5月。それからたった約4、5ヶ月でそれだけの部隊を集められたのは、腐ってもSEELEとしか言い様が無い。
「で、やはり首謀者は...」
「はい。キール・ローレンツでした。尤も、我々が駆け付けた時には既に死亡していました。遺体を解剖・検査しましたが、どうやら身体各所に埋め込まれた生体部品との相性の問題だった様です。詳しくはこちらの別途資料に。」
「うむ。他の老人達は発見出来なかったのだな?」
「はい。他の施設にも委員会の存在は報告されてません。キール・ローレンツが全てを統率していた様です。」
「所詮SEELEはあの日全てを投げ打ったのだ。残ったのはゴミに過ぎん。」
 今まで沈黙を保っていた主、ゲンドウが呟く。一蹴するゲンドウだが冬月には一つ気になった事があった。
「しかし、何故キールだけが戻って来たのだ?あれだけ補完計画遂行に賭けていた男が。」
 そう。SEELEの中で唯一人、LCLの海から舞い戻った老人。彼の意志無くしては決して戻る事の出来無い筈の場所から何故戻って来たのか?ゲンドウは沈黙を守ったまま。その真意を押し測れぬまま青葉は口を開いた。
「その件については加持一尉が推測を立てていました。」
「?何かね?」
「今回回収した資産(アセット)です。」
 冬月の目が細くなる。
「...渚、カヲルか。」
 事前に報告は受けていた。フィフスチルドレンを保護した、と。だが彼とキールがどう関係すると言うのか。
「はい。事前報告の通り、我々はフィフスを連れNervドイツ支部へ帰投。後、渚カヲルの保護及び精密検査を行いました。その際本人から意外な事実が判明しました。」
「...血縁者か。」
 不意に呟かれた言葉はゲンドウの物だ。驚きと共に青葉は応えた。
「はい。渚カヲルはキール・ロレンツの孫に当ります。遺伝子検査の結果も合致しました。」
「何っ!?碇っ!お前知っていたのかっ。」
 狼狽える冬月にゲンドウは事も無げに応える。
「ああ。昔会った事がある。尤も一、二歳の頃の話だ。但、事故に遭って死亡したと聞いていたが...生きていたのか。」
 青葉は納得し、詳しい説明を始める。
「加持一尉が当時の資料を探り当てました。2003年3月5日に両親と共に交通事故に遭っています。両親は死亡。渚カヲルだけが一命を取り留めたものの意識不明で重体。植物状態に陥った様です。そこからの記録は一切が消失しています。恐らくはキールが揉み消したものと思われます。本人の話ではキールが渚カヲルを引き取り、SEELEの先端医療技術で延命させていたと言う事です。恐らくはダミープラグ技術の応用でしょう。事実我々が保護した時彼はダミーシステムから出て覚醒したばかりでした。」
「なる程。ではダブリスはその過程で作られたクローンか。」
「恐らくそうだろう。そしてアダムの欠片を埋め込んだ。」
「はい。そして第壱拾七使徒としてNervに送り込んだのもキールだったようです。」
 ふと冬月に疑問が過る。まあ、確信でもあるのだが、それがついと口に出た。
「では、今居る渚カオルは...」
 青葉は静かに解答を示す。
「はい。正真正銘のオリジナル。渚カヲルは間違い無く人間でした。彼には使徒の遺伝子も存在しなければ、ATフィールドを展開する事も出来ません。但、EVAへの適性は認められました。尤も幾つか納得の行かない事もあります。」
「...何だ?」
 ゲンドウが僅かに身を動かした。いつもは身じろぎもしないのに、と思いつつ青葉は続ける。
「先ず、十三年間も調整槽で眠り続けていた彼に記憶が存在する事です。本来彼は冷凍睡眠に近い状態で保存されていました。その状況で記憶がある訳は無く当時の三歳児の知識しか無い筈なのですが、彼には十三年間の記憶が存在しています。」
「...レイと同じか。」
「はい。そして次に知能指数が異常に高い事です。彼は現在IQ320を超えています。恐ろしい程の数値ですが、その原因は分かりません。SEELEが脳に直接何か施したとも考えたのですが...」
「それは無理だろうな。幾らSEELEでも未だ人類に脳にそこまでの処置は施せんよ。」
「はい。担当医もその件については否定してました。」
 現在の医療技術でも脳の全てを解明し切れてはいない。NervでさえEVAの技術を応用したA10神経系統に関する部分が精々だ。各部位の機能・役割までを把握は出来ているものの、大脳全ての構造は未だ解明出来ていないのが現状である。
「そして最後に、これが一番奇異な事なのですが。渚カヲルには“ダブリス”としての記憶が存在する様です。」
「...な、に?」
 冬月が驚きに目を見開いている。当然だろう。青葉もこれを知った時には驚いた。
「本当か?」
 ゲンドウが言葉少なに聞いて来る。彼には感情が有るのか無いのか。この人の行動もかなり奇異だと青葉は思う。
「はい。正確にはダブリスの意識が渚カヲルを支配していると言った方が正確かも知れません。それを踏まえれば、前述の記憶や知能指数も有る意味納得出来ます。尤も何故そんなことが起ったのかまでは推測も尽きませんが。」
「むぅ...碇、どう思う?」
 低く唸る冬月。ゲンドウは両手を口元に翳しちらりと冬月に目線を合わせた。当然口元はにやりと曲がっている。
「私には分かりかねますよ。寧ろ彼方の方が専門では?冬月先生。」
「ぐっ、碇...まったく、レイといいフィフスといい。何よりお前が一番手の掛かる生徒だっ。」
 青葉は唖然として二人のやり取りを聞いていた。まさか二人のこんな姿が見られるとは思いもしなかったのだ。だが正直、此の二人が戯けて見せる事自体平和が戻って来た証なのかも知れない。そう思えた。
「処で、青葉一尉。」
「は、はいっ。」
 冬月の突然の不意打ちに吃ってしまう。青葉は慌てて姿勢を正した。
「加持一尉は何時戻って来ると?」
 そう加持は未だ戻って来てはいない。てっきり自分と共にNerv本部へ戻るものだと思っていたのだが、『ちょっと野暮用思い出したんでな。』と言ってとっとと消えてしまったのだ。
「は、はい。一応半年は見てくれと伝えられました。」
「いいのか?」
「ああ。問題ない。」
「ふむ。彼も大人しく出来ない性分だな。」
 冬月が呆れた様子でぼやく。果たしてだらしない優男の事だろが、目の前にいる髭の総司令の事も含まれる様で、冬月の気苦労が忍ばれる。
 ゲンドウは再び青葉に向き直り静かに続けた。
「青葉一尉。済まんが加持一尉が戻るまで、もう暫く情報調査部の方も頼む。」
「了解しました。報告は以上です。あ、それともう一つ。」
「?...何だ。」
 青葉はカオルとの約束を思い出し、立ち去りかけた身体をゲンドウに向き直る。
「渚カヲルが司令と話をしたいそうです。」
 冬月がゲンドウの顔を伺う。だが、彼は見向きもせず暫く沈黙した後。
「...そうか...分かった。後で...」
 ゲンドウがそこまで言いかけた時、不意にインターホンが主人を呼出す。
 顔を顰めた後、ゲンドウはインターホンのスイッチを押した。
「誰だ。」
「私です。」
 静かに応えるのは未だ大人になり切らない少女の声。
「...まだ打ち合わせの途中だ。後にしなさい。」
 幾分押さえた口調なのは、娘となった少女が相手の為だろう。青葉はそう判断しゲンドウの性格が柔らかくなったのを改めて知る。と同時に無下に扱われた少年を気の毒にも思ったが、それは今言っても仕方の無い事だろう。それよりも青葉は報告はもう終わりだと告げようとしたのだが、レイの返答の方が早かった。
「...渚カヲルを、連れて来ました。」
 執務室が静寂に包まれる。
 カヲルには本部内であれば自由にしていて構わないと言ってあったし、本人は森を見て来ると言っていたのでとくに心配はしていなかった。だが、まさかレイと一緒に此所にやって来るとは青葉も予想していなかった。何処かではち合わせたのだろうか?
 ゲンドウが青葉を見る。心配は無いだろう。この二ヶ月彼の世話役として見て来たが、特に危険が有ると言う訳では無い。言動は多少おかしな所は有るが。そう思い青葉は首を縦に降る。
 無言のやり取りの後、ゲンドウは口を開きドアの開閉ボタンを押した。
「分かった。入りなさい。」
 然して、ドアの向こうから現れる二人の少年少女。
 レイはちらりと青葉がいる事を確認し改めて敬礼をした。
「碇レイ三尉。渚カヲルの意向により案内して参りました。」
「うむ。御苦労。」
 規則的な挨拶を返すゲンドウは、やはり何処か照れているのかも知れない。そんな所をフォローするのはやはり副司令の仕事だったりする。
「御苦労だったね。レイ君。そんなに堅苦しくする事は無い。ちょうど彼を呼ぼうとしていた所だ。助かったよ。」
「いえ。気にしないで下さい。副司令。でも、」
「ん?」
 言い淀むレイ。だがすぐに彼女は笑顔になり続けた。
「心配下さって、ありがとうございます。」
「ん、んん。なに、大した事じゃ無いよ。」
 ほぅと、心の中だけで感心していた。レイがこんな表情や喋り方が出来る様になるとは、と。尤もそんな感慨も直ぐに何者かに遮られてしまった。
 突然の咳払い。態とらしいそれに呆れ返る冬月と、笑いを堪えている青葉。微笑んだままのカヲルと目を丸くするレイ。まあ、当の本人は娘思いで冬月にちょっと嫉妬しているだけなのだろう。きっと。そう思い、青葉はこの場を退出する事にする。
「で、では、報告は以上ですので、私はこれで。」
「う、うむ。御苦労だった。青葉一尉。ゆっくり休んでくれ。」
「はい。失礼します。」
「では、私も。」
 用は終わったと青葉の後に続くレイ。ゲンドウが少し寂しそうな顔をしているのだが、サングラスとポーズで巧く隠れている。そして立ち去ろうとしたレイを呼び止めたのは今まで沈黙を守っていたカヲルだった。
「君にも話を聞いて欲しいんだよ。碇レイさん。」
 呼び止められたレイは振り返り、彼の目を見つめる。二対の紅い瞳が交錯する中、青葉は軽く溜息を付いた。又王子様の気紛れかと。
「カヲル君...話は司令だけじゃ無かったのかい?まさかレイちゃんを口説こうとしてたんじゃ無いのか?」
 ちょっとした冗談なのだが、ゲンドウの眉がぴくりと反応する。冬月は見逃さなかった。
「...酷いなぁ、青葉さん。僕はそんなに信用有りませんか?」
 苦笑するカヲルに、青葉は深刻そうな顔をして唸る。
「う~ん。君の常識は何処かずれてるからなぁ。そういう意味では余り信用はして無いよ。」
「青葉さ~ん...」
 苦笑いするしか無いカヲルにしてやったりの青葉は、くすくすと笑いながらレイを見た。不思議そうな顔で二人を見比べている。
「って訳だ、レイちゃん。カヲルはちょっと変わってるけど大丈夫。僕が保証しておくよ。」
「青葉さん...」
「もしカヲルに何か変な事されそうだったら、思いっきりビンタかましていいよ。アスカちゃん位に。」
「...ぷっ。」
 青葉の言い回しに思わず吹き出してしまうレイ。青葉はカヲルににこりと笑みを送り、カヲルはそれに軽く会釈して礼を言った。青年はじゃあと一言言い残し執務室を後にした。

「さて、話とやらを聞こうか。」
 静かに先程と間でとは質の違う重い空気が漂う。それ程ゲンドウはこの少年を未だ信用してはいなかった。そういう意味では隣に立つ男もそうだが。
 それを感じ取ったのだろう。口調は変わらないカヲルの声が発せられた。
「先ずは、礼を言います。キール議長を殺してくれた。」
 沈黙が降りた。ゲンドウは軽くサングラスを持ち上げると口を開いた。
「何故だね。私は君の祖父を殺したのだ。」
「あれはもう僕の血縁者じゃありませんよ。あれは狂気に捕われた機械人形です。」
「ふっ...」
 冬月が失笑を漏らす。自分の育ての親とも言うべき祖父を機械人形呼ばわりするこの少年を、只のヒトとはやはり思えない。その矛盾を。
「まぁ、それは別にどうでもいいんですよ。僕はキール・ローレンツの孫でも無ければ、ダブリスでも無い。今は只の渚カヲルだと言う事を理解して頂いて話をしたいのですよ。碇司令。」
「...いいだろう。」
 再び沈黙。レイと冬月は只静かに脇で話を聞いている。
「僕の処遇の事です。どうしても直接お聞きしたかったので。」
「そうか。」
 ゲンドウは静かに呟くと席を立ち窓の外を見遣る。レイは父の様子を見守っていた。その横顔に寂しさを感じたのは気のせいだろうか。
「君は、どうしたい?」
「え?」
 呆気に取られたのはカヲルの方だった。まさかゲンドウがこんな事を聞いて来るとは、思いもしていなかったのだ。暫しの沈黙の後、カヲルは応えた。
「僕は、自由があれば、それで構わない。」
 途切れ途切れになったのは恐らく自分がヒトとして始めて決断をした為。そうカヲルは思った。自分の行く先を自分で決める。これが自由か。だが、
「それは、恐らく無理に等しいだろう。」
 ゲンドウは呆気無く其れを拒否した。ふとカヲルに感じた事の無い感覚が襲う。そうか...自由にならない自由。これが憤りか。
「何故でしょう。」
 ゲンドウは僅かに振り返り、カヲルを見据えた。
「君は、レイもそうだが、特殊な環境に置かれている。EVAの操縦が出来ると言うな。其れに加え、君にはSEELEの生き残り、第拾七使徒のオリジナルと言う大きすぎるリスクを背負っている。他国に移り住むとしても、君はそのリスクの為に何時も狙われる立場に立たされるのだ。完全な自由等有りはしないのだよ。」
「...そうか...それがリリンと言うものか...」
 項垂れるカヲルはとてもあの“ダブリス”には見えなかった。そう、苦悩する只の少年。レイは同じ境遇のこの少年を何とかして欲しくてゲンドウに頼み込もうとした。
「司令っ!いえ、お父さんっ。お願い、カヲルを助けてあげてっ!」
「...レイ...」
 驚いたのはカヲルだった。まさか自分を助けてくれようとするとは。
 カヲルは此所に来るまでダブリスとしての記憶を頼りに生活していた。ダブリスはSEELEに豊富な知識を享受されていた。それを自分は受け継いでいる。だが使徒に感情は無い。目覚めてから二ヶ月、特に不便は感じなかった。ただ、たまに青葉との間にどう対応して良いか分からなくなる事が有った。そして此所でのゲンドウとレイの反応に、又自分は困惑している。そう、人間として生活する以上ダブリスの知識は使えても、人としての感情はそこには無い。それが先程からの違和感の正体だった。
 懇願するレイの頭にゲンドウの手が置かれた。顔を上げたレイの目に入ってきたのは、父の顔。ゲンドウはレイの頭を撫でると、カヲルに向き直った。
「渚君。」
 突然名前、それも君付けで呼ばれ驚くカヲル。ゲンドウは続ける。
「君はシンジの事をどう思う?」
「え?」
「シンジが行方不明なのは聞いているだろう。シンジが今の世界を残した。この世界をどう思う?」
 ゲンドウは再び窓の外を見つめた。外は今だ彼の居た夏の世界が広がっている。
 カヲルは思い出していた。あの浜辺で少年と出会った日の事を。
「僕は...シンジ君に感謝している。あの時、ダブリスとしての僕を殺してくれなければ、僕に自由は無かった。そして、LCLの海の中、彼は僕とももう一度会いたいと願ってくれた。そして今僕は此所にいる。シンジ君とは未だ出会えて無いけど、今僕は嬉しいんだ。生きると言う事が。僕は此の世界を無くしたくはない。そしてシンジ君と又、会いたい。」
 カヲルはゲンドウと共に、オレンジ色に染まってきた光景を眺めていた。そこにあの日の、シンジと出会った日の光景が重なっていた。
「君に自由をやろう。尤も多少の制限は付くが、構わんかね?」
「え?」
 気付くとゲンドウがカヲルを見据えていた。
「君をフィフス・チルドレンとして再登録をしよう。戸籍も直ぐに用意する。給与は十八歳を超える迄は一定額を毎月口座に振り込む。各種保険も揃っている。週に何度かあるシンクロテスト・訓練は必ず受ける事。もちろん、学校へも通ってもらう。君の安全は...Nervが保証しよう。」
 カヲルは唖然として聞いていた。ちゃんと頭に入っているのかいないのか心配になって、レイは分かりやすく付け足した。
「私達と同じ生活が出来るわ。結構自由よ?」
 くすりと笑うレイに漸くカヲルは反応を示した。
「あ、え、えと...はい。」
 折角の美形はさっきから崩れっぱなしだ。それが可笑しくてカヲル以外の三人はさっきから笑っている。だが、冬月がふと何かに気付いてゲンドウに訪ねる。
「おい、碇。彼の住居はどうするつもりだ。やはり宿舎かね?」
「そうだな。特に希望がなければそうするが、どうする?」
「は、はい。僕の方は構いませんが。」
 未だ放心気味のカヲルだったが、辛うじて返事は出来た。だが、意外な所から否定の声は挙がった。
「ダメ。」
「レイ?」
「だって、この人方向音痴だもの。さっきも森の中で迷ってた所を私が連れてきたの。」
 沈黙。
 ややあってレイが一つ提案をした。
「ねぇ、お父さん。家で下宿させてあげれば?」
「何っ!?」
 突然に驚きの声を上げるゲンドウ。今迄見た事の無い様な狼狽え振りだ。レイは続ける。
「だって、きっと彼にはダブリスの記憶しかないわ。それは以前の私と同じという事。それでまともな生活が遅れる筈無いもの。私ならその辺の事よく分かってるし、教育係になるわ。」
 レイは単に誰かの役に立ちたいと思っただけだ。実は以前からそう思う様になっていた。何時もアスカやミサト、ヒカリやマナにマユミ達には世話になってばかりだと思う様になっていた。しかし恩返ししようにも彼女達は自分より数段上を行っていて、とてもレイの出る幕は無かったのである。そこに面倒見がいのあるカヲルがやってきた。となれば、これほど格好の獲物は無いと言う事だった。
「お父さん。お願い...」
 アスカに教わった、おねだりポーズ。胸の前で両手を組み上目遣いに見る。意味は良く分かっていなかったが、ゲンドウに困ったお願いをする時に役に立つ事をレイは発見した。最近では良く使う。
 で、それを聞いたゲンドウ。
「うっ...わ、分かった...」
 ゲンドウ撃沈。冬月はさっきから部屋の隅で必死に笑いを堪えていた。ゲンドウもこうなると只の親バカである。
 しかし、此所で終わらないのが天下のNerv総司令。しっかり釘は指しておかねばならない。
「但しっ!...」
 つかつかとカヲルの前に立ちはだかり、あのシンジをも(?)恐れさせた長身を利用し伝家の宝刀、“無言の威圧”を掛けるゲンドウ。そして一言。
「...レイはやらんっ。」
 沈黙。
「...これ、ホントに君のお父さんかい?」
「......えぇ...」
 しかしレイの目は明後日を向いていた。肩が震えているのは笑いを堪える為だろう。一方冬月はとっくに大口空けて大爆笑していた。此の状況に苦笑するしか無いカヲル。早くもゲンドウの伝家の宝刀はカヲルの前に破れ去った。





「......何やってるの?...貴方?...」

 十分後。司令執務室の中央で滝の涙を流すゲンドウと、部屋の隅で笑い転げる冬月が、碇リツコ女史によって発見された。





EPISODE:02

Welcome Nerv






八.






 2017年。あの惨劇から瞬く間に一年が過ぎ新しい年を迎えていた。一年前、世界中を混乱に陥れたサードインパクトの御陰でそんな物に現を抜かす暇など何処にもありはしなかった。だが、セカンドインパクトの様に物的被害が甚大では無かったのが幸いだった。一部の局所的被害場所を除けば、世界中の人々が一年振りのクリスマスパーティーや正月を満喫し、楽しんだ。
 さて。その局所的被害を被った第三新東京市もその復興作業の終了を目前に、街はいよいよ活気に満ち始めている。対使徒決戦都市から学術都市としての機能を備えつつあるこの街には、完成を目前に人々が続々と集まり始めておりその熱気は頂点に差し掛かろうとしていた。
 そんな誰しもが慌しい時期。彼女達とて外れる事無く、中学三年最後の冬休みは既に終わり新学期を迎えていた。おまけに意味が無い様で有る受験戦争・Nervのバイトとそれなりに忙しかったりする。その忙しさを煽る様に彼は現れた。
「渚カヲルです。よろしく。」
 彼の第一声が何を引き起こしたかと言えば、先ず三年A組を狂喜の坩堝に陥れ、同じ階の三年生生徒を片っ端から失神させ、終いには壱中全土をお祭り騒ぎにさせた、と言えば判るだろうか。後日談としては他校の生徒を巻き込み数多のファンクラブを発生させたりもしている。尤もこれは女生徒のみに関する事項だが。その中でも自我を保ち特に関心を寄せる事の無かった女生徒は真っ先に被害に遭った筈の三年A組の、つまり彼女達である。
「ふ~ん。ま、悪くは無いんじゃない。」
「そう?一般的には物凄く美形よ?アスカの目って腐ってるんじゃない?」
「アスカにはお兄ちゃんしか目に入らないから。」
「あ、それは言えてるわね。アスカったら意地っ張りで一途なところあるし。」
「皆さん言い過ぎでは...でも、当たってますね。」
 まぁ、お分かりだとは思うが『壱中五大美少女軍団』である。
「あ、あんたらねぇっ...」
 怒髪天を突くアスカ。彼女達が何故他の女生徒の様な事態に陥らなかったかと言えば理由は簡単である。今日彼がこの壱中に転校して来る事は事前に碇レイ嬢から情報がリークされていた為である。
 一方、教室の別な場所ではこんなやり取りがされていたりもする。
「何やケンスケ?ヤローの写真なんぞ撮ってどないしようっちゅうねん?」
「周りの状況をよく見極めろ、トウジ。今日から新しい流通ルートが出来あがるぞっ!!しかも今までと同レヴェル、いやっ!!それ以上かもしれない...ぐふっ、ぐふふふふふふふふふふふふ。」
「ん?...おぉっ!!くぅ~っ!!こりゃたまらんのぉ~っ!ケンスケッ!!どんどん撮ったり!!」
 賑やかな事この上ない。

 それが切っ掛けかどうかは定かではないが、お祭り騒ぎの地上を余所に大人達の思惑は徐々に顕著になってくる。
 国連直属組織特務機関Nerv。公開組織となった今彼らに隠し事は許されない。尤も彼らにその気は無い。ただ、余程の事が無い限り全ての情報を公開している。余程の事とはつまり、碇ユイが初号機に取り込まれている事や、コアに関する情報、チルドレンの選出基準、ダミーシステム、碇ゲンドウが画策したSEELとは別のシナリオ、碇レイが元は使徒である事、等など。そして渚カヲルもまた元使徒であったと言う事。それは、彼らNervという組織が生き残る為の、汚れた選択。
 勿論世界はそんな事は知る由も無い。彼らが知ったのはNervに新たな戦力増強、即ちチルドレンが増え、エヴァンゲリオンの再建造整備予算が通った事だ。今現在Nervに存在するEVAは二体。封印された初号機と再建造された弐号機である。一時はEVAをどう扱うのか物議を醸した物だ。人類の手には持て余す過去の遺産。福音の名を翳す汎用人型決戦兵器。結局は手に余る代物としてNervの手により管理される事になったのだが。初号機はその特異性から完全修復し封印される運びとなった。そしてNervが特務機関としての任務を遂行する為に再建造されたのが弐号機だ。尤も弐号機は量産機によって修復不可能なまでに陵辱にされた訳だが、脳髄に一部損傷を受けたものの頭部脊髄等は損傷が比較的軽微だった。そして中核を成す“コア”も。弐号機は直ぐ様ターミナルドグマにある培養槽(と言ってもEVA専用の巨大な物だが)に入れられ、三ヶ月掛けて失った五体を取り戻した。何故新たなEVAを建造しなったのかと言われれば、惣流・アスカ・ラングレーにとっては“弐号機のコア”が重要だったし、Nervもコピーよりはオリジナルの方が良いと判断した。何より世界には金が必要だった。Nervに新たなEVAを与えるほどの余裕は世界には無かったのである。
 では、何故今になってEVA建造予算が通ったのか?チルドレンの選別は問題無い。Nervが勝手にやれば良い。しかし何故今になって?理由は簡単。彼らは見落としていたのだ。建造予算ではない。“再建造整備予算”なのだ。Nervは新たなEVAを造るとは一言も言ってはいない。ただ、“有り物を使って造り直す”と言ったのだ。国連としてはその要請を断ることは出来なかった。今やNervは世界を守る為に欠かせない、言わば守護神なのだ。その象徴であり事実守護せしモノ、EVA。弐号機だけでも十分に脅威なのだが、二度の厄災を経験すれば厭でも不安がよぎる。それは当然の判断だったのだろう。結果予算は通った。
 因みに、Nervが言った“有り物”とはEVA参号機及び五~拾参号機、つまり量産機の残骸である。零号機は既に消滅している為数には入らない。参号機。フォースチルドレン、鈴原トウジが搭乗していた機体である。拾参使途に乗っ取られ制御を離れた機体は、ダミーシステムによって同じように制御を離れた初号機によって殲滅された。回収された機体はNervが誇る碇リツコ女史により幾度もの検査を受けた。当然というか謎と言う他無いのか、幸いにも使徒の痕跡は無かった。コアは損傷が激しく使い物にはならなかったが、弐号機同様使える部分は幾つかあった。量産機。ダミーシステム“KAWORU”によって起動し、S2機関を装備。果ては飛行翼まで備えたSEELの刺客。言わばEVAシリーズの最終形態。だが完成形と言う割りにはその容姿はグロテスクである。最終戦に飛来した九体の量産機は再起動する事無く初号機・弐号機と共にジオフロントに打ち捨てられていた。ダミーシステムは全て破棄され、使える機体やパーツは全てターミナルドグマに安置されていた。
 Nervの再建造計画はそれらを再利用した“新しいEVA”の建造計画である。ベースは機体の損傷が比較的軽微な量産機である。しかし、SEELが急場凌ぎで建造した為か、機体自体の強度はプロダクションモデルの弐号機に遠く及ばなかった。そこで量産機の素体をベースに培養槽で再調整し骨格の再構成、筋力・筋繊維の増強等を図り、更に装甲に手直しを加えていくのである。建造予定は三体。ファーストチルドレン、碇レイ搭乗予定の『零号機改修型』。フォースチルドレン、鈴原トウジ搭乗予定の『参号機改修型』。フィフスチルドレン、渚カヲル搭乗予定の『五号機改修型』の計三機。更に足並みを揃える為であろう、弐号機の改修作業も計画には組み込まれている。
「何んで量産機をそのまま使わないのよ?」
 との葛木ミサト作戦部長のお言葉に、碇リツコ女史は判りやすい回答を述べた。
「決まってるじゃない。私があんな悪趣味なデザインを許すわけ無いでしょ。」
 実際にはきちんと理由がある。コアだ。チルドレンが同じである限り、コアも同じ物を使わなけらばなら無い。零号機、参号機にはオリジナルコアは既に存在しない。が、MAGIにはコピーの情報が存在し、そこから新たなコアを生成する。五号機には新たなコアが用意された。否、それは元々あったと言った方が正しいかもしれない。それは零号機にも言える事だ。“そこ”にいるのは同じ“KAWORU”なのだから。レイとカヲル。二人はチルドレンとしては特異な部類に入るだろう。チルドレンと言う分類がEVAの操縦が出来得る者とするならば、アスカ、シンジ、トウジは『母親の魂と連動する者達』とも言え、事実それが基準なのだ。それは壱中の三年A組全員に言える事でもある。所がレイとカヲルには母親所か親が居ない。特にカヲルはその存在自体が困難を極める。元使徒でありながら今の彼には記憶以外その痕跡は見当たらない。一方“人”としてのカヲルは両親を事故で亡くし血縁者と言える者はキール・ローレンツしか居なかった。結果、レイとカヲルが『魂を共有する者』は“彼等自身”と言う事になってしまうのである。勿論これはNervが望んだ成果ではない。実験途中に偶然にも得られた技術。それがヒューマノイドクローンであり、適格者であり、綾波レイであり、渚カヲルなのだ。勿論世間でこれらの事実を知る物は一人としていない。Nerv内でも知る物は一握りの人間と本人達だけである。そう。レイとカヲルは知っている。承知の上で『EVANGERION』に乗るのだ。それはたった一つの思いの為に。
 国連、そして世界にとってそれは自分達の身の安全が確固たる物になると言う事で計画は受け入れられた。しかし大人達は汚いのだ。人類全てが善良な民ではない。様々な思惑を巡らせ、邪推し、敵視する。特にSEELに就いていた国々やNerv支部にとっては面白くない事この上ないのである。EVAの一極集中。それが理由だ。EVAはその余りの強大な力故、一国が独自に建造・所持する事は特務法により堅く禁じられている。だがそれを心良しとする者ばかりではない。それが歪を生じさせ始めていた。
 その中の最たる国が日本国政府である。第三新東京市は領土的には日本国に存在する。が、Nervの性質上第三新東京市は日本国には属していない。ある種独立国家の如く機能する都市なのである。日本政府にとってこれ程皮肉な事は無い。EVAと言う究極の兵器が手元たる自らの国土に在りながらその占有権は無く、事実上領土の一部を奪われたような物なのだ。それだけではない。元々日本政府との確執はNervの設立以前から存在するし、最終戦時に戦略自衛隊の手による本部直接占拠、及び対弐号機の戦闘はサードインパクト後の今も彼等の記憶に止まり二局の関係に決定的な溝を作っていた。
 事は日本政府だけには止まら無いない。Nerv各支部に現在あらゆる執行権は無い。それはやはり最終戦時に本部に敵対行動を取った事に在りまたSEELに就いた事が、Nervの冠を名しているにも関わらずEVAも無く本部に付き従う事になっている理由なのだ。勿論、同じNervである。本部としては各支部と連携し確固たる地位を確立しておきたい所なのだが、そう簡単にEVAを手渡す事も執権を渡す出来ない。EVAは人類にとって余りに脅威なのだ。もし敵対行動を取った支部が戦争など起こした日には目も当てられない。本部はそのジレンマに辟易し、各支部は鬱憤を溜め込んでいた。
 世界は表向き平穏を取り戻し、しかし裏では今だ鳴動し続けていた。

「碇。読ませてもらった。」
 執務机に投げ出された書類はかなり分厚く、どさりと音を立てた。表紙にはお決まりの様に極秘の二文字が印されている。
 総指令執務室は以前と同じ広さと閑散さを持って冬月を出迎えた。しかしあの異様な雰囲気はもうこの部屋には見た目にしか存在しない。無意味なまでに広い空間と、天地に飾られたユダヤ教の名残である。それも今は只の飾りに過ぎない。今この部屋を印象付ける最も大きな要因は、この目の前に居る相変わらず不機嫌な髭面の男と執務机に雑然と置かれた書類の束だ。まさに忙しい長を体現している。冬月は内心で苦笑する。
「あぁ。」
 以前と変わらぬ短い返事。しかし書類の束に悪戦苦闘する中年親父の不機嫌さ加減がありありと伺えた。この男は先日かこれら溜め込んだ書類の束を処理する為に二日程自宅に帰る事が出来ていない。せっかく家庭を手に入れたのに不憫な物だ。冬月の薦めで秘書を置くようにはしたが、これらの仕事はあくまで総指令の仕事だ。他の者にやらせる訳にもいかない。気の毒には思ったが、呆気なく諦めてもらう事にもした。
「悪くない条件だと思うが?寧ろこちらにとっては好条件だ。」
「判っている。問題は、」
 ゲンドウが書類を置き視線をこちらに向けた。先程までのいらつきは無く、冷静、否。ある種冷徹な視線が冬月を射る。
「向こうにとってのメリットが余りに少ない事だ。」
「そうだな。協力してくれるのはありがたい事だが、どうにも。向こうの真意が読めん。」
 ゲンドウが机に投げ出された書類を取り上げページを捲って目を通していく。冬月はその内容を一つ一つ思い返す。
「人材の派遣、予算援助、設備投資。まぁ、大まかに言ってしまえばそんな所だな。だが気になるのは最後の、」
「あぁ。EVA・使徒・ジオフロントに関する情報提供と調査許可の申請。」
「どうする?そう簡単に許可は出せんぞ。確かに彼等の組織業務からすれば、これは当然と言えば当然なのだが。」
 問題事が多い。つい眉間に力が入ってしまう。冬月は指先で軽く揉みながら意見を続けた。
「確か古代遺跡の発掘・調査が主だったな?あの連中は。しかし、何故今頃になってだ?彼等程の組織ならEVAや使徒の存在等、発見当時に知っていたっておかしくない事だろう。何故今まで黙って見ていたのだ?」
「...参加はしていたのだ。当初はな。」
 冬月の動きが止まりゲンドウを睨み付けた。
「何だと?」
「参加していたのだ。葛木調査団に。」
「本当か?...いやしかし、それこそ今頃になって接触して来たのは何故だ!?」
 憤る冬月を尻目にゲンドウは書類を再び投げ出し、深く溜息を付いて椅子に背凭れた。
「彼等はアダム発見時に直ぐ様動いた。それは迅速にな。下手をすれば我々を差し置いてアダムを奪取出来る程に。だが彼等はそれをせず我々に接触してきた。調査に同行・協力すると言ってな。」
「...今回と同じか。」
「SEELはそれを許可した。成り上がりとはいえ大きい組織だ。組み込もうと企んだのだ。だがそれは断られSEELは組織の抹殺を謀ったが、手痛い仕打ちを食らって諦めたよ。」
「何故だ?計画の中枢を知られておきながら何故見逃した?」
「彼等は何も干渉しないしする気も無い、とSEELに言ってきた。ついでにSEELが無為な干渉をする気なら逆に制裁する、とな。事実、彼等はまったくそれ以後SEELのやる事に干渉する動きは欠片も見せなかった。だから捨て置いたのだ。」
「馬鹿な。只調査をして、それで満足して帰っていったというのか?あからさまに不自然ではないか!?幾ら干渉が無かったとは言えSEELは何故見逃したのだ?」
「簡単だ。敵わなかったのだよ。SEELの送った武装集団は彼等に毛ほどの傷を追わせることなく全滅したのだ。」
 冬月の顔が不可思議と驚愕を表した。
「どういう事だ?彼等は只の調査組織だろう?」
 ゲンドウがちらりと冬月に目を合わせ、直ぐ正面に向き直った。
「違う。名前は異なるが彼等のバックには多数の企業が就いている。彼等はその中枢組織だ。」
「しかし、たかが民間企業が、」
「違うのだ。武装集団を殲滅したのは彼等の組織内に存在する一部隊、いやその物と言った方がいいのか。周りの企業等は何一つ動かなかった。部隊が自衛の為に動いただけでその有様だ。SEELには手も足も出せなかった。それにな、冬月。彼等の仕事は古代遺跡の調査だけではない。封印、もしくは破壊がその目的だ。」
「?」
 冬月の疑問顔に答える事無くゲンドウは立ち上がり、ジオフロントを見下ろす窓辺へと寄った。眼下に広がるそこもまた古代遺産の一つと言える。
「だからSEELは不審に思った。何せアダム自体正に古代遺産と呼べるからな。しかし、下手に手を出せば抹殺されるのは老人達の方だ。結果、手を出してこない彼等を渋々捨て置いたのだ。」
「まぁ、老人達の行動は察しが付いた。だが何だ、その封印と破壊と言うのは?世界遺産を掘り出して調査するのは判る。だが何故破壊する?封印?よく判らんな。大体何故財閥がそんな高度な部隊を所持している?私設部隊ならまだしも。」
 ゲンドウが振り返る。ジオフロントの空気がオレンジ色に変わっていて、ゲンドウを逆光に晒していた。もうそんな時間か。冬月は場にそぐわない事を内心で思ってしまった。ふと、机の上に置かれた書類が視界に入ってきた。極秘の印の下に印刷された書類の表題が載っている。その下に控えめな小さな字で組織の名が記されていた。
「...アーカム財団...」
 冬月の呟きにゲンドウが口を開いた。
「アーカム財団は太平洋戦争後進出してきた歴史の少ない財閥だ。だが僅か二年後には世界でNo.3の功業収益を上げている。彼等が何処から来たのかは誰も知らん。一部ではSEELの様に裏の世界で暗躍していた組織ではないかとの噂もある。奴らは多彩な企業を抱え込む一方、その収益を元に古代遺産の保護を目的とする民間組織を作り上げた。そのまま、『アーカム』と名乗ってな。」
「なのに何故遺跡を破壊したり封印したりする?」
「それは判らん。誰も知らんのだ。だが、彼等の調査先で出くわした者達の話を総合するとそういう事になる。恐らく、人類の手に余る物、扱いきれない物が発掘されると、彼等は飛んで行き、そして封印もしくは破壊する。そういう事らしい。」
「...ならば何故、アダムは見逃した?それこそセカンド、サード・インパクトを起こした元凶なのだぞ?」
「だから彼等の思惑が知れない。SEELも同じだった。見るだけ見て彼等は去っていった。そしてまた今回もそうなのかもしれん。最も、彼等とてアダムや使徒には手出しは出来なかっただろう。人の手で御しきれる者では無いからな。」
「しかし、そんなに幾つも超古代文明の遺産がその辺に転がっているものなのか?私は聞いた事が無いぞ。」
「だからこそのアーカムなのだろう。世間の目に触れる前に遺産は彼等の手によって闇に葬られる。」
「なるほど。では、彼等はEVAと言う制御装置が現れ、しかもSEELの消えた今、漸く重い腰を上げたと言う事なのか。」
 ゲンドウが再び机に着き書類に筆を走らせ始める。しかし会話が途切れる事は無かった。
「いや。違うな。今更世間の目に触れた物を封印などはせんだろう。単純に情報が欲しいのかもしれん。最も、」
 一瞬鋭い、以前の“総指令”の視線が冬月を突き刺した。
「何かを企んでるのは確かだ。」
「...だな。」
 冬月が相槌を打った時には、ゲンドウは既に書類に目を落としていた。
「直接会って真意を確かめる。日時の調整を頼む。それとアーカム財団の身辺を再調査だ。なるべく古い時代の物まで在った方が良い。」
 冬月が一瞬嫌そうな顔をする。最もゲンドウは見ていない。
「調査の方は諜報部にやらせる。だが日時調整ぐらい秘書にやらせれば良かろう。」
「私は今忙しい。秘書に言っといてくれ。」
 ターミナルドグマまで届きそうな程、冬月の溜息は深かった。伏せた口元がにやりと歪んだのを冬月は知らない。諦める様にその場を立ち去る冬月をゲンドウが呼び止めた。
「一つ忘れていた。」
「?」
 振り返った先に最近は見ることの少なくなったポーズでゲンドウがこちらを見据えていた。
「SEELの武装集団を殲滅したアーカムの部隊だが、そいつ等が遺跡の破壊・封印を行なう特殊部隊らしい。」
 静謐。言葉を区切ったゲンドウの口元は見えない。だが笑っていない事だけは確かだ。冬月はそう感じていた。
「...名を、『SPRIGGAN』と言うそうだ。」
 ゲンドウの言葉で思い出したのは、昔文献で見た財宝を背にした醜悪で強暴な『妖精』の姿だった。










九.






 2月。
 Nervのバイトはトウジにとって非常に在りがたかった。父親はおなじNervで働いているが毎日が忙しく碌に家に帰ってくる事は無い。別にそれを恨んだりした事は無い。父は自分と妹の生活を守る為日夜努力してくれているのだ。だから、自分がチルドレンに選ばれた時、これで少しは父親の負担を和らげられると思った。EVAのパイロットとしての給金は半端な額ではない。十分過ぎた。そして怪我をした妹の治療はNervが責任を持って治してくれると言う。多少時間は掛かるかもしれないがリツコは必ず治すと約束してくれた。おまけに妹の居るのはNerv直属の病院である。トウジはバイトの帰りに何時も必ず妹の病室に寄っているし、今日も寄るつもりでいる。バイトの無い日でもIDを持つ今となってはよく通うようになっていた。病院は同じジオフロントにある為、最近では父親もほんの僅かな暇を見つけてはあしげく通っているらしい。そんな訳でトウジにとって多少危険があるとは言っても、このバイトを止める気は無いしそんな事は微塵も思う事は無かったのである。
 さて、そのバイトだが、
「いい事っ!今日は足引っ張るんじゃないわよっ!!ジャージ男!!」
「やかましいわいっ!!そっちこそ照準に割り込む様なアホな事するんやないでっ!!」
「あれはあんたが周りをよく見ないからでしょうがっ!!」
「何やてっ!!そっちこそ見とらんちゃうんかいっ!?何かってぬかしとんのやアホッ!!」
「だ、だ、だ、誰がアホですってーっ!?」
 とまぁ、然程緊張感も無く、寧ろ危険等微塵も感じ得ない環境な為、トウジはそれ程心配はしていない。
 これからやる戦闘シュミューレーションやシンクロテスト、戦闘訓練等、“バイト”でやる事は多々ある。実際には、それらに危険が伴うのは予め聞いているし、シンクロテストで多々事故が起き二度と戻ってこなかった人がいる事も聞いている。嘗ての親友も一度EVAに取りこまれ無事戻ってきたのは奇跡に近かったという。だからトウジは自分がやっている事が決して安全なバイトだ、等とは思っていない。事実彼は一度死にかけているのだから。
 それでもEVAに乗ろうと決心したのは、やはり親友が守ったこのやかましい少女と隣で静かに佇む蒼銀の少女を、彼が戻ってくるまで変わりに守ってやろうと思ったからであり、また自分にも守りたい人がいるからであろう。
 だから、心配等してはいなかった。
「いいかげんにしなさいっ!二人ともっ!!レイとカヲル君はもうとっくに準備できてるのよ?アスカ。あなたが間違ってなかったかどうかはこれからのシュミュレーションで証明しなさい。トウジ君、アスカは元々乗せられ易い性格なんだから、態々煽らないで頂戴。」
 碇リツコはキレると恐い。元々そうであるしゲンドウと結婚してからはキレ方に一層磨きが掛かった様だとNerv職員の専らの評判である。尤もそれを見て凛々しい姿だと勘違いし『先輩素適♪』等とあらぬ妄想を巡らす者がいるとかいないとか。
「はぁ、すんません。リツコはん。でも惣流が...」
「ちょっとリツコッ!!誰が乗せられ易い性格ですってっ!?」
 モニター越しにリツコの鋭い眼光が二人を射った。
「惣流・アスカ・ラングレー、シュミュレーション開始しまーすっ!!」
「す、鈴原トウジ、開始しますっ!!」
 ここにも気苦労の絶えない人が、地中深く溜息を付いていた。尤も彼女は子供の御守りだけではなく、夫の御守りにも苦労している為、最近目尻の小皺がひじょーに気になっていた。
「碇レイ、開始します。」
「渚カヲル、同じくシュミュレーションを開始します。」
「博士。ファースト、セカンド、フォース、フィフスチルドレン。各機シュミュレーション開始確認しました。」
 霧島マナがコンソールを操作しながらリツコに報告する。隣では伊吹マヤが同じようにコンソールに向かい、時たまマナの様子を伺っていた。霧島マナは7月にこの街へ戻ってくると同時に、Nervへ保護を依頼して来た。Nerv、と言うかミサトが率先して動いたのだがそれは受理され、また同時に将来Nervに勤務する事を決めた。今は見習いオペレータとしてこうしてマヤにくっ付いて指導を受けている訳である。本人としては作戦部に就くつもりらしく、ミサトもそれを歓迎しているが、先ずは見習と言う事でマヤにそのお鉢が回って来たのだ。
「博士。今MAGIのシュミュレーションプログラム中にちょっと気になる所が。」
 反対側のコンソールから名乗りを挙げたのは、同じく見習い修行中の相田ケンスケである。
「ここです。A16-233。これはこっちのB66...」
 何故ここに彼が居るのかと言えば、アスカ嬢の言葉を借りれば『MAGIに違法進入やらかしたオタクバカ』と言う事になるのだが、これまた本人の思惑とリツコの計らいにより、無事と言うか無謀と言うか結果Nervへの配属が将来的に確約されている。本人は作戦部にも興味津々らしいのだが、
「自分で適性が無いのは判ってるからね。それより今はこっちの方が面白いよ。さっすがっNerv!遣り甲斐が有るってもんだよ!」
 とまぁ、息巻いている。尤もその内心変わりしてやっぱり作戦部の方が良いとか言い出すかもしれないとアスカは予想している。面倒を見ているリツコは彼の素質に付いては一目置いている。事実MAGIにハッキングした技術は目を見張る物があるし、ここに通うようになってからの彼の技術の吸収力には感心するばかりだ。だがつくづく人間完璧な者はいないと実感させられたのも事実である。彼の盗撮を阻止するべくリツコは日夜眉間にしわを寄せカメラ探しに余念が無い。リツコの苦労種はここにも居る訳である。
「...の方が良いんじゃないですか?」
「へぇ。よく見つけたわね、相田君。まぁ確かにそうだけど、それで劇的に速度が上がる訳じゃないから。今はそれで良いわ。ま、細かい所は見つけたら直ぐ直した方が良いのは確かだけど。それは明日にでもやりましょう。」
「はい。了解です。」
 そんな訳で今のNervは妙に年少者の割合が増えていた。と言っても全体からすれば僅かな割合では有るが。しかし、リツコの気苦労が増えたのは事実だし、はっきり言って最近ちょっとしんどかった。此間等は次期チルドレンの選考訓練機関をNerv内に設置してみてはどうか?等という意見も出ていたが、冗談ではない。
 リツコは小皺の数がこれ以上増えない様気を張り巡らせ、結果更に苦労していた。










拾.






 暗闇にモニターが一つ浮かんでいる。
 一行だけ文字を表示しその下で、唯、時を刻む。
 全ての数字が『0』を刻むと同時に、一斉に灯るモニター群。部屋が大量のモニターの光に照らされ室内が青白く反射する。
 部屋の一角を為す四つの筒状の箱は未だ沈黙を保ったまま。
 全てのモニターが一斉に同じ文字を表示し、部屋全体が低く唸りを挙げ始めた

[ Serching stert... ]










拾壱.






 深夜1時。葛城ミサトは眠い目を擦りながら発令所へと足を向けていた。
 ミサトは最近本部での作戦行動等の必要が無く、専ら第三新東京市立第壱中学校の三年A組担任で英語教師と言う仕事を隠れ蓑に『チルドレン及び候補者の監視擁護任務』に就いていた。尤も今のミサトは優しく知的な美人教師職(本人談)を結構気侭に楽しんでいたりする。もしそんな事を大学時代からの親友であり悪友が聞き付けたらミサトの命は只では済むまい。
 さて、何故ミサトがこんな時間にNervにやってきたかと言うと、単に教師職の残務が今まで長引いていた為である。最近滅多にNervへ顔を見せなくなっていた為、久し振りに顔見せにやって来た訳だ。まぁ、彼女がここまで暇なのはそれだけ今の世の中が平和だという証拠なのだろう。
「やほ~っ。皆元気でやってる~?」
 かなりお軽い声音に一同不審に振り返るが、そこに居た人物が視界に入るとそれは笑顔へと変わる。ミサトという人間は居るだけでその場のムードメーカとして機能する。そう言う意味で彼女の様な存在はNervと言う半軍事組織には必要なのだろう。
「葛城さん、お久し振りですっ!どうです?中学教師のご感想は。」
「ん~、やっぱ子供の相手は疲れるわ~。」
「あら。珍しく意見が合うじゃない?」
 そう言ってにこやかに入れ立てのコーヒーを手にやってきたのはリツコである。
「ん。さんきゅー。何?またあの子達何かやったの?」
「子を持つ親の苦労が少しだけ理解出来たわ。ホンと、あの人まで一緒で子供みたいだから家でもNervでも苦労が絶えないわよ。」
「や~ね~。リツコぉ。何時の間にそんなに老けこんだの?まるっきり“お母さん”の台詞じゃない。小皺増えるわよん?」
 飲みかけたコーヒーを吹きそうになる。まったくこの女は、アスカと大してレヴェルが変わらない。用は子供なのだ。
「あなたこそ、平和ボケしてお腹の肉が弛んで来てるんじゃない?」
 リツコのささやかな反撃ジャブ。しかしミサトにとってはモロにボディブローを食らってしまっていた。最近間食が増えた為である。ミサトは早々に戦線離脱、軌道修正を謀った。
「で、異常は無し?」
 それに答えたのはマコトの隣に座る青葉シゲルである。彼は現在中央作戦室室長であり情報調査部、つまり旧諜報部を総括している。現状把握は彼の仕事なのだ。
「もし何かあれば真っ先に作戦部長には連絡しますよ。まったく持って平和な限りです。」
 結構お気楽に答えられる辺り、実際何も無い証拠だ。ミサト自身今日は単に皆の顔を見に来ただけなのだから。しかし抗議の声は別な所から上がってきた。リツコである。
「まったく、作戦部は暇で良いわね。こっちはEVA三体の新造計画に、増強されたチルドレンの面倒もみて、おまけにお門違いの新人教育までやってるってのに。部長殿はすっかり一般市民気分かしら?」
 すっかりご機嫌斜めの技術部長に思わず引きが入るミサト。とことことマコトに寄り添い、
「どしたの、リツコ?ずいぶん荒れてるじゃない?」
「最近ずっとあの調子ですよ。技術部忙しいですからね。こっちは愚痴聞かされっぱなしです。」
「ありゃま。」
「ちょっと。何こそこそやってるのよ。」
「「い、いえっ。別に。」」
 硬直する二人に、怪訝な視線を向けるリツコ。更に追及の手をと思った時、リツコを呼び止めたのは彼女の右腕たる伊吹マヤであった。
「せ、先輩!」
「?」
 突然上がった緊張気味の声は、そこにいた者達の視線を一斉に集める。マヤはコンソールのキーボードを叩きながら報告を続ける。
「磁場異常が発生していますっ。異常です。こんなに強力な磁場は...数値増大!!重力波が検出されましたっ!!」
 悲鳴に変わったマヤの声に一斉に発令所が動き出す。司令塔たる葛城ミサトの顔は既に教師から作戦部長に切り替わり部下達に激が飛ぶ。
「場所は!!」
 マコトが直ぐ様答える。この辺は使徒戦で散々されたやり取りである。最早阿吽の呼吸としか言いようが無い。だがマコトは一瞬言い淀んでしまった。余りに不可思議だったからである。その場所が、
「ほ、北極点です...」
 一瞬発令所が動きを止める。誰もが異常を感じ始めていた。そう、一年前の恐怖に。
 やはり真っ先に復活を遂げたのはミサトだった。
「マヤ!現状把握急いでっ!!青葉君!指令と副指令に緊急連絡っ!衛星からの映像直ぐに用意しなさいっ!!日向君、至急調査部隊の編成!一時間後には出られる様にして頂戴っ!!」
 一通りの指示が飛び発令所が再びフル稼働しだす。命令は次々と下部員に伝えられ特務機関Nervが一斉に動き出した。葛城ミサトは親友へ無言で視線を向けた。親友は答える。
「このままじゃ何も判らないわ。兎に角、」
 ミサトは頷いた。その顔は既に戦士だとリツコは思う。
「出張るしか無いわね。」
 一瞬で騒然となった発令所にマヤからの第一報が返ってきた。
「重力波消失していきます!!」
「磁場異常はっ!?」
 リツコが待ち切れずにマヤの後ろからモニターを除き込む。リツコがそれを確認するのと、マヤの報告は同時だった。
「磁場異常も消失して行きますっ!!原因不明!!」
「一体、何だって言うの?...」
 リツコが僅かに眉間に皺を寄せ、爪を噛んだ。いらついている時の彼女の癖である。ミサトは知っている。ミサトもいらついて小声で相槌を打った。
「判ん無いわよ...そんなの。」
 緊張が頂点に差し掛かった時、全ての解答は得られた。尤も、理解出来た物は一人もいなかったが。
 発令所の喧騒は青葉の一言で静まった。否、それは、
「衛星からの映像受信!!メインモニターに回しますっ!!」
「え?」
 静寂。誰もが驚愕に目を見開き、そして目の前の光景を疑った。
「何よ。これ。」
 誰もミサトの問いには答えない。判っている。これが先の謎の解だ。だが理解出来ない。それはNervの頭脳たる碇リツコにとっても同じ事。唯唖然とモニター眺める発令所の職員。
 ミサトがもう一度呟いた。
「何よ。これ。」

 白銀の世界に、白銀の巨人がいた。










拾弐.






 モニターが次々に文字を羅列して行く。
[ Target lock. Second program, stand by... ]
 部屋全体が更に鳴動する。だがその一角、四つの筒。否、匣は依然沈黙したまま。
[ Fifth program, clear... ]
[ Sixth program, start... ]
 幾多のモニターが、数式や文字、地図、図形、プログラム群を表示して行く。その中の一つ。一際大きなモニターがたった一言、弾き出した。

[ Final program, start... ]

 部屋が、一際大きく鳴動した。










拾参.






「何故ですかっ!?」
 最近では閉じられる事の少なかった展望窓が堅く閉ざされている。照明の落ちた薄暗い室内にリツコの憤りが響き渡った。

 公開特務機関として初の緊急事態で俄に動き出したNervの活動を止めたのは、他でもない総司令碇ゲンドウである。幸いにも非常事態宣言はまだ発令されてはいない。何れ公表しなければならないでは有ろうが、今世間に知られる事は少なかろう。
 目の前には作戦部長葛城ミサト、技術部長碇リツコ。今のNervの中枢を担うのがこの若い二人の女性である。そして隣で以前と同じように机に肘を突き、口元を手で隠すポーズで表情を隠す男、碇ゲンドウ。今この男は机に置かれた一枚の写真を唯じっと凝視するだけで一言も口を開く様子は無い。
 冬月は視線を落とす。ゲンドウの目の前にある写真。先程発令所に映し出された北極点、衛星からの拡大写真である。吹き荒ぶ粉雪と一面の白銀にその画像の細部は如何せん読み取りにくい。しかし、どう遠目に見てもその異形の物体を見紛う筈は無かった。

『...四号機、か。』

 発令所の皆が使徒の再来を危惧した。しかし、その危惧は徒労に終わった。それは寧ろ大いなる疑問になって返ってきた。そこにいたのは使徒ではなく、況してや雪男でもない。明らかに自分たちの良く知る『EVANGELION』に他ならなかった。だが、この四号機の姿見を知っている者は少ない。ゲンドウとリツコ、そして自分位だ。だから誰一人としてそれが何かを理解し得なかったのだ。ただ、そこにEVAが居て先程の異常現象を引き起こしていた事だけが理解出来たに違いない。
 碇夫妻の睨み合いが続く。いや、一方的に見えはするが。何故リツコがここまで憤慨しているかと言えば、至極当然にも思える。彼女は自分の仕事にはプライドを持っているし、それなりの分別も付けられる。だが、自分に無理を押してでもこなそうとするのは余り良い傾向とは言えない。碇は碇なりにその辺が心配なのだろうと思う。せっかく家庭を手に入れたのに、必要とは言え彼女の負担がここ数ヶ月で増えたのは事実である。EVA零、参、伍号機の新造計画、弐号機の改修計画、更に今まで通りの通常業務さえ、チルドレンの増強に伴い業務の総量は増加している。冬月から見ても、彼女が今にも責務に押し潰されそうでどうにも見るに絶えない。
「...司令っ!!」
 リツコが机を叩き再びゲンドウに迫る。ゲンドウは沈黙を保ったまま。この夫婦は自宅でもこの調子なのだろうか?これで家庭が維持できるものかどうか、老婆心ながらふと思ってしまった。煮え切らないゲンドウにリツコは遂に堰を切った。まぁ当然だろう。この男は二人を呼び付けてから始めの一言目以来何一つ口を開いていない。
「何故!?四号機を第壱支部に引き渡さねばならないのですっ!!そんなに私が信用できませんかっ!?」
 そうなのだ。この男は開口一番、突如北極圏に出現したEVA四号機の回収・原因調査、及び改修整備計画をアメリカ第壱支部で行なうと言い出したのだ。葛城二佐は始めに驚きの表情を見せて以後沈黙を守っている。何時も指示の理不尽さに真っ先に意見するのは彼女の方なのだが、今日に限ってその役は技術部長に先に取られてしまった様だ。冬月に至ってはもう既にこの男の理不尽さ等で驚きはしない。ただ、何故その選択に至ったのかは先程の推測が精一杯である。以前の様にシナリオが存在する訳ではないのだ。そう言う意味ではこの男の手腕は大層な物である。この一年、世界情勢一つ取ってもそれは如実に表れている。
 長い沈黙の後、男は漸く写真から視線を上げリツコを睨み据えた。
「...明らかにオーバーワークだからな。」
 男はいきなり彼女の弱い所を突いて来た。リツコの顔が一瞬呆気に取られた後、徐々に赤味を帯び口をパクパクとさせ、しかし返事は出てこなかった。まったくこの男は。自分の妻にそこまで言うか?仕方なく冬月はこの不器用のフォローを渋々始めた。
「リツコ君。君は我々の無理難題を十分過ぎる程こなしてくれている。まったく持って感心するばかりだと思うよ。しかしね、最近の君が明らかに疲労度を増しているのは誰の目からも明らかだ。まあ、それを強いたのは我々の思慮不足としか言いようが無いが、今はもうそこまでスケジュールを意識する必要など無い。もっとゆっくり取り組んでくれて構わないのだよ。碇は君が心配で仕方ないのだから。」
「ふ、冬月...」
 最後のはちょっとした悪戯心からなのだが、この男は以外とこの手の事には弱かった様だ。向かいではリツコまでもが別の意味で赤くなっている。うんうん、若いとはいい事だ。
「司令。」
 今まで沈黙を保っていたミサトが唐突に口を開いた。今だ彼女は戦闘態勢を解いてはいない様だ。
「お聞きしたい事があります。何故今になっての、第壱支部委託なのでしょうか。まだ関係は改善されているとは言い切れませんが?下手をすれば...」
 そうなのだ。冬月も同じ事が気に掛かっていた。事実、今の支部と本部との関係は絶壁の谷を綱渡りする様に非常に危うい状態なのだ。ましてや敵対行動を取った相手である。EVAを渡したとたん、手薄な本部の乗っ取りに打って出てくるやも知れない。
「今だからこそだ、葛城二佐。これ以上この関係を続ければ、Nervは内側から崩壊する。」
「しかし、それにしても余りに危険な賭けでは?」
「そうだな。葛城君の意見はもっともだ。碇、どう第壱支部を制御するつもりだ?」
 ゲンドウがちらとこちらを向く。
「...冬月、お前が行くか?」
「...な、なにっ!?」
「ふっ。冗談だ。」
 くっ...どうやらさっきの仕返しのつもりらしい。
「冬月先生。」
 珍しく昔の呼び名が出てきた。彼が人前で自分をこう呼ぶのは珍しい。
「...私は、例の件。受けようと思っています。」
 一瞬、“例の”の意味が判らなかった。そして分厚い書類を思い出す。
「...本気かね?揚げ足を取られる可能性も有るのだぞ?」
 ミサトとリツコは二人のやり取りの意味が判らず、呆としている。ひょっとしたらゲンドウの態度が急に変わった事の方が奇妙だったのかもしれない。
「さっき日時の確認を秘書にさせました。その時に向こうの代表者が直接私と話をしたいと言いましてね。電話口でですが、彼等の真意が漸く判りましたよ。」
 振り返ったゲンドウが薄く笑みを浮かべていた。意味が判らず暫し沈黙する冬月。不意にインターホンが主を呼び出した。
『司令。お客様が御出でです。如何致しましょう?』
「丁度良い。通せ。」
『はい。』
 来客だと?冬月に不安が過る。まさか...
「まさか、碇...」
 ゲンドウの口調は既に元に戻り、総司令の物になっていた。
「向こうから直ぐに伺うと言うのでな。丁度良い。葛城二佐と博士にも会っておいてもらおう。」
 余りにもそっけない。何時もこうだ、この男は。人を煙に巻く言動で欺き、しかし結果この男の行動は正しいのだ。唯一誤った選択はユイ君の事位か。それでも言わずにいられない。この男の真意を知るまでは。
「おいっ!?私に断りも無く勝手に進めおってっ!まだ身辺調査さえ出来ていないのだぞ?下手に相手の懐に飛び込んでしまえばどうなるかぐらいお前にだって判るだろうっ!!」
「...冬月、そう急くな。問題無い。彼等は、」
 言いかけた時、再びインターホンがゲンドウを呼び出した。
「今開ける。」
 有無を言わさぬ様にゲンドウの指がドアの開閉ボタンを押した。最早冬月に止める術は無く。執務室のドアが開き、

「アーカム財団の、ティア・フラット様を御連れしました。」

 薄暗い空間に差し込む廊下のライトが、深窓の令嬢を浮び上がらせていた。










拾四.






 三月に入り、徐々に空気が春めいて来た。
 葛城ミサトはウインドウを全開にして愛車ルノーで環状線を法定速度の10km程をオーバーしつつ走っていた。珍しい事だが、ここ最近はこの通勤時間に比較的のんびり走るのがミサトは非常に気に入っていた。いや、寧ろこの為だけに早起きまでして態々時間を作り遠回りしているのである。セカンドインパクト前のあの四季が再び舞い戻ってきた。もう直ぐ木々が青い芽を吹き始めるだろう。ミサトはそれが楽しみで仕方なかった。
 今Nervは先週までの激務が嘘の様に解消されている。今だ職員に混乱が有る感は否めない。しかしそれ程悪意に満ちた混乱ではなく、それは単なる戸惑いであり、実際はかなり皆好意的で意欲的である。
 碇司令は今不在で冬月副司令が本部を取り仕切っている。今週末行なわれる国連総会の第十三次報告の為である。
 そしてもう一つ。
 アメリカ第一支部へのEVA四号機の視察と、第一支部人員増強及び指導の為である。
 ふと、つい一週間前の出来事を思い浮かべる。
 混乱が冷め遣らぬNerv本部に突如来訪した一人の女性。ティア・フラット。アーカム財団会長であり遺跡調査組織『アーカム』の創設者である。事実上の“総大将”と言うわけだ。始めそれを聞かされたとき違和感を感じた。“創設者”である。アーカム財団の歴史はSEELのそれに比べれば浅い。が、それでも戦後から続く大財閥である。その“創設者”と名乗る人物が目の前にいた。どう見たって18、9。どんなに若作りだとしても24、5がいいところである。漆黒の黒髪と落ち着いた風貌。その顔立ちは名前とは違い実に日本人然としている。その彼女が“創設者”?疑問の意が顔に出たのか、彼女が自分の顔を見てにこりと笑った。綺麗な笑顔だった。
 お互い名乗りを上げ、副指令から経緯が説明された。アーカム財団はそれを主軸としたコンツェルンである。様々な企業がアーカム財団の資本で経営されており、その業種はまさに『爪楊枝から戦闘機まで』である。勿論ミサトもリツコもその存在は知っている。世界有数の民間企業だ。しかし『アーカム』と言う組織は財団に所属していながら、その経緯はまったくの異種である。何故ならその方針が『文化的遺産の発掘調査と保護』に有る為だ。しかもその組織的地位は財団“そのもの”である。まったく持って不可思議な連中である。
 副指令が言うには、アーカム財団の来訪の意図はNervへの業務全面援助である。つまり予算・設備・人材、あらゆる協力をするというのだ。何と都合の良い事が世の中には転がっている物か。信用のしの字も無い。と思ったら副指令もその事が気になっていたらしい。本人を目の前に質問した。司令は黙っていた。
 ティア・フラットが言うにはこうである。EVA・使徒・ジオフロント等、古代遺産と思われる物全ての情報提供と実地調査を許可して欲しいとの事であった。これは司令も副指令も既に聞き知っていたらしい。これに真っ先に反対しようとしたのは当然ながらリツコであった。これらの全てはNervにおいて極秘中の極秘情報である。窘めたのは司令だった。ティア・フラットは当然の反応です、と涼やかに詠った。そして司令が言っていた真意が本人の口から語られた。

「私は今年で三百二十六歳になります。」
「ふぇ?」
 唐突な告白にミサトは余りにも間抜けな返事をしてしまった。ティアは微笑を浮かべミサトを見つめた。
「まぁ、いきなりこんな事言われても信じられないと思いますが、私は所謂“魔女”と言う奴でして。」
 余りに突飛な会話の流れに、冬月も隣のリツコも唖然としている。まぁ、そうだろう。一方は元学者、一方は科学の申し子の様な女である。信じられる訳が無い。しかし彼女は左程気にした風も無く会話を進める。
「戦時中の頃です。私はとある理由で或る調査団に所属していました。そこで偶然深海の底から発掘された金属板を発見しました。クレジットカード程の大きさです。初めは何処かの船から落ちたプレート片だと思ったのです。しかしそれは違いました。性質はプラチナに似ていましたが、地球上のどの金属とも符合しません。当時のどんな年代検出法でも全く判別不可能で、それは現代の技術でも変わり有りません。結局判ったのはその金属板自体の“時間が止まって”いる為、決して破壊出来ないと言う事。そして其処に刻まれた古代ヘブライ語の意味だけでした。」
 言葉を区切り、ティアが語った内容は今でもミサトの頭の中で神秘的に響く。
「『心ある者たちよ、過去からの伝言を伝えたい。この惑星には多種の異なる文明があった。だが、間も無く全て滅びてしまう...種としての限界、異文明同士の争い、堕落、荒廃...君達には未来あることを願う。世界中にある我等の文明の断片を遺産として残そう。だが、もしも君たちにそれを受ける資格が無ければ、それ等を全て封印して欲しい。我等と同じ道は決して歩んではならぬ...』それがプレートに刻まれた詞でした。」
「...ま、まさか、あの、じゃあ?」
 言い淀むミサトにティアはこくりと頷く。ミサトは呆気に取られた。
「私は、その意を紳士に受け止め、太平洋戦争終了と同時にアーカムを創り上げました。」
 信じられなかった。何と無垢か!何と言う純真さか!今時、否。戦後と言っても其処まで馬鹿正直な人間が居ようとは。でも、ある種羨ましかった。たった一枚の信憑性すら無い僅かな過去の伝言を信じて、彼女は数十年間(年齢の話を信じれば)意思を貫き通してきたのかと思うと、正直体が震えた。自分はついこの間まで復讐の為に、子供を戦いに投じてまで生きてきた。しかし、終わってみれば何と虚しかった事か。しかもその中の一人は帰ってくる事すらなかったのである。ひょっとしたらもう既に...その思考は途中で振り払った。だからこそ自分はその罪を償う為にも、子供達の未来を守ってやろうと決心したのである。その意味で彼女、ティア・フラットはミサトにとって羨ましく映った。
 感慨に耽っていると、冬月が一つ質問を出した。
「私は君等がその古代遺産を破壊、若しくは封印していると聞いた。それはつまり、人類がその遺産を享受するに値しないと判断したと言う事かね?」
「えぇ。私は第一次、第二次と二つの戦争を“体験”しています。判りませんでした。何故同じ人間同士が其処まで殺し会わなければならないのか。そして思ったのです。少なくともこのまま人類が遺産を手にしたとしても、過去の、古代文明と同じ運命を辿ると。ですから、封印を、場合によっては破壊までも決意したのです。せめて人類がその遺産を受け継ぐに値する日が来るまではと。」
「ふむ。成る程。」
 冬月は一先ずは納得した様である。成る程、そう言えば彼女は敵対組織である可能性も否めないのだ。ミサトなど初めの一言ですっかり言いくるめられていた様に見える。ちょっと居心地が悪くなってしまった。
 だが、それでも納得しない者は居る物である。リツコだ。
「いまいち信用できませんね。本当にそんな古代遺産が存在したと言うのですか?そしてそれだけの効果があったのですか?」
 流石、科学の権化。一筋縄では行かない。しかし、ティアはにっこり笑ってリツコに止めを刺した。
「あら?貴方達の方が身近に感じているじゃありませんか。“あれ”だって、元を正せば古代遺産で超常の力を備えているではありませんか。」
 お見事、とミサトは心中拍手喝采である。言われてみれば確かにそうだ。“あれ”は南極から掘り起こされた『アダムとイヴ』から全てが始まったのだ。
 撃沈したリツコに代わり、ゲンドウが漸く口を開いた。
「ティア・フラット。そろそろ本題には入ろう。私もまだ本当の意味では貴方方の真意を伺ってはいない。アーカムがどう言う理念で行動しているかは理解した。しかし我々はまだ不本意だ。何故今になって動き出した?何故2000年のあの日。黙って見送ったのだ。葛城調査隊を。」
「なっ!?ど、どういう事ですかっ!!」
 ミサトは尋常ではいられなかった。何故?何故そこで葛城調査隊が出てくるっ!?
「葛城二佐。彼女達アーカムは当時、葛城調査隊に同行していたのだよ。秘密裏にな。」
「葛城?あぁ、では貴方が調査隊唯一の...」
「どう言う事ですか!!何故...何故貴方達がっ!!」
「や、止めなさい!ミサトッ!!今それを言ってもしょうがないでしょ?司令も司令ですっ!!何でミサトを煽る様な言い方するんですかっ!!」
 危うくミサトはティアに飛びかかりそうな所を、リツコに押さえられ冷静さを取り戻した。一方自宅での呼び名までは出なかったが、すっかり奥様モードで窘められてゲンドウは少し小さくなっている。横で冬月は大きく溜息を付いた。
 その様子にくすくすと微笑を漏らしながらも、ティアは深く謝辞を述べた。
「許してください。葛城さん。確かに我々は葛城調査団に参加していました。本来ならSEELが動く前に我々は乗り込むつもりだったのです。しかし、事前調査で得た“あれ”の情報は余りにも我々の範疇を超え過ぎたのです。まさか、『アダム』が生きていた等とは。いえ、正確には使徒と言う存在と言った方が正しいのでしょうか?」
「どちらでもいっしょです。では、やはり貴方方は。」
 ゲンドウは初めから予想していたのだろう。彼女達の取った行動の意図を。
「はい。我々には結局詳しい事は判りませんでしたが、少なくとも人間の手で封印・破壊等出来るような代物ではなかった。それが幾ら精鋭揃いの武装集団だったとしても。いえ。実際には我々は最後まで諦めませんでした。それが我々の意思でしたから。SEELの目を掻い潜り計画を阻止するつもりだったのです。しかし実際には...多くの犠牲を出したに過ぎませんでした。覚悟しました...人類の最後を。」
 この時始めてティア・フラットは厳しい目付きを向けて来た。
「しかし、貴方が居ました。碇総司令。そして故碇ユイ氏も...」
「......」
「我々はずっと見守っていました。一体彼方達NervはSEELは人類を何処へ導くのかと。そして、サードインパクトです。しかし、人類は生き残った。貴方の御子息、碇シンジ君によって。失礼ながら、彼方方が決して初めから人類を救う者達だとは正直思っておりませんでした。しかし、Nervはあの世界放送で我々の期待を見事に裏切ってくれました。彼方方を変えたのは...あの少年なのですね?」
 全員に沈黙が降りた。居た堪れずに。ゲンドウが重い口を開いた。
「見透かされていましたか。」
「えぇ。実は彼方達Nervの対応如何によっては、アーカムは独断でNerv殲滅を実行するつもりでした。勿論EVA封印も。」
 にこやかな顔で恐ろしい事をさらりと言う。ミサトはこの女性が組織の頂点に立つ理由が少しだけ理解出来た。
「さて。また少し話がずれてしまいましたね。済みません。ただ、結局はそう言う事なのです。Nervはどうやら改心した様だ。では、我々は人の目に晒されてしまったこの強大な遺産に対しどう対処すべきかと協議致しました。」
「つまり、ご協力頂けると。」
「はい。我財団の優秀なスタッフを御所望な人数用意致しましょう。勿論、資金面、設備投資も制限等は致しません。その代わり、遺産たるEVANGELION。そして使徒の情報。このジオフロントの調査。関わる物全てを、十七年前に我々が出来なかった調査をさせて欲しいのです。勿論、余程の事が解明されない限りは、破壊や封印等とは申しません。もう既に白日の元に晒されてしまった物ですから。何より彼方方の意思が世界を救う事であれば。それに彼方達はそれなりに制御出来て居る様ですし。」
 この期に及んで暴走しますとは口が避けても言えまい。ちょちリツコの口元が引きつってるわねぇ。

 そんな訳でアーカム財団からの支援は翌日から始まったのである。Nervはその圧倒的な規模に腰を抜かした物だ。
 翌日。ティアが直々に連れて来た人材派遣人数、何と500人。しかも精鋭中の精鋭ばかりである。一体何処にこれだけの人材が隠れていたのか。どれを取ってもTOPクラスの技術・開発補充人員300名。元SPや特殊部隊OG等の経歴しか見当たらない保安・諜報部補充人員100名。医師・医局補充人員50名。管理事務補充人員50名。大雑把な割合としてはそんな所である。
 ティアはあの綺麗な若々しい(未だに年齢が信じられないが)笑顔でこう言ったのだ。
「もし足りなければ言ってくださいね?直ぐ呼び寄せますわ。」
 開いた口が塞がらないとはこの事だ。
 そして今碇司令と共にアメリカに渡り、第壱支部の補充要員800人(こっちより多いじゃない!?)を引き連れ視察に向かったのである。全く持って外見に似合わず豪気な人物である。
 Nervは第壱支部のコントロールをアーカムと言うバックボーンを得て、計画をティア・フラットに一任したのである。

 唯、一つ。ミサトは気になる事があった。
 以前、Nervに配属になる前。
 上官である恩師に一度だけ聞いた事のある名。
 奴等とだけは決して関わるなと言われた、畏怖の象徴。
 確か、あの名は...
 あの名は...

「さて、そろそろ行こっかなぁ。」
 環状を一回りした所でミサトが呟いた。ルノーは今まで緩やかに脈動していたその心臓部を急激に燃焼し爆音を轟かせて、第壱中学校舎へ向け疾走して行く。
 これが美人教師(本人談)葛城ミサトの最近の通勤風景である。










拾伍.






 人類は昔空を飛んだ。人は更に上を求めた。飛行技術は発達し、飛行可能な高度は徐々に高くなった。しかし人は或る壁に阻まれた。空の上に空気は無かったのである。人が天高く飛び立つ事は不可能に思われた。
 でも人は諦める事を知らなかった。1961年4月12日。旧ソビエト連邦の有人宇宙船ボストーク1号が宇宙飛行に成功した。人類初の宇宙飛行士となったユーリー・ガガーリン少佐の帰還第一声、「地球は青かった」は余りにも有名である。そして1969年7月20日。人類は遂に夜空に浮かぶ神秘の象徴、月にまで辿りついたのだ。アームストロング船長率いるアポロ11号が月面、“静かな海”に着陸。人類は地球の壁を打ち破り、地球という母なる星から飛び出したのである。
 その後、人々は幾多の有人飛行、無人探査船を空へと打ち上げ、見えざる宇宙を知ろうとした。
 しかし、或る日突然それは訪れた。セカンドインパクトである。
 世界大陸の沿岸部全域を海中へと押しやり、地軸の傾きまでを脅かし、多くの人命を奪い去った厄災。それは人類の夢と希望を奪い去った。
 その煽りを食った一つの組織が有る。アメリカ航空宇宙局。通称NASAである。二十世紀後半、宇宙開拓は正にNASAの貢献による所が大きい。しかしセカンドインパクト後、多くの人民を抱えるアメリカ合衆国にとって、そんな場所に金を掛ける程余裕は無かった。斯くしてNASAは衛星軌道上に打ち上げられた遺産の維持で手一杯の資金のみで、この時代を生きてきた。それは何処の国とて似たような状況では有ったが。勿論仕事が無い訳ではない。国連、軍事、そしてNerv等、衛星を必要とする者は多々居たし、日常的な所では今でも気象衛星のデータを元に天気予報等もやっている。しかし、それ等は専ら其々が勝手に使うのであって、NASAの仕事はそれ等軌道上に浮かぶ多々の衛星を監視する事が最も重要な事である。だが結局それは一部署がやる仕事であって、以前の様にシャトルを開発したりは出来ないし、打ち上げなんかは持っての他。当然指令所等は今では蛻の殻である。

 さてミサトが壱中でアスカと喧しい朝の一幕を繰り広げている頃。そのNASAでは、実に17年振りに活発な動きを見せていた。この十七年間に同じような事が無かった訳では無い。似たような事象はこの業界では日常茶飯事である。
 しかし、今回は事情が違ったし、原因たる“それ”が全くの未確認なのだ。何処に“それ”があったのか?何処かに必ず登録されている筈の情報が全く無かったのである。
 そして“それ”は、たった今、『落ちてきている』のだ。
 燃え尽きる事無く。










拾六.






 授業前のHR。突然鳴った電子音は、非常時以外には決して鳴る事の無い携帯の緊急呼出音だった。
 ミサトがぶつぶつ言いながら、携帯の拡声器から聞いた後の第一声はこうだ。
「ぬぅあぁあんどぅえすっとぅええええっっっ!!!!!?????」

 そして今。戦術作戦部部長葛城ミサト二佐率いる、エヴァンゲリオン零号機専属操縦者碇レイ三尉、同弐号機専属操縦者惣流・アスカ・ラングレー三尉、同参号機専属操縦者鈴原トウジ少尉、同伍号機専属操縦者渚カヲル少尉。そして今回は見学という事で、見習いオペレータ霧島マナと見習い技術部員相田ケンスケもちゃっかり付いて来ている。
 で、何処に来ているかと言えば当然ここ。特務機関Nerv発令所である。葛城ミサトは発令所に入るなり開口一番怒声を響き渡らせた。尤も其れは普段のおちゃらけた物でなく、すっかり軍人の物へと切り替わっている。
「どういう事なのっ!!日向君!?」
「NASAからの情報で全くの未確認衛星です。どの国にも登録されておらず、何時打ち上げられたのか、何処の所属なのか、全く情報がありません。只、判っているのは、どうもやたらに強度が強いらしく、大気圏で燃え尽きる可能性は30%を切っています。MAGIによる目標予想到達時刻は十一時五十一分。残り六十分を切っています。同じくMAGIの落下予想地点は、駿河湾、新小田原沖10km。衛星の強度、大きさ、落下速度から推測するに、どう少なく見積もっても落下中心地点から周囲50kmは間違い無く消滅します。第三新東京国際空港が消し飛びますね。」
 日向の報告を聞くうちに、あの第拾使徒攻防戦が思い出される。
「ちっ。これじゃ規模が違うってだけで、あのサイケ使徒と変わり無いじゃない!」
「おまけに今回の落下地点は海のど真ん中。津波の被害も予想されます。」
 苛立つミサトに態々煽るような報告をするマコト。しかしこれは二人にとってある種戦いに赴く為の通過儀礼だ。ミサトの戦意高揚を促し、其れをNerv全体の士気へと転化する。案の定。
「はん。上等!!非常事態宣言発令!!駿河湾沿岸部の住民避難を要請!副指令。宜しいですね?」
 振り仰いだ先に居るのは、現在のNerv本部総責任者、冬月コウゾウ。見た目は好好爺だがその頭脳は折り紙付きである。ゲンドウと言うカリスマが存在しなければ、間違いなくNervを率いるのは彼以外には存在し得ないだろう。其れでも彼が副指令と言う地位に甘んじているのは、本人がその地位を最も相応しい位置として認識している為であり、また其れは正しいのだろう。戦局において常に必要なのは客観的な認識力と判断力である。冬月にはそれがある。常に後方に位置し全ての流れを冷静に洞察する。しかし彼が動く事は滅多に無い。重要な時にだけ組織全体を正しい方向に導く。
 そう言う意味ではミサトとは全く対照的だ。ミサトの普段のずぼらな彼女の生活ぶりはNerv職員全員が知るところである。其れは皆の心を和ませ、親近感を与え、上司と部下と言う枠を超えて関係を築く。所が一度戦場になれば、ずぼらでいい加減で気さくな美人の彼女は、一変して鋭い眼光の女戦士に変貌する。更に彼女の指揮官としてのポテンシャルは計り知れない。セオリーが無いのだ。勿論基本は学んでいる。その為に態々ドイツ・アメリカと五年間実戦を経験してきたのだ。だが、ここぞと言う時にその箍はあっさり外れ、奇想天外な発想、行動へと繋がる。しかも其れが見事な程効率的であり迅速な作戦へと昇華されているのだ。これはもう生まれ持った“天武”の才能であるとしか言いようが無い。ある種ゲンドウのカリスマに近い。そして其れを買われNervという特殊な作戦が必要な舞台へと彼女を伸し上げたのだ。当然、職員はその親しみ易く、それでも畏怖の念を抱かざるを得ないこの女性を、自然と自分達が付き従う者であると認識させるのだ。何故使徒戦争で彼女の作戦が尽く敗退したかと言えば、まぁ様々な要因はあるのだが、大きな理由は一つしかない。ミサトと言う枠の無い人間を持ってしても、使徒の枠の無さは余りにも差が有り過ぎたのだ。だからこそ人類の範疇で起こる事象であれば、正に彼女程この仕事に適任者は居ないのかもしれない。
 冬月とミサト。この相反する属性の二人を、不動のカリスマを持つゲンドウが束ねる。おまけにオブザーバーとして碇リツコと言う世界きっての科学者が付いているのだ。正に鬼に金棒とはこの事だ。
「任せるよ。国連本部からの公開機関初の任務だ。存分にやり給え。」
「はっ!!アスカッ!!」
 続けざま振り返りセカンドチルドレンを見る。今、Nervには弐号機しかない。そう。アスカ一人に任せるしかないのだ。ミサとは矛盾から来る感情を押さえきれていなかった。子供達を守ると決めた癖に、結局は彼女達を危険な場所へと追いやるしかない自分の不甲斐無さ。
 アスカはミサとの心内を知っているかのようにふと表情を緩める。家族として、姉としてミサトを見る時のやさしい顔だ。しかし其れは直ぐに消え何時もの快活な表情に戻っていた。
「判ってるわよっ!どうせまた手で受け止めるとでも言うんでしょ!?ミサトの考えそうな事だわ。」
 アスカの心遣いが嬉しかった。だから今は涙は見せず、有りがたく少女を罵ってやった。
「なぁ~に言ってんの。今回はそんな必要無いわよ。相手は只の衛星。ATフィールドを中和する必要も、殲滅する必要も無いのよ?」
「じゃあ、ぶち壊しちゃって良い訳ね?」
「残念ながら、そうでもないわ。リツコ?」
 脇で見ていた御意見番は軽く目を瞑り私見を述べる。
「あら?ミサトの事だからアスカと同じ事言うかと思ったわ。ま、ミサトの言う通りだけどね。」
「どう言う事よ?だって衛星って言ったって只のゴミでしょ?吹き飛ばしたって問題無いじゃない?」
 不思議がるアスカにリツコはアスカとその後ろに居並ぶ少年少女達を見た。リツコにとっても以前と違うとは言え、この子供達を再び危険な目に合わせるのは非常に忍びない。しかもその中には自分の愛しい娘が居るのだ。 
「前回と違って今回の場所は海。しかも湾内よ。受け止めるにしろ破壊するにしろ衝撃を受ければ津波は発生してしまうし、衝撃はそれなりの被害をもたらすわ。そして私達の任務はもう殲滅ではないのよ。あくまで危機回避であって破壊行動では無いわ。」
「判ってるわよそんな事。もう昔のNervじゃないってんでしょ。で、対策は?」
「幾つかあるわ。先ず落下地点上空10kmにATフィールドを展開。太平洋側に弾き飛ばす。これなら津波を極力押さえられるわ。貴方にも危険は及ばないわ。」
 些か納得の行かないアスカ。理由は明白であった。
「私の事は良いのよ。極力って事は被害は出るのね?」
「えぇ。只津波の規模が小さくなるだけ。もう一つは、EVAで上空で衛星を捕獲。まぁ、これは衛星のサイズに寄るから寧ろ破片一つ残さず破壊した方が楽かもね。着水時にはATフィールドで着水時の衝撃を吸収。これで被害はまったく出ないわ。」
 まぁ理想的ではあるだろう。あるのだが、 
「...まったく、リツコも無茶行ってくれるわねぇ。」
「あら?ミサトほどじゃないわ。」
「作戦部長としては?それでいいの?」
 振り仰いでミサトに確認を請う。まぁアスカとしては覚悟もしてるし、この程度で怯む程落魄れてはいない。そして気付いた。自分は根っからの戦士かもしれない。
「そうね。ただ、出来れば奴さんは丁重に御連れして欲しいわね。」
「?、何かあるの?」
 それこそ無意味な、と思わないでもないがミサトの表情を見て理解した。不敵に笑う上司の思考は自分のそれに良く似ている。だから判った。
「あぁ。成る程。OK、了解了解。キッチリ御持て成しするわ。じゃ、行くわ。」
 振り返ったアスカの正面にレイが立ちはだかった。何時もと変わらぬ無表情。だがその紅の瞳が揺れている。アスカは瞬時に彼女の表情が読み取れるようになった自分が嬉しく、また最近では表情を現す様になった彼女が何故無表情なのかもわかった。レイは不安がってるのだ。そして同時に自分を助けられない事を不甲斐無くも思っている。そんなレイの心遣いが嬉しくて、そして無理に表情を押し隠す彼女が愛し惜しくて堪らなかった。だから笑った。
 赤の少女は青の少女の肩を叩き通りすぎる。
 そして前方では仲間達が自分を見送ろうとしている。
「無理、しないでよ。」
「ちょろい、ちょろい。」
「ま、気をつけてな。」
「心配御無用。」
「済まないね。手助け出来なくて。」
「アンタの助けは必要無いわよっ。」
「お手本見せてもらうで。一発決めたり。」
「当然っ。」
 アスカが発令所を出ようとした瞬間、青の少女が引き止めた。
「アスカッ!!」
 以前は聞く事の無かった少女の叫び声。そして感情の奔流。
「行ってくるわ♪」
 赤の少女が親指を立て、扉の向こうに消えた。

 少年が振り返りミサトを問い正した。
「ミサトはん。何で、惣流に衛星受け止めぇ言うたんですか?」
 ミサトは厳しい目でトウジを見つめ、重い口を開いた。その表情が更に険しくなって行く。
「...気になったのよ。未確認衛星ってのは別に珍しい事ではないわ。只知られて無いだけでね。」
「成る程。そう言う事だね?」
 誰に向けた言葉なのか?渚カヲルが納得顔で微笑した。
「良くいるのよ。届けも為しに私用で打ち上げる馬鹿とか、エゴで秘密裏に処理するどっかの政府とか...迷惑なのよねぇ。マヤ?目標の捕捉と内部のスキャン急いでね。」
 もったいぶる説明をしながら、本来の仕事に戻りつつあるミサト。周りの発令所の者達も些か異様な雰囲気に気づき始めた。いや。ミサトの言ってる『意味』にだろうか。
「...ま、まさか...」
 ケンスケが呟いた。何だ?何がある!?トウジの胸がざわめいた。
「青葉君?戦自に下がれって伝えて。ま、念の為にね。いるのよね。たまに何の目的も無い癖に余計なもん積みこむ馬鹿が。」
 流石にそこまで言われて気付いた。そうだ、ケンスケが言っていた気がする。稀に動力源に“それ”を積みこんでいる奴があるって。ミサトがマコトの横でコントロールパネルに映る情報を睨み付ける。
「...ま、まさかっ!?それって、葛城さんっ!!」
 顔面蒼白のマナが叫んだ。聞くな。そんな胸糞悪い事は聞きたく無いっ!!気付くとミサとの口元が歪んでいた。
「いるのよぉ。プルトニウム積んでるアホな衛星飛ばす奴がさぁっ!!」
 叫びと共に鈍い音がした。ミサトの拳がコンパネの上で震えていた。ミサトの顔は怒りと微笑に彩られていた。トウジには判らない。何故この人は笑う?
「ま、アスカの方は心配無いわ。あの子は史上最強の鎧を着込んでるんだから。それにまだそうだとは決まってないしね。」
 ふっとミサトから怒気が消える。残ったのは笑顔だけ。その笑顔が少年達に向いていた。だが直ぐに厳しい顔に戻る。少しだけ安心した。
「覚えておいて、皆。幾ら使徒がいなくなったとは言え、EVAを扱う以上、取り巻く事態はやはり危険な物には変わり無いわ。私達はそういうモノを相手に戦うの。そして、守るの。分かる?」
 そう。この一年平和だった。だからそれに馴れ過ぎていたのかもしれない。何時でも危機は其処に在ると言う事。そして自分達がその最前線に居ると言う事。
 だからトウジは今一度気を引き締め直した。親友の思いを、守る為に。

「セカンドチルドレン、ケージに到着しました。搭乗開始します。起動準備は既に完了済みです。何時でも行けます。」
 シゲルが状況を報告する。
「それにしてもねぇ...」
 ミサトが再び正面を向きスクリーンを見据えた。その顔に再び笑みが生じる。否、怒気か。
「ムカツクのよねぇ。そういう礼儀知らずな奴ってさぁ。」
 妖艶。ある種、彼女は何かに酔っているのかもしれない。それを諌める様にリツコが口を開いた。
「早く指示出したら?余り時間無いのよ?」
 ふっと横目でリツコを見据えるミサト。今だ酔いは覚めない。
「だってさぁ、そう思わない?」
「えぇ。そうね。人ん家の庭に無断でゴミ棄てようなんてね。」
 自分も気に当てられた様だ。こんなミサトは久し振りだ。欲求不満だったのだろうか?頭の隅だけが妙に冷静だった。
「でしょ?だったら...」
「目標捕捉!!内部スキャン開始します!!」
 マヤの報告にミサトがスクリーンを睨み付ける。
「そんな不届きモノは、見つけ出して徹底的に叩きのめさないとねぇ...」

 瞳が妖しく揺らめいた。其処に宿るのは...

「第一種戦闘配備!!」

 一年振りに鬼神が姿を現す。





落ちる


おちる


オチル





ここは?


何処だ?





私は


誰だ?






ワタシハ


ナンダ?






拾七.






 大地が振動する。
 専用長距離輸送機から投下されたEVA弐号機がその巨体を唸らせ着地し、その背にアンビリカルケーブルを接続した後、直立した後フォールドモードで固定される。足元には運び込まれたEVA専用の武器類と整備用の装備を乗せ大型トレーラーが幾台も鎮座している。武器は今回必要では無いのだが、非常時に備えてと言う事だ。上空には偵察用や戦闘用VTOLが飛び交っている。EVAを視界に入れてそれを見れば、どう見ても人間の回りを飛び交う蝿である。

 『汎用人型決戦兵器EVANGELION』
 機体差も有るがその全長は優に50mを超え正に巨人と呼ぶに相応しい。この巨人には常識が通用しない。否、常識が無いと言ったほうが正しいか。古より巨人と呼ばれる物のイメージは緩慢で重量感あるものであろう。しかしこの鋼鐵の巨人は其の身の重さ等微塵も感じさせずに宙を舞い、一方でその細身の体躯に似合わ無い程の無限の破壊力を生み出す。更には人類の作り出した様々な武器を機用に使いこなすのだ。量子力学等この巨人には少しも当て嵌まりはしない。
 そして最も注目すべきは、現代の科学力を持ってしてもその全てを解明する事の出来ない、神だけの御技。
 『ABSOLUTE・TERROR・FIELD』
 絶対防壁。不可侵領域。呼び名は幾つも存在する。元使徒の少年はそれを『何人にも犯されざる聖なる領域』『心の光』『心の壁』とも呼んだ。通称ATフィールド。それは言葉の通りまさしく“壁”である。自由意思による展開自由の光の壁。時には同種のATフィールドを同調させ、『中和』若しくは『侵食』する。更には武器としての使用さえも現段階では確認されている。一体何がそのような摩訶不思議な物を生み出すのか、明確な解明は為されていない。ただEVA、使徒に置いてのみその使用が確認されているだけである。人類には決して制御する事の出来ない謎の光。それを巨人はいとも簡単に使って見せるのだ。
 だが、その稼動には制限があった。EVAの動力源は電力である。電力と言っても通常家庭で使われる其れの比では無い。このような巨体を動かすにはそれこそ膨大な量の電力が無ければとても動く物ではない。その為、第三新東京市各所には全体を維持する電力の他にEVA専用の発電システムが設置されている。更にその電力は市内各主要ポイントに設置された電源ソケットから有線でアンビリカルケーブルによってEVA本体へと接続される。これで漸くEVAはまともに稼動するのだ。ただ有線を解さない場合、非常用としての内部電源が五分間蓄電されている。これらの条件によりEVAには長距離移動、また長時間の戦闘は避けるべき条件として常に付き纏うのだ。今回は作戦遂行地が沿岸沿いと言う事も有り、非常用の電源ケーブルが用意されている。
 尤もこの様な煩わしさも後僅かの辛抱となるであろう。何故ならNervで現在進行中の計画でEVAは半永久的内臓機関を手に入れる予定だからである。
 『S2機関』
 それは使徒から発見された彼等の動力源である。これもまたATフィールド同様その詳細は今だ明らかになってはいない。2000年、葛城博士の提唱した『スーパーソレノイド理論』は、奇しくも南極で発見された“アダム”、そしてセカンドインパクトによって証明された。その後使徒戦争第二次直上会戦において殲滅された第四使徒シャムシエルから得られた情報でかなりの解明が為されたものの、今だ謎の部分は多い。アメリカ第弐支部は建造中だったEVA四号機にS2機関のコピーを搭載し起動に失敗。支部ごと消滅と言う惨事を起こしている。卑しくもその四号機は先日北極点で無傷で発見・回収された訳だが、それをまたアメリカ第壱支部で改修作業をしているというのは何とも皮肉な物である。途中消息を絶っていたとは言え、四号機は人類の手によって最初にS2機関を手にした機体と言ってもいい。そして初号機である。第二次ジオフロント攻防戦において第拾四使徒ゼルエルとの戦闘中初号機は暴走の果て、ゼルエルを捕食という脅威を持ってS2機関を自ら取り込んだ。当時に於いて史上最強の獣と化したのである。更に最終戦。SEELによる侵攻では、量産機九体がS2機関を搭載。永久機関を手に入れた九つの獣は驚異的な再生能力を見せ付け、正に死神の如き様相を呈した。
 かくして現存するEVAでS2機関を搭載する機体は前述の初号機と四号機のみである。間も無くこの弐号機もその永久機関を手に入れ、続く零・参・伍号機もS2機関搭載機となる。皮肉にもSEELが生み出した量産機から得たデータでその恩恵が齎されるのは、アスカにとって癪ではあったが拒否するものでもなかった。

 さて、アスカにとって今回の任務は左程重責には感じていない。否、責任感は有るのだが、それほど気負ってはいないのだ。ミサトが懸念するようなプルトニウム燃料搭載型の衛星だろうと、EVAに掛かれば其れ程問題ではない。一時期懸念されたシンクロ率低下も、今では7~75%は平均で叩き出すまでになっている。何らアスカの障害となるものは無い。
 唯一懸念されるのは目標である衛星のデータが落下直前まで得られない事だろう。もし捕獲し得ない状況になれば衛星の破壊もやむを得ない。いや、別に今回の目的は捕獲では無く“災害”援助だから破壊しても誰も怒りはしないのだが。まぁ、アスカとしては公開機関Nervtの仕事始めとして華麗にキメて置きたいところなのだ。今回の状況は近いうちに全世界に報道されるであろう。その時に、ATフィールドで派手な破壊シーンを見せ付けるのもいいが、中には反論して来る者もいるだろうし、最終戦時に戦自を全滅に追い遣った張本人としては余り破壊行為を大っぴらに見せるにも引け目が有る。それにミサトの様に『“アタシ”んちの庭にごみ捨て様なんざ百万光年早いわよっ!!』的な思考も無い訳ではない。落すだけ落しておいて、責任も取らないような輩をアスカは許すつもりは毛頭無い。
 だが、何よりアスカが懸念しているのは“衛星”が地上まで“落ちて来る”と言う事だ。通常衛星とはその大小に関わらず大気圏摩擦で燃え尽きる様に設計されている物である。こういった事故の為の措置として設計上クリアされなければならない優先項目の筈である。それが地上まで落ちて来るという。通常では有り得ない事である。おまけに未確認衛星と来てる。まぁ、こんな物打ち上げる酔狂な奴が一々登録など済ませる筈も無いであろうが。
 そんな訳でアスカとしては是が非でもこの『未確認衛星』とやらを捕獲しておきたいのである。
 アスカがモニタ右脇に表示されたタイムコードをチェックする。

 作戦遂行まで後、二十一分五十三秒。










拾八.






 現駿河湾は元は陸地である。セカンドインパクトによる海面上昇は世界中の沿岸部を根こそぎ飲み込んだ。よってこの海の下には厄災前の町がそのまま残されている。勿論、其処に居た人々もである。多くの人命をセカンドインパクトは奪ったのだ。その証がこれである。ミサトの胸に何かが去来する。だが、今は感傷に耽っている時ではない。頬を叩き自分自身に活を入れ直し、振り返る。
 自分の指示を信じて付き従ってくれる仲間達がいた。その代表格とも言うべき日向マコトは今は本部と現場の橋渡しををやってくれている。ミサト自身は現場で素早い指示を与えなければいけない。その指示を最も多く受ける事になる少女が仲間達の後方に赤の巨人の姿を借りて鎮座していた。
「さーて。アスカ!?聞こえてるわね?」
 指揮車に戻ったミサトのレシーバー越しにアスカの快活な声が響いて来る。感度は良好な様だ。
『あったりまえでしょ。何時でもOKよ。』
「了~解。マヤ?」
 隣に居るマヤへと振る。アスカとの回線は開いたままである。何時もならばここにリツコが居る事が多いのだが、今回は技術局長が現場へと借り出された様である。まあそうだろう。部長殿は今大事な仕事を抱える身である。下手に怪我などされては支障が出るというものだ。
「奴さんの情報は?」
 マヤは指揮車の窮屈な椅子を気にしながらもその手を休める事無く、キーボードを自由自在に操っていく。
「現在目標は楕円軌道を描いて予測軌道を降下中。間も無く大気圏へ突入し始めます。偵察衛星との接触は一分後。もう少し待って下さい。」
「OK。入り次第直ぐにアスカの方に回して頂戴。アスカ?聞こえたわね?」
「了解。ちゃっちゃと終らせましょう。」
「そう慌てなくてもちゃんとここに落ちて来るわよ。」
 この二人は非常に和やかな表情であるが、周りは実際火の車である。続々と入る情報を振り分け必要な物をミサトへ報告。指示を仰ぎ作戦準備に余念が無い。Nevr職員は使徒戦で常に一度きりの本番を強いられる。失敗は許されない。其れが人類滅亡に直結されたからだ。その為彼等は必要以上に何度も準備の確認をし、一度きりの作戦に挑む。一つの失敗も許されないし、許す気も無い。下手な軍隊よりは余程統率が取れ、理想的な部隊と言えよう。
 その準備も一節目を終え、今は再び指揮官の指令を待っている。今回はその作戦の決定が遂行直前に決定する。どれだけ迅速に最終準備を整えられるかに掛かっているのだ。
 そしてその時が来た。
「偵察衛星からの情報受信!!」
「状況は!?」
「...そ、そんな...」
 モニターを凝視し驚愕するマヤ。使徒戦の時も暫し見うけられる光景だったが、今はあの時とは違う。空かさずミサとのミサトの激が飛ぶ。
「状況っ!!」
「は、はいっ!?け、懸念されていた放射線反応は有りません。目標のサイズは凡そ25m。SSTO程では有りませんが衛星にしては大きすぎます!!」
「衛星じゃ、ない?」
 ミサトは一瞬判断に迷った。放射線反応、つまりプルトニュウムの類は積んではいない。ならば上空で破壊しても地上にプルトニュウムが降り注ぐ事は無い。相手の正体が見極められないのは悔やまれるが、致し方あるまい。電波障害で偵察衛星からの画像が送られて来ないのがむかついたが、作戦は決まった。そんなに大きな物を捕獲するには危険過ぎる。
「作戦をBプランに変更!!目標を上空にて殲滅」
「ちょっと待った、ミサト。」
 ミサトの指揮が遮られる。アスカの声は妙に落ち着いていた。
「アスカ?」
「大丈夫。行けるわ。」
 ミサトの表情が歪む。この娘を危険に晒す訳には行かない。
「駄目よ。危険だわ。失敗しましたでは許されないのよ。」
 だが、アスカの表情は変わらず笑顔のままだ。
「大丈夫だって。EVAの事は私達が一番良く判ってる。受け止められるわ。」
「でも...」
「ミサト。」
 言い淀むミサトを少女が遮る。笑顔は耐えない。
「何時からそんなに弱気になったのよ。」
 不敵に笑うアスカ。そして気付く。何時の間にか「子供達を守る」と自分を戒め、逆に任務を遂行出来なくなっている自分に。そしてモニタの向こうで笑う少女はもうその事は望んではいない。否、優しさを求めていながらも自分のやるべき事を決して諦める事は無い。任務に忠実なのでは無く、自分がそうしたいから意思を貫き通す。何時の間にか少女は大人への階段を登り始めていた様だ。
「...行けるのね?」
「あったりまえじゃないっ!!アタシを誰だと思ってんのよ!天下の惣流・アスカ・ラングレー様よっ!!」
 こういう所はまだまだ子供だ。くすりと苦笑し、態と能天気な大声を張り上げた。
「よっしゃーっ!!作戦続行っ!!目標の捕獲作戦を展開!アスカっ!!目標落下地点に移動!!しくじるんじゃ無いわよっ!!判ってんでしょうねぇっ!?」
「あったり前よっ!!アタシがどれだけすごいのか世間様に見せてやるわよっ!!」
 案外これが本音かもしれない。ちょびっとだけ冷汗が流れた。
 周りを見る。職員全員が生き生きとしていた。少女のたった一言で。うん。これがNervだ。
 更に士気を高める為、ミサトの能天気な怒号が響き渡った。

「EVANGELION弐号機!起動!!」





落ちる


おちる


オチル





ここは?


何処だ?





私は


誰だ?






ワタシハ


ナンダ?






拾九.






 巨大な圧力が空気の壁を突き抜けて来る。巻き上がる熱と対流。人というちっぽけな存在にとって其れはやはり圧倒的な大きさで迫り来る。

「クッ!結構でかいじゃない。」
 最大望遠で映し出されるそれは真っ赤に表壁を燃え上がらせ、予定通りにここへとやって来る。
 呟いたアスカの元に未だに子供っぽさの残る声音が予定通りの連絡を寄越す。
「目標!後20秒で大気圏を通過!!アスカッ、準備を!」
「まっかせなさい。」
 久々の緊張感。
 軽い高揚感。
「カウント10秒前!!」
 グリップを握り直す。
 額をゆっくりと汗が滴る。
「5秒前!」
 舌なめずりをする。
 カウントが0を表示する。
「作戦開始!!」
 最後は姉の声がコクピットに響いた。
 目標を睨み付ける。

 紅の巨神が、空を翔けた。

 弐号機とアスカは見事に、またミサト達の心配を余所に呆気ない程優雅に作戦を遂行して見せた。
 先ず順を追って説明しよう。アスカは今回の作戦意図を誰よりも的確に捉えていた。あくまで『災害援助』である。被害は極少にまで押さえなければならない。その意味でEVAの様な巨体ははっきり言って被害を増長させるのが常である。余り適任とは言い難い。通常ならば。アスカはその事を良く理解していた。勿論レイやカヲルも知っているだろう。ジャージ馬鹿は知らないかもしれない。EVAは其の身に宿したATフィールドが全ての根幹を成している。逆も然り。つまりATフィールドの使い方一つで全ては人知の超えた様相を呈する。
 指揮車からのカウント5秒前。弐号機は自分の周囲50mに円柱状の不可視ATフィールドを展開。アスカに言わせればこの“不可視”と言うところがミソだ。そしてカウントゼロと同時に躊躇無く全力で目標に向け跳び上がる。ミサトはこの時一瞬焦った。何せEVAが全力で跳び上がったのである。海から。其の衝撃足るや生半可ではない。海はうねり、水柱が立ち、其の衝撃は沿岸部に一瞬で到達する。筈であった。が、確かに衝撃もうねりも起こっているにも関わらず何時まで経ってもそれはやってこない。そして奇妙な事に気付く。弐号機が立っていた地点だけで“それ”が起こっているのだ。アスカとしては派手なパフォーマンスも欲しい所だった。未だに小煩い政治家や権力者共にNervに、EVAに逆らえばどういった目に遭うかしっかりと其の目に焼き付けておく必要があると思ったからだ。だから作戦とは若干違う手順を踏ませて貰った。これならば沿岸部に被害など微塵も出さずにそれなりの効果を見せ付けられる。
 EVAが跳び上がるというのははっきり言って正気の沙汰では無い。しかも跳び上がる瞬間の衝撃をあそこまで押さえていながら、その跳躍力は半端ではない。正に“飛んで”いるに等しい。全身をバネにして跳び上がった弐号機は一瞬でマッハ5を超え空気の壁をぶち破る。弾丸の如く一直線にすっ飛んでいく弐号機は立ち昇った水柱に掻き消えた様にしか見えず、何時の間にか地上の者達を置き去りにしていた。しかもアスカはある程度高度が取れたところで更にATフィールドを展開する。高速で上昇する自分の足元に、同じように移動するATフィールドを足の裏に張り付かせるイメージを思い浮かべる。つまり移動している自分に同じように移動している地面が出来あがるような物である。そしてアスカはその地面に今一度体重を乗せ全力で地を、否、ATフィールドを蹴った。弐号機は更に壁を突き抜ける衝撃音を残し、尋常で無い速度で空を駆け上って行く。通常EVAの特殊装甲はこの程度の衝撃には十分耐えられる強度になっている。しかしアスカは初めから加速摩擦を軽減する為に弐号機の表面に極薄のフィールドを展開している。これによりパイロットであるアスカ、そして弐号機にも被害は全く出ない。中々に技術部長泣かせである。
 弐号機は僅か数秒の内にこれだけの事をやりのけていた。これを視認出来た人類は居ない。MAGI位である。
 あっという間に弐号機は衛星とのランデブーポイントに到達する。この時点で予定作戦時間を15秒稼いでいる。そう。アスカの強行軍のもう一つの理由としてこの時間稼ぎがあった。ゆとりを持って衛星捕獲に対処しようと言うのである。何せこの未確認衛星とやらはEVAの半分近い大きさなのだ。判明したのはついさっき。しかも予定外の大きさとして作戦変更しようとした指示を辞しての強行軍である。愛しのお姉様の為にもここは手柄を取らせてやりたいではないか。ん~、涙ぐましい姉妹愛。そんな事をしている内に上空から落下して来た衛星と擦れ違う。向こうにはATフィールド等存在しないから外壁表面が真っ赤に燃え上がっている。一瞬アスカは怪訝に思う。が、今考える余地は無かった。思うより先に体が動く。意味が無いのは判っているのだが最早癖に近い動作として操縦桿を前へ押し倒す。アスカのイメージは瞬時に弐号機へと伝達され高速で移動しながら宙返りし足から上空へと上昇する形になる。三度フィールド展開。今度は上空1kmの地点に固定された地面が出現する。衝撃で破壊されない様に今度は視認可能な程強力な壁である。1kmとは言え高速移動中である。あっという間に到達し弐号機は空中に宙吊り状態で着地する。衝撃波が波状拡散して行く。間を置かず弐号機は地を蹴り、今度は加速落下を始める。水泳競技のクイックターンに近い。が、余りに非常識である。ただ今度は非常識な速度では無い。先ほど通過していった衛星より若干早い位だ。そう。アスカは今度は落下する衛星に追い付き取り付こうと言うのである。しかし破壊せずに空中で捕獲するとなると、あの短時間ではこの位の方法しか思い付かなかった。まさか正面から受け止める訳にも行くまい。相手は只の鉄塊である。粉々に砕け飛ぶのが目に見えている。
 徐々に視界に大きく映って来る未確認飛行物体。否、衛星。だがその思考は強ち嘘でも無い。アスカにはそれが衛星にはとても思えなかった。外見の姿形は確かに衛星のそれに“近い”。近いと言うのはそれっぽく見え無い事も無いが、そうではないと言う事。良く見ると外壁装甲はどちらかと言うとEVAのそれに近い様だ。まぁ、そうだろう。普通の衛星なら大気圏を通過した時点で今頃燃え尽きている。これで一つ謎は解けた。さて、衛星と言えば普通はアンテナっぽい物やソーラーシステムっぽい物やぎらぎらの銀紙っぽい物を想像してしまう。まぁ、アスカが思い浮かべたのもそんな教科書に載っていそうな安っぽい物だ。だがこれは違う。明らかに違う。そう、如いて言うなら、
「...S.S.T.O...?」
 そう、そうだ。Single Stage to Orbit。セカンドインパクト後、NASAが唯一開発した、ブースター無しに単独で成層圏を飛行が可能なスペースシャトルの改良機体。サイズは半分にも満たない。が、これはそれに限りなく近い。S.S.T.Oに限りなく似ているにも関わらず、衛星にも見えなくもない。なんなのだ?これは?
 コクピット内に警告音が響く。モニターに現在の高度が表示されている。2万m。考え込んでいた時間は少ないがどっちにしても余り時間は無い。空かさず機体の下部に入り込み、取り付く弐号機。さて。最後の仕上げだ。
「行くわよ。フィールド展開!!」

 それ程難しい事では無い。教えてもらったものだが、一度感覚を掴めば大した事では無い。アスカにとっては。周りで見ている者達にとってはこれ程奇怪な事は無い。
 漸く視認出来る所まで降りて(落ちて?)来た弐号機と未確認衛星。最大望遠でモニタに移される其れにミサト達は見入っていた。本来は職務放棄に近い状態なのだが、誰一人として気付く者は居ない。其れは本部でも同じなのだが。モニタ内では弐号機が衛星の下に潜り込み、両手で支える様にした所で、画が静止していた。否、弐号機と衛星は動いている。正確には落下している。ぴくりとも動かずに。マヤは当然慌てた。このままの速度で落下すれば確実に被害が出る。ミサトを仰ぎ見る。ミサトだけが平然と腕組をしモニタを凝視していた。
「マヤ?高度は?」
 慌ててコンソールに向き直りチェックする。
「げ、現在高度一万mを通過!!葛城さんっ、このままじゃ!?」
「マヤ。状況確認よろしく。私、外で見物してくるわ。」
「へ?あ、あの...葛城さ~んっ!?」
 間抜けな声を余所に、ミサトは指揮車をとっとと降り海岸に突き出た岩場の一番高い所に陣取り仁王立ちで上空を見上げる。後ろではマヤの悲鳴がスピーカーと生音で響き渡り、職員達があたふたと駆けずり回っている。ミサトには別に職務放棄しているつもりは更々無い。唯状況を見守っているだけである。其れは当然可愛い妹を信頼しているからであり、先程見せた弐号機の離れ業が、暗黙の内に心配は無いとミサトに告げていた。
 何時の間にか豆粒の様だった弐号機と衛星が大きく視界を埋め始める。あら?アスカ。作戦の着地地点と違うわよ。ちょびっと冷汗が流れ落ちる。
「こ、高度3000m通過~っ!!葛城さ~んっ!!」
 やっぱりスピーカーと生音でマヤの悲鳴が響き渡った。流石のミサトもびびり始める。が、流石は惣流・アスカ・ラングレー。キッチリカッキリやってくれる。さっきまでの嵐の様な喧騒がピタリと止んだ。
 弐号機と衛星は、浮いていた。
 暫しの沈黙の後、徐々にゆっくりと降りてくる巨大な影。ミサトの直ぐ眼前。波打ち際に紅の巨人は大きな鉄塊を頭上に掲げたまま無事帰還した。ミサトが口元を歪めつつレシーバーを手に取った。
「...アスカ?予定着水地点と違うわよ?」
「何よっ?折角回収の手間を省いてやろうと、近くに降りて来たんじゃない。感謝しなさいよっ!」
 弐号機の顔がにやりと笑ったような気がした。いや、ホンとに笑ったら恐いんだけどね。ちょっと嫌な想像に至った葛城ミサト(自称永遠の二十九歳)であった。

 さて、アスカが最後の奇行をどうやったのかと言えば、答えは簡単である。ATフィールドで重力を遮断したに過ぎない。但しいきなり遮断したのでは、加速度が衝いている以上地面に着地したのと変わりは無い。EVAは平気でもこの上の塊はそうも行くまい。だから徐々に重力を遮断し、高度三千mの地点で一旦完全に停止するまでに至ったのである。実は止まったのには大して意味は無い。単にアスカが目測を誤ったに過ぎないからだ。が、逆に其れはEVAの何たるかを知らない者が見れば幽霊と遭遇する程に奇怪な情景である。何せあれだけ巨大な物が宙に浮いているのである。江戸っ子の御婆さんが見れば拝み出すかもしれない。ナンマイダナンマイダ。
 アスカとしては、あの何時でも何処でもアルカイックスマイルで人形みたいに美形の癖に女に全く興味無く最早救い様の無い究極超絶方向音痴男に教えられた技だと言うのが気に食わないだけで、非常に有益なATフィールドの活用法であると思う。この事はアスカは勿論、ミサトやリツコにもカヲルから報告されている。恐らく量産機の飛行能力はあのけったいな羽のせいでは無い。あれは単なる滑空用だ。実際に上空を自在に飛ぶと言う能力は、ATフィールドの応用に過ぎない。だからあの鴉のような飛行も可能だったのだ。今回アスカが使って見せたのは、どちらかと言うと超能力に近い。まぁ、アスカは超能力なんか信じてはいないし、今使ったのはれっきとした自分が使える技術である。
 これで、最近五月蝿くなっていた蝿共は追っ払えるだろう。特別手当でも欲しいくらいである。後日、冬月が頭を悩ましているのを大勢が目撃しているのは、また別の話。
 それにしても、実際物凄い話である。後日報道されるであろうEVAが更に神格化するのは間違い無い。ちょっとやり過ぎかとも思ったが、着地した瞬間にアスカは余りに華麗な自分の所業に思わずちょびっと感動してしまった瞬間に、そんな思いは吹き飛んでいた。

 エントリープラグが放出される。ハッチが開き紅の少女が紅の巨人の肩に飛び移る。足元には先程安置した未確認衛星とやらに駆け寄る職員達が見える。その中にこちらを向いて手を振る姉がいた。こちらも軽く振り返す。二人共笑顔だ。一つの任務をやり終えた爽快感が、久々に少女を包む。大きく伸びをして息を吸い込む。潮の香りだ。
 ふと。衛星を見た。壁面に何か見えた。然して其れは、たった一言。

「...B.B.L.?」

 潮風が少女の髪を舞い上げた。










弐拾.






「で、間違い無いのだね?」
 主の居ない総司令執務室。そこに冬月コウゾウ、葛城ミサトがいた。堅く閉ざされた、しかし無意味に広い空間は今、重苦しい空気に包まれていた。
「はい。少年少女各々二人ずつ。」
 冬月が深い溜息を付いた。
「カプセルに入っていたと言ったな?生きているのかね?」
「現在碇博士が検査中です。間も無く結果が出ると思いますが、私見で宜しければ。」
 冬月が頷くのを確認し、ミサトは口を開いた。
「生きています。」
「...そうか。」
 冬月は暫し黙した後、呟いた。
「どう思う?葛城二佐。」
 今度はミサトが黙り込む。が、直ぐに沈黙は解けた。
「正直、どう対処すべきか迷っています。」
「そうだな。私もだよ。まぁ、」
 言葉を区切って苦笑した。ミサトが不思議に思っていると冬月が答えを出した。
「碇の言うであろう事は凡そ見当付くがね。」
「?」
 ミサトにはいまいち判らない。冬月が言葉を変えようとした時、インターホンが鳴り碇リツコ技術部長と伊吹マヤ技術局長、その後ろから続いて日向マコト作戦局長と青葉シゲル中央作戦局長が入室して来た。
「どうかね?」
「全員の生存を確認しました。身体的には特に以上は有りません。至って健康体です。今は隔離病棟で安静中。暫く覚醒はしないでしょう。何せ冷凍睡眠後ですから。」
「四人は一人一人部屋に隔離しました。監視は全部で20名就けてあります。」
 リツコの説明にマコトの補足が付く。続けてマヤが口を開いた。
「あのカプセルは冷凍睡眠装置でした。詳細はまだ判りませんが、結構時間は経っています。10年か、20年か。もしそうなら当時としてはかなり高度な物です。」
「経歴を追ってみましたが、何処にもそれらしき記録は残ってませんね。機体の表記『B.B.L.』ですか。あれ以外は全く手掛かりとなるものは有りません。機体内部のコンピュータもチェックしましたがデータが全て吹き飛んでいて。恐らく事故か何かそれが原因で墜落して来たのでしょう。」
「...『B.B.L.』、バベル...神に呪われし塔か...」
 全員の報告を聞いて冬月はまた溜息を付き呟く。尤もミサトも心境としては同じだ。結局大した事は判らないのだから。先程よりも重苦しい空気の中、リツコが続けた。
「もう一つ。これは司令が帰国してから判断した方が良いと思うのですが...」
「...何かね?」
 もう冬月は何が出ようと諦めの心境に近いようだ。煮るなり焼くなり好きにしろ。俎板の上の鯉。しかし其処に居た全員がそう落ち着いても居られなかった。
「見た目の年齢が十五、六歳だったので、気になって調べてみたんです。驚きました。彼等全員、シンクロ反応を示しました。“適格者”です。シンジ君と同じ。」
「な、」
「何ですって!?」
 冬月の方は最早声にさえならなかった。辛うじて叫んだのはミサトの方である。
 リツコの言うシンクロ反応とは所謂エントリープラグの簡易版を使い、その人物の適性を調べるのである。リツコがコツコツと仕事の合間に作った物である。しかし通常のチルドレンを探すのにこんな物を必要とはしない。何せ全ては決められていたのだ。親を無くした子供達。それが全てだ。しかし、例外があった。レイやカヲルである。かなり特殊な例外である。滅多にある物ではない。自分自身とシンクロする者。
 そしてもう一つ、いた。過去400%という脅威のシンクロ率を叩き出しEVAに取りこまれたチルドレン。そう、
『碇シンジ』
 本来、シンジは仕組まれた子供達と同じ扱いである。が、どうしても納得がいかなかった。何故シンジだけがあそこまでのシンクロ率を出し得たのか?初号機が特殊だったのか?それもある。が、実はそれ以外にもあったのだ。残されたデータから判明したそれが“シンクロ反応”である。シンジには元からその存在がEVAに近かった。別にシンジが使徒であると言う訳では無い。ただ、セカンドインパクトの影響を受けた成長期前の胎児、若しくは幼児がその影響を受け、その原因たるアダムの影響を色濃く受けたのではないかとする説。つまり本当の意味で本来使われるべき“適格者”である。尤もこの説はEVAの建造初期段階から打ち捨てられていた。居なかったのである。否、見付けられなかったと言った方が良いだろう。そして皮肉にも最もEVAの近くに居たシンジが“仕組まれた子供”でありながら“適格者”であったのだ。リツコが呟いた“シンジと同じ”とはそう言う事である。しかしこの確率は極端に少ない。何せ確認されているのはシンジのみである。これは勿論チルドレン達も知らない。知っているのはここに居るメンバーと碇総司令位である。
「どう言う事?なんで彼等が?」
 ミサトには判らない。何故突然現れた少年少女が滅多に発見されない“適格者”たり得るのか?
「判らないわよ。只、想像の域は出ないけど?」
「聞かせてくれ給え。」
 冬月が呟く。この人も悩みの種が尽きない。つくづく苦労人かもしれない。ミサトが頭の隅で少々失礼な事を考えていた。
「はい。あの衛星は、少なくとも伊吹一尉の報告に有った様に、少なくとも二,三十年は放置されています。しかも衛星軌道上で。セカンドインパクトの最中、あの衛星は何処に居たのでしょう。」
「成る程。もしあの瞬間、彼等が南極の真上に居たとすれば、」
「ええ。例え身体が成長期を越えていたとしても、冷凍保存されていようとも、何らかの影響は受けた筈です。」
「じゃあ、間違い無く彼等は...」
「そう。チルドレンにもなれるし、EVAも操縦できるわ。」
 話がややこしくなった。これでは本当にゲンドウが帰国するまで対処のしようが無い。黙す一同に更に波紋を投げかけたのは他ならぬ、今まで溜息を連発していた副司令である。
「やれやれ。全く、碇が居ない時ばかり厄介事が私の所に舞い込む。まあ今回は致し方有るまい。リツコ君、彼等が目を覚ましたら再検査と事情聴取を頼む。葛城君も付き合ってやってくれ。それと後日ここへ連れてき給え。彼等にその気があれば登録しよう。」
「ふ、副司令!?それは幾ら何でも急じゃあ...」
「何、碇が居ても同じ事を言う。言っただろう?碇の言う事は見当が付くと。結果は大して変わらんよ。」
「あ、そ、それじゃあ。」
「ま、そう言う事だ。」
 この人も案外策士である。少し認識を改めるミサトだった。
「リツコ君も大変だな?あの男の面倒は。」
「あ、いえ、まぁ、その...」
 隣で赤くなるリツコ。何よう、可愛いじゃない♪このこのっ。
「な、何よっ!ミサトッ!?ちょ、やめてっ!!」
 肘で突付いてからかうミサトはやはり子供である。そんないじめっ子には昔から天罰が下る物である。案の定。
「あぁ、葛城君に任せよう。」
「はいっ!!了解ましたっ!!...って、な、何がです?」
 冬月の不意打ちに思わず返事をしてしまうミサト。まだ、気付かない。
「彼等の保護だよ。どちらにせよ、彼等の面倒はNevrが見ざるを得まい。何、ちゃんと養育費や扶養手当も付けるよ。」
「ふぇ?...あの...四人共、ですか?」
「四人共だ。」
 やっぱり策士だ。

「...い、い~や~っ!!」

 ジオフロントに戦術作戦部長、兼子持ち五人の悲鳴が響き渡った。

「無様ね。」










弐拾壱.






 レイとアスカは涙ながらに話すミサトとその後ろで苦笑するリツコから事情を聞き付け、許可を貰いこの隔離病棟を訪れていた。アスカは回収の様子は見ていたが、カプセルから彼等の顔は見えなかった為、見に行こうと言い出した為である。
 ミサトの涙声でよく事情が判らなかったが、アスカの通訳によると何でも回収したあの衛星から発見された四人の少年少女がミサトの保護下に入り、本人達の希望如何に寄っては同じチルドレンとして登録されると言う事らしい。
 レイは単純にそう言う事情であれば友達になって置きたいと思い、またチルドレンになるかはよく考える様に忠告しておく必要も有ると思った。ただ、自分の様に自ら危険な場所に身を置く必要は無い。人類を守るという危険な仕事は自分達だけでいい。皆には幸せに一生を過ごして欲しい。それがレイの偽らざる気持ちである。
 尤も、隣を歩く親友の言い分は少し違う。彼女に言わせれば、
「ここがどういう所か忠告するのは同じだけどね。まぁ、強要はしないわ。どうするかは本人が決めれば良いんだし。ただ、その時心配なのはあれよね。ジャージ馬鹿や超絶方向音痴みたいな変人だったら困るって事よねぇ。」
 と言う事らしい。トウジの様なと言うのはちょっと判らないが、カヲルの様な人だった場合は確かに同意見である。カヲルはすっかり家に居付いている。まぁ自分が誘ったのだから文句は無いが、相変わらずその奇行は目に付く。
「ねぇ、ここじゃない?」
 前方の病室の前で部屋を指差すアスカ。表札を見ると名前は書いていない。まぁ、そうだろう。基本的にここはNerv管轄下に置かれ、全てに守秘義務が徹底されている。トウジの妹等は一般の特別病棟なのでこれらには該当しない。表札があるのは形だけであろう。ただ、確かにリツコに言われた病室の様だ。ふと、気になって周りを見渡す。変わりは無い。閑散とした病院の廊下である。が、
「結構居るわね?やっぱり大事な御客様って事みたい。」
 アスカも気付いた様だ。かなりの数の警備が付いている。10、否。20人程か。保安部では無く諜報部であろう。でなければ身を隠して警護する者達はNervには居ない。普通に警護するならば保安部で事足りる。しかし諜報部が就いて居ると言う事は、其れなりに重要な扱いを受け尚且つ警護の対象が危険で有ると言う事だろう。
「ま、気にしてもしょうがないわ。許可は貰ってるんだし、入りましょ。」
「ええ。」
 一枚、隔てられていた扉が開く。そこには自分達がよく見、そして居た場所と同じ。無味乾燥の白い空間。

 そして見知らぬ少女が居た。

 ベットに眠る少女は綺麗だった。レイにはそうとしか言いようがない。
 金色に輝くショートヘア。顔立ちは欧州人のそれが色濃く、まるでフランス人形の様に整っている。肌も白く、白人独特と取れるが、どちらかと言うとアスカの健康的白さよりレイのアルビノ的白さに近い。翔けられたシーツのシルエットを見る限りはかなり華奢な体をしている。レイと同じ位だろうか。身長はレイよりも僅かに高い様だ。歳は多分自分達と同じ位、十五、六歳といった所か。全体的な雰囲気が大人びている為、レイは年上だろうと推察する。
 少女は静かな寝息を立て、入ってきた時と変わらずそこに横たわっている。
「...綺麗ね。」
 アスカが呟いた。きっと無意識の内だろう。気持ちは判る。確かに綺麗な少女なのだが、何か纏っている雰囲気が違う。不思議な感覚。まるで穢れ無き清涼の様で。レイにもアスカが言いたい事は判るのだが、少女がこういう事を躊躇無く口にする事も珍しい。だから思わずからかいたくなった。
「...アスカよりも?」
 思った通りアスカは一瞬ぽけっとした後、頬を赤くして、
「...レ~イ~ッ...」
 アスカ。流し目は恐い。失敗した。アスカは怒ると恐い。何が恐いって、あのくすぐり攻撃は恐い。此間など腹筋が攣ってあわや病院行きかと覚悟した程だ。アスカは自分がそれを恐がっている事を知っている。そして案の定...あぁ、止めて、アスカ。そのわきわきは止めて。もうくすぐったくなってくるわ。
「覚悟は出来てるわね~?レ~イ~?ここは病院だから問題無いわ~。」
 何が問題無いの?あぁ、駄目。意識が遠退くわ。ふぅ。だ、駄目駄目。今イッてはそれこそ取り返しが付かないわ。逃走ルートを確保しなければ。あぁ。でも駄目。そのわきわきは駄目よアスカ。見て、鳥肌が立ってる。
「さぁ~。さぁ。さあっ!」
 駄目、碇君が呼んでる。
「...誰?」
 あっちの世界へイキかけたレイを、不意に掛かった声が呼び止めた。アスカの物ではない。
「...誰?」
 固まっていた二人を不審に思ったのか、もう一度問われた。透き通る柔らかい声。そして自分達の格好に気付く。誰がどう見てもアスカがレイを押し倒している様にしか見えない。い、何時の間に。二人は慌てて立ち上がりベットの少女に近付いた。
「こ、これは違うのよっレイがアタシをからかうからアタシがレイをくすぐり攻撃しようとしてそれでレイが嫌がるからアタシがそれを追い詰めて」
「...アスカ、違う。」
「それで思わず押し倒しちゃって...ふぇ?」
 流石姉妹。血は繋がっていなくとも、しっかりとボケは受け継いでいる。まぁそれは置いといて、レイは目の前で不思議そうな顔をしている少女に向き直った。
「私は碇レイ。」
「あ、アタシは惣流・アスカ・ラングレー。アスカで良いわ。」
 名乗る二人に、少女は戸惑いがちの顔で答えた。
「...私は、ジャンヌ・D・メリフォード。」
 消え入りそうな声で答えベットの上に腰掛ける少女。アスカが経緯を話し始めた。
「アンタ達、変な衛星に冷凍睡眠のカプセルに入れられてたのよ?何だか制御コンピュータの故障で落ちて来たんだけど、アタシ達が助けてあげたの。で、ここは国連組織のNerv。大丈夫、誰もアンタの事捕って食やしないって。」
 少女は再び不思議そうな顔で一言問うた。
「...ねるふ?」
「ええ。国連組織の特務機関Nerv。それで貴方達の面倒はNervが見てくれるわ。私達は仲間よ。」
「仲間...」
 俯き、暫し考え込む少女。アスカとレイは暫し見詰め合い、再び少女に向き直る。
「そうよ。仲良くやりましょ?」
「ようこそ。Nervへ。」
「...う、うん。」
 不安気な所は消えない物の、幾分落ちついた声が少女から返ってくる。アスカとレイはその返事に満足し微笑んだ。
「あ、そうだ。リツコとミサト呼ばなきゃ。」
「そうね。他の人達も見てくる。」
 慌しく動き始めた二人を、見つめる少女。そしてポツリと呟いた。

「ねぇ?私、誰?」

「「...え?」」

 意図せず二人の声が重なった。顔を見合わせた二人は逆に呆気に取られ、少女に向き直った。
「あ、アンタ、さっき自分で名乗ったじゃない?」
 少女は俯き、シーツを軽く掴んだ。

「...名前しか、覚えてないの...」

 静寂。

「...私の記憶、無い...」

 風がもう一度、囁いた。





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First edition:[1999/08/31]

Revised edition:[2000/09/20]