^
 白。朧な白。
 眠り姫は思う。自分が孤独な女だったと。
 眠り姫は思う。自分が孤高を求める道化だったと。
 眠り姫は思う。自分に一時の幸せが訪れたと。
 眠り姫は思う。自分の心が壊れる時が来たと。
 眠り姫は思う。自分を殺そうとする王子様だと。
 眠り姫は思う。自分が王子様に救われたのだと。
 眠り姫は思う。自分は幸せになったのだと。
 眠り姫は思う。自分は本当に幸せになれたのかと。
 眠り姫は思う。自分は何を後悔しているのだろうと。
 眠り姫は思う。自分は何故今でもここに居るのだろうと。
 眠り姫は思う。自分は何故生きているのだろうと。
 眠り姫は思う。自分は何を…
 眠り姫は思う。自分は何故…
 眠り姫は思う。自分は…
 眠り姫は思う。自分は…
 眠り姫は思う。
 眠り姫は思う。
 眠り姫は思う。
 眠り姫は思う。
 眠り姫は思う。
 眠り姫は思う…
 「………シ…ン…ジ………」
 病室で眠る紅の少女は、心の叫びを絞り出す様に小さく呟き、一粒の涙を零した。

 


彼の帰郷






壱.






 暗がりに浮かび上がるのはどれも冴えない顔ばかりだ。その大元は彼等の顔を明滅させつつ照らし出す、目の前の映像に他ならない。もう何度見たか憶えていない。何度見ても変わらない事なのに。事実は覆る訳ではない。
 事実上世界最強の軍隊と謡われたNervの決戦兵器、EVANGELION。その技術情報、戦力スペック、あらゆる情報は全て国連の元Nervが掌握していた―――筈であった。未だ世界で続く各国間の戦争や軍事バランスの調停役、危急的事態に即する為の国連組織。それが自分達の役目であった筈だ。それが物の見事に瓦解した。
 確かに今までNerv以外にも、EVAを建造出来る技術力と資産を持った組織は存在した。SEELEだ。しかし彼等はサードインパクト以降、Nervによってその勢力をこ削ぎ落とされ、そして消滅した。或いは他にも高度な技術を持ち得た科学者・研究所。或いはEVAを建造・運用出来るだけの資産を持ち得る者達が、全く居なかった訳ではない。例えばその最たる候補、アーカム財団。しかし彼等程の高度技術を持ち得たとしても、EVAの建造までには至らなかったのだ。そこにはEVAの技術情報が完全にNervの管轄下にあり、手の下しようが無かった為だ。そしてもう一つ。EVA運用に欠かせない重要な要素(ファクター)。『チルドレン』だ。パイロットがなければEVAは動かない。況してやシンクロシステムと言う特殊なハードルをクリア出来るのは、極々限られた小数の子供達。それさえもNervの保護下にあり、事実上Nerv以外の組織、況してや個人がEVAを用いる事など絶対に不可能な筈、だったのだ。
 だが、それは自分達の思い上がりであったと認めざるを得なくなった。ミサトの目の前で弐号機が金色武者に蹴り飛ばされる。Nervの誇る決戦兵器は、物の数分で役立たずの烙印を押されたのだ。しかも自分達と同じ所属不明の十四機のEVAに。その内のたった一機に。【エホバ・チルドレン】を名乗る謎の集団に。
 ミサトが苦渋に満ちた表情で下唇を噛む。僅かに鉄の味がした。
「青葉君、ドイツ第参支部の状況は?」
 自分でも気付かぬ内に語気が荒くなっていた。勢いに押されたシゲルが慌てて報告する。
「は、はい。第参支部は未だに硬直状態です。第三支援部隊による散発的な攻撃は継続されていますが、当初は占拠側の動向も窺えたものの今では全くの沈黙状態です。川瀬君、映像を。」
 川瀬と呼ばれた女性オペレータの短い返事と共に会議室の映像が切り替わる。画面の右上に[ Live ]の文字。暗闇にライトアップされている小高い丘の上に立つ居城。ドイツ第参支部。だがその状景に最も異質に映る、それ。
「…ATフィールド?…」
 ディスプレイには淡い光を発した半透明のドームが、支部の建造物全体を覆っている。それは確かにミサトが呟いた様に、彼女達が知る物に非常に酷似していた。マヤが答える。
「いえ。検出はされていません。しかし、確かに外観は非常によく似ています。アメリカ第壱支部のティア・フラット司令代行の見解では、おそらく呪術結界であると…それも桁違いの。」
 マヤの答えに続け、戦況報告を行なうのはミサトの部下であるマコトだ。
「支援部隊の使用可能な通常兵器は全て試しましたが無効化されました。今では全くの無反応で、睨み合いが続いています。完全に嘗められてますね…」
「…くそっ垂れがっ…」
 ミサトの口汚い罵りを咎める者も今は居ない。何せここに居る全員がそういう心境なのだ。その中で一番の良識派である冬月が溜息を付きつつ懸案を進める。彼が議事進行を進めなければ何時まで経ってもこの会議室に、陰鬱な空気が充満し続けそうだった。
「これ以上の彼奴等の動きが無いと言うティア嬢の見解は正しい様だな。どうかね、葛城二佐?」
「…はい。確かにこれ以上何をしても動きは見られないでしょう。かと言ってEVAで乗り込みでもすれば流石に動きもあるのでしょうが…」
 苦渋で答えるミサトに、冬月も軽く首を振って答える。
「それは論外だな。今の戦力では大金を溝川に棄てるような物だ…確かに第参支部を占拠したのが彼奴等だと明確に証明された訳では無いが…まぁ、間違いはあるまい。となればここの防備も一時解除だな。これ以上子供達を拘束しても無駄に体力を消耗させるだけだ。」
「はい。では、本部の第二種警戒体勢を解除、チルドレンの戦闘待機も解除させます。」
 正確で的を得る冬月の指示はミサトとって異存は無い。が、沸き上がる衝動についついその顔を歪ませつつも、何とか冷静さを保ち続けるミサト。
「うむ。いいな?碇。」
「あぁ。セカンドチルドレンの容態はどうだ?」
 冬月の呼び掛けに漸く黙していた男がその口を開いた。状況は明らかに逼迫している。彼にも最早過去の様に余裕は無いだろう。ゲンドウの呼び掛けに答えたのは目的の担当者であり、彼の妻であり、今現在世界最高の技術者の一人。
「一日経った今も昏睡状態が続いています。意識は依然戻りませんが命に別状はありません。但し、胸骨の骨折と、罅。左肩の罅と、額の裂傷。外傷は少ないですが骨折と罅が完治するのに最低でも一ヶ月は安静が必要です。」
 報告は既にミサトも受けていた。何せ会議が始まるまで彼女の側を片時も離れず観ていたのだ。家族、否。既に自分にとって、娘と言い替えても惜しくは無い程の存在を、嘲笑う様に蹂躙された。その事がミサトに焦燥と後悔と憎悪を膨らませる。だがしかし、今の彼女に出来る事は余りにも少なかった。
 そんな様子を知ってか知らずか、この組織のトップ二人は呟きで確認し合う。
「…ギリギリか…間に合うか?」
「…間に合わせるまでだ…」
 モニタの向こう側を見据える様に呟いたゲンドウは席を立ち、会議室に集う全員を見据え、暫しの沈黙の後重々しく口を開いた。その赤いサングラスの奥の瞳は、確かに固い意志が漲っていた。
「葛城二佐。」
「はい。」
「セカンドを除くチルドレン、及び予備役の強化訓練スケジュールを組め。期間は一ヶ月。主に体術訓練を重視するように。」
「は、はい…?」
 唐突なゲンドウの指示にミサトは有無を言う暇も無く了承してしまう。
「伊吹一尉、弐号機の修復作業は?」
「あ、は、はい。それ程大きな損害はありません。一週間後には完了します。」
「宜しい。では、碇博士と共に3号ケイジを解封しろ。」
「はい…しかし、3号ケイジには何も…」
 言い掛けたマヤの質疑はそのままゲンドウの宣告によって掻き消された。
「これはNerv本部内に限る非公式発表だ。現在アメリカ第壱支部で、次世代型EVANGELIONの建造に取りかかっている。一ヶ月後にロールアウトされ本部に納入される予定だ。現チルドレン予備役に当てる為の四機、全てだ。」
 呆然とする一同の中ミサトだけは逸早く復帰した。それはつまり、そういう事だ。新しいEVA、しかも四機同時に。これ程心強い事は無い。現行本部で稼動可能な機体は零、弐、参、伍号機の四機。つまり倍の戦力が得られる事になる。最もそこにはチルドレンの能力、資質も問われるであろうが。聞きたい事が山の様に沸き上がりミサトが口を開こうとした途端、それは逸早くゲンドウの指示に遮られた。
「葛城二佐。新造機の納期に合わせ作戦シュミュレートを組んでくれ。現時刻を持って予備役を正式にナンバーズ・チルドレンに登録任命する。彼等の戦術特性把握と対応、戦力配分は君に一任する。存分にやりたまえ。」
「りょ、了解ですっ!!」
 続け様ゲンドウは己の妻へと視線を向ける。リツコは些か呆れつつも夫を見据えていた。彼の思惑は見抜かれていたらしい。この手の士気向上、人心掌握には人一倍長けている男である。些か態とらしくも見えたのは妻故だろうか。
「博士、技術部の受け入れ体制は任せる。忙しいだろうが伊吹一尉と協力配分してくれ。セカンドチルドレンは訓練から外して療養に専念させろ。予備役のナンバリングも任せる。」
「了解しました。」
 ゲンドウは今一度全体を見回し士気の上がり具合を見やる。うむ、まずまずか。
「国連を通じ外部への正式発表は一ヶ月後を予定。新型機の正式呼称は『G-型(Type)EVANGELION』、以後発表までの期間コードネーム『G』と呼称する事。詳細は追って各部署に通達する。以上、何か質問は?」
 ぐるりと見回せば先までと打って変わった職員達の漲る意志。勿論ゲンドウもこれが一時凌ぎである事は理解している。この程度の事で勝てる相手では無いと、脳の何処かが囁いていた。如何なゲンドウとて現状これ以上の士気向上は望めない。況してや勝利の確信などは…
 そんな思いは微塵も見せずに、ゲンドウはくいとサングラスを中指で持ち上げ、会議の終了を宣した。
「以上だ。時間は無い。各員作業に戻れ。」
 この危機を乗りきる手駒…
 不意に。
 自ら捨てた筈の、行方の知れない息子に頼ろうとする、不甲斐ない自分を恥じた。










弐.






 交される言葉は日本語。アナウンスの言葉も日本語が基本。それはそうだろう。当たり前の事を思う。
 しかし男にとってこれ程感慨深く、この地に足を着けた事が在っただろうか?少なくとも前回の離郷よりは遥かに短い期間だ。それでもこれ程郷愁を感じた憶えは無い。俺も少しは成長出来たって事かな?内心呟き、そして苦笑する。やはり自分は歳を取ったらしい。少なくともあの青年の言う通り、そろそろ裏家業は潮時だろう。だが、そんな今まで追い求めていた物も然してこの思いの妨げにはならない。否。自分はもう追い求める物など在りはしない。その代わり掛け替えの無いものを手に入れた。いや、まだ…だな?そう。それを手に入れる為に、受け入れる為に、自らの手にする為に。自分はここに帰って来たのだから。
 徐に草臥れたジャケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、外見は至って何時もと変わらず飄々と紫煙を燻らす。白い煙を晴れ渡った暑い日差しに吐き出し捻た笑みで、しかし心底嬉しそうに男は呟いた。
「…やっと…か…」
 よくよく考えればあの時残した彼女への約束は、もう『八年前』では無く『十年前』になっていた。どんな修羅場を潜ろうと所詮男って生き物は、こんな純な思いの前には弱腰になってしまう。そんな自分が何処か可笑しくもあるのだ。それでも。この真摯な思いだけは、あの厄災を乗り越えた今も自分の胸に残り続けている。それだけは、確かだった。
 男は煙草を咥えたまま、内ポケットから携帯電話を取り出し、頭の中の電話帳からあっという間に検索を済ませ、手馴れた手付きでダイヤルを押して行く。一々携帯の電話帳に登録等して、それが万一の事態に漏れる様なドジは踏まない。発信・着信ログも残さない。何時の間にか身に付いた裏の人間としての能力。しかしまぁ、この程度の技術は残しておかねば拙い。これからの仕事も一般市民からすれば裏家業には違いないが、それでも浅瀬での仕事が主だ。深海にまで足を踏み入れて溺れずには済む。
 暫しの沈黙の後、直通の秘守回線の向こう側から応え。
「どもっ。御無沙汰してます。」
 男の屈託無い明るい声とは一変して、重苦しい威圧感のある声が返って来る。それでも以前に比べれば幾分マシになったのだろうが。
『…君か。今何処に居る。』
「小松ですよ。遅くなりましたが、漸く。」
『…全くだな。しかし何故第二に居る?状況は知ってるのだろう。早く戻れ。何時までも君にタダ飯を食わせる程、家は暇では無い。』
 男にしては饒舌だ。余程切羽詰ってるって所だろう。
「まあそうせっ突かんで下さい。こっちにも色々と準備がありまして。状況は勿論知ってます。だからこうして故国に戻って来たんじゃ無いですか。」
『だったら文句を言わずにさっさと戻って来る事だ。葛城君も喜ぶ。』
 意外な人物から意外な弱みを突っ込まれて思わずたじろぐ。思わずあの厭味な笑みを浮かべている男を想像してしまった。とは言えこちらも口八丁手八丁で修羅場を乗り越えて来た、昨日引退を宣言したばかりの略現役だ。WildCatの最後の晴舞台。精々どデカイ花火を打ち上げてやるさ…楽しみにしてて下さい、碇司令…
「その前に、今日中にやって置きたい事もあるんですよ。明日そちらに入ります。」
『……分かった。報告を楽しみにしておく。』
「了ぉ解。」
 最後まで飄々とした態度を緩める事無く、短い電話を終わらせた加持リョウジは、吸い終わった煙草を踏み付け、最後まで笑みを張り付けたままその場を去った。それは案外、心からの笑みだったのかもしれない。喜びと言う名の。
「んじゃま、行きますか。」





 喫茶店の割りと古風な造りの扉がカラカラと鈴の音を起てて開く。
 壮年の男がきっちりとスーツを着込んで店内に入り、徐にぐるりと見回す。日本人にしては大柄で筋肉質の三十代前半位の歳だろうか。そんな身形でレイバンのサングラスなど掛けているものだから、下手すればヤの付く商売に見られるかもしれない。
 男はコーヒーを啜る同年代であろう草臥れた風貌の男を見付けると、そこだけに焦点を定め真っ直ぐ向かって行く。断わりを入れる事無く、向かいのテーブル席にどかりと座り込み、男は不機嫌に呟いた。
「ったく。何で態々俺が貴様なんぞに呼出されて、こんな所まで遠出せんとイカンのだ?」
「そう言うなよ。ちょっと急ぎの用があってな。今日はこっちで無いと都合が悪かったのさ。」
「俺にだって都合ってモンがある。第一、貴様の為に貴重な休みを潰したのが気に食わん。」
 相変わらずの豪快っぷりに、思わず苦笑する不精髭の草臥れ男。
「そりゃあ悪かったな。にしてもお前は、久し振りに顔を見る友人との再会を、感動的に迎えようとは思わんのか?」
「十年前に貸した学食代千円返さねぇ限りはな。」
 別に冗談でもなんでも無い。男達にとっては紛う事無き事実だった。不精髭はぼりぼりと頭を掻き、後々の禍根を恐れてか、素直に財布から千円札を取り出し男に返した。知らない所で年下の青年に莫大な借金を課せられているとは、思いも寄らない苦労人である。案外今の身形は役作りでも何でも無いのかもしれない。その事をビール魔人が知った日には、“十年前”の約束など断られそうである。
 男は千円札を受け取ると、そそくさと自分の財布に入れ直し、サングラスを外して満面の笑みで喜んだ。
「いっや~っ!ひっさし振りだな加持ぃっ!よく生きてたもんだな、おいっ?」
「………お前友達無くすぞ?」
「はっはっはっはっ!細かい事気にすんなって。」
「……十年前の千円の方がよっぽど細かいと思うけどな……」
 加持のささやかな抗議は、豪快な笑い声に掻き消され聞き届けられる事は無かった。
 近寄り難い空気の中に何とか潜入を試みたウエイトレスは、大柄の男から注文を取り付けると逃げる様にその場を後にした。暫しの沈黙の後、加持が一転して静かに口を開く。
「…で、話しておいた件なんだが…」
「おぅ、構わねぇぜ。こっちは何時でも動ける。」
「そうか。助かる。」
 ほっと安心した笑顔を浮かべる加持を、珍しそうに値踏みする男はにやっと口を歪める。
「なぁる程ねぇ…あの無鉄砲の御手本だったお前さんが、そこまで変わるって事は…これだなっ?」
 そう言って小指を立ててニタ付く大男。一方で男の茶化しも気にする事無く、加持は平然と言い切った。
「ま、そんなモンだ。」
「……ちっ。面白くもねぇ。厭味のつもりか?」
「厭味ついでだが、相手はミサトだ。」
 今度は男が唖然とする番だった。何故なら男はその名前を知っていたから。この街で過ごした仲間だったから。
「ミ、ミサトちゃんだとぉ?お前等別れたっつってたじゃねぇかっ!?」
「一昨年縁りを戻してね。アレで暫く離れてたんだが…ま、迎えに来たんだよ。」
「ちっ!!惚気やがって。一人モンには最大の厭味だよ…ったく……」
 憤慨して見せる男は、しかし目を閉じて暫し回想に身を浸らせ数秒でこちらへ戻って来ると、不意に優しげな笑みを漏らした。
「………大事にしろ……ミサトちゃんをもう泣かすな………」
「……あぁ。」
 暫し男二人が回想に身を任せていると、ウエイトレスが大男の前にアイスレモンティー(380円)とレシートを置きそそくさとその場を立ち去った。加持が何かの間違いかと片目で眺めていると、男は特に気にせずに律儀にミルクとシュガーシロップをたっぷりと入れ、ストローで掻き混ぜちゅうちゅうと飲み出した。しかもまだ回想中で何やら頷いていたりする。離れたテーブルでひそひそと囁き合う女子高生達の視線が余りにも痛くて、加持はもう暫く目を瞑って現実の直視から逃避した。コイツの趣味は今一分からん…もう暫く逃避していたかったが、男の質問に戻らざろう得なくなっていた。
「で?俺等は何時動けばいい?」
「明日には俺も戻る。正式書類は直ぐに回させるから三日後には。」
「もう一つ。」
「?」
「お前の事だ。細々した事は全部任せとく。」
「何だよ?もったいぶるじゃ無いか。」
 苦笑する加持に、男の鋭い視線が重なった。獣の目だった。
「…碇シンジ。どう仕上がった?…」
「………」
 加持の脳裏を過ぎるのは、視界で追えない程のスピードで切り落とした敵の首。
 ナイフの切先だけが長く長く伸びた………白い閃光。
 武者震いが加持を襲った。
「…強いよ。少なくとも、お前なんぞぶっち切りだ。」
 大男は暫し唖然とストローを咥え、一気にアイスティーを飲み干すと、にやりと笑って呟いた。
「…面白ぇ…楽しみが一つ増えた。」
 大柄な熊のような男は、そのぎらつく瞳を心底嬉しそうに輝かせている。コイツも根っからの軍人だよ、ホント。
「そりゃあ良かった。宜しく頼む、後藤。」
 加持は立ち上がり右手を差し出す。後藤と呼ばれた男がのそりと立ち上がる。
 後藤ケンジ。三十一歳。戦略自衛隊陸軍本部少佐。それが熊男の名前と肩書きだった。
「任せろ。」





 後藤ケンジとの会合を終えた加持は、第二東京市からレンタルしたランドクルーザーで、和歌山県へと直走っていた。
 時刻は既に午後十一時を回っている。日は落ち、おまけに道路脇には延々と並ぶ雑木林。一組のヘッドライトだけが曲がりくねった山道を駆け抜けて行く。
 延々と続くかと思われた暗闇の山道も、やがて唐突に林道を抜けた。加持は車から降り、十三年振りにこの地へ帰って来た。
 目の前には暗闇に聳える、黒き門と黒き寺院。
 【高野山真言宗 総本山金剛峯寺】
 今世紀に入ってからという物、今や年に数人の祈願者しか訪れなくなった。全てはセカンドインパクトを期に。そして神の存在を根底から覆したサードインパクトによって、宗教の存在が完全に人の心から離れつつあるのだ。しかしそれでも今尚こうして在り続けるのは、寧ろ日本文化の遺産としての役割の方が大きいかもしれない。
 真言宗の中心宗派。弘法大師の奥の院御廟(ごびょう)を信仰の源泉とし、壇上伽藍(だんじょうがらん)を修学の地として、真言宗の教えと伝統を今日に伝える大元締めが、ここ金剛峯寺(こんごうぶじ)であった。
 加持は門横の勝手口が締められているのを確認するまでも無く、塀に横付けしたランクルの屋根に飛び乗ると、そのまま塀を飛び越え、境内へ入り込む。
 宗教が一般社会から廃れつつあるとは言え、その内部までそうかと言えば答えは否だ。十九世紀後半は見世物小屋と化していた寺院・仏閣だったが、セカンドインパクトを境に『余所者』が寄り付かなくなった御陰で、寧ろ修行僧達は己の霊力を高める修行に打ち込んで行った。故に彼等は既に下界とは隔絶した生活を送っており、その内情は江戸時代とも平安時代にまで復権しているとも言われている。
 そして今忍び込んでいる加持のような輩でなくとも、《余所者》は徹底的に排除される。当然女人の入住禁制も復活している。彼等僧達がそこまで修行に拘る事と、神の存在を否定された今も綿々と紡がれているのには、前述以外にもそれなりの理由がある。実際は…その理由の方が大きかったのかもしれない。
 本殿をぐるりと迂回し裏手に回る。気配を殺し物音を立てる事無く足を運ぶ。やがて見えて来たのは一介の僧には立ち入りを禁じられている、この寺の霊的中心地点である『奥の院』。そこには平安時代の初めに中国から日本に密教を伝え広めた、真言宗の祖。弘法大師こと空海が《居る》とされる場所。承和二年(八三五年)三月二一日にこの高野山の奥の院に入定した。つまり、即身仏となり、今もこの地に御霊を留めていると言われている。
 加持はなんら躊躇する事無くその奥の院へ足を踏み入れる。最早貴重品どころか骨董品の粋に達しそうな、純正和紙の襖。良く手入れされているのか、僅かな掠れる音だけを出して、襖は開かれそして閉じた。
 僅かに洩れる光の源は正面の蝋燭立てが二本のみ。その光に照らし出された仏壇の中心に大きい像、大日如来。
 そしてもう一つ。静かに座禅し佇む僧侶が一人。
 暫し加持は無言のまま感慨深くその背を眺め、ゆっくりと僧に近付き彼の右手後方に静かに腰を下し胡座を着いた。
 静謐。何も無い。あるのは蝋燭の炎の揺らめきと、二人の男の息遣いだけ。やがてそれも加持の一言で破られた。
「…久し振り。」
「今更何を。」
 低い平坦な声。年老いた僧は、決してその辺の修行僧とは同格では無い。何せ彼はこの金剛峰寺どころか今や真言宗全てを与り修める長、大僧正なのだから。加持の感慨深げな声等、微塵も彼の心を揺さぶる代物では無い。だからだろう。昔と変わらぬ抑揚の無い平坦な返事だった。
「一応報告に来たんだ。」
 そう。自分は報告に来た。思い出す、あの地獄絵図。父も母も妹も、全てを失ったあの日。そして自分はのうのうと修学旅行なんぞで生き延びてしまった。十分過ぎる混乱と騒乱の中、京都でこの男に拾われここで育った。だから大僧正は、自分にとって父同然だった。
「…首都の事ならば聞き及んでおる。貴様の依頼なぞ受けんでも、必要とあらば政府から勅命も下る。」
「その話しはヨウキチが来てからだ。その報告じゃなくて…」
 言い淀んだ加持に、始めて不審に瞼を開けた高僧。待ち構えていた様に加持が口を開いた。
「裏家業から足を洗う事にした。嫁さん貰おうと思ってる。」
 暫しの沈黙。しかし高僧は特に驚いた様子も見せず、静かに瞳を閉じた。
「…また随分と血を吸った様だな。そんな貴様が他人を幸せに出来ると思うか。」
 辛辣な言葉の裏には、しかし何処か優しさが在ったのかもしれない。加持はそう思う。
「分かってるさ。足を洗うと言っても所詮はNervの情報部でね。まだまだ一般人には程遠い。何より自分の汚れさ加減は重々承知してる。それでも、結婚したいと思う女が居るんだ。俺なんかの為に泣いてくれる女が居るんだよ。それを無視出来る程、俺は餓鬼じゃ無い。」
 妙に落ち付いている自分を不思議に思った。自分には似合わぬ恥ずかしい言葉が、何故かこの男の前では出て来てしまう。高僧は一向に気にした様子も無く続ける。
「そんな事の為にここまで来たと言うのか?馬鹿馬鹿しい。第一、貴様が勝手に飛び出したのだ。今更私が言う事など在るものか。」
「キツイ御言葉。ま、そうなんだけどな。」
 苦笑しながら何時もの調子に戻り飄々と流す加持。やはり自分にはこういうのは似合わなかったか。
「一応、世話になった父親変わりですから。御挨拶くらいはしとかないとな?」
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべ高僧を見やる加持。高僧は微動だにせず、口だけを僅かに動かした。
「では、これは一応世話をした息子変わりへの手向けだ。『オン・アビラウンケン・バザラ・ダトバン』」
 高僧は矢庭に真言を唱え始めたかと思うと空中に手印を切り、ぱんと大きな音を響かせ目の前で両手を重ね合わせると静かに最後の韻を結んだ。
「汝と汝の愛しき者達に幸多からん事を…」
 加持は一瞬呆けていたが、高僧―――大僧正晃信(こうしん)こと氷室コウヘイは、加持の記憶より幾分皺の増えたまだまだ精気溢れる顔を、にたりと歪めたのを見留め心の中だけで呟くのだ。案外俗世に塗れた男で、おまけに親馬鹿かもしれないと。尤も己の実力と霊力と実績だけでここまで上り詰めた大僧正と言う彼の立場上、加持は親の権威を守る為にも口を割る事は無かった。
 案外それは正解だったようで、脱力した加持と略同時に一人の僧侶が奥の院へ入って来ていた。全く加持の張っていた気配のアンテナに捕らえられる事も無く。それだけで加持には相手が誰なのか見当が付いた。これだけの実力を持った僧侶は恐らくこの寺院で一人しか居るまい。
「久しいな、脱走兵。のこのこ戻って来るとは大した恥知らずだ。大僧正、御呼付けにより参上致しました。」
「俺は野良猫なんでね。飯の為には捨てた親元でも頼って来るのさ。」
「破廉恥な。」
 年の功は加持と同じのこの男は、剃り上げた禿頭の割にはぱっと見整った顔立ちをしており、大僧正程では無いが比較的豪奢な袈裟を着込んでいた。大分出世したらしい。
「霊丈、座せ。」
「御意。」
 無駄ない動きで袈裟を軽く払い座禅の体勢。僧侶の動きとははっきり言えば無駄が無い。おまけに早い。境内を移動する時など彼等にまともに追い付く事等出来ないだろう。しかも息一つ乱さずに居るのだ。高位の者ならば必要な時にはその気配も消し去る。下手な軍人より余程動きは良い。それも修行の一貫と言えばそうなのだろう。彼等は前世紀の車を平気で使う鈍坊主など目では無い。移動は全て徒歩。時には全国を行脚し数年を掛けて修行に回る。足腰が強いのは彼等の中では常識であった。
 会話は唐突に始まる。霊丈(りょうじょう)こと佐沼ヨウキチは一応加持の方を向いて座っている。目は閉じているが。
「事情は聞いているな?」
「無論。だが、我等が出る必要性は何処にも見当たらん。それは大僧正も同意見だ。必要とあれば政府から勅命が下る。全て貴様等の問題であろう。」
 淀み無い声音は昔から変わらぬ。だが彼がこの世界にここまでのめり込むとは、正直加持には信じ難かった。だがそれも性格故だろう。コイツは真面目で何事にも忠義を尽す。自分同様親変わりとなった晃信に、一生を掛けてもその恩義を返すとでも誓ったのだろう。一方で加持はここを去り、己の足で地に立つ事を望んだ。そしてここを飛び出したのだ。結果は些か情け無いものにはなりはしたが、それも先の父とのやり取りが全てを洗い流してくれた。今は、信じる物に向かって直走るだけだった。
「ところがそうも言ってられなくてね。先日の第三で起きた強襲。奴等が根城として占拠したと思われるドイツで面白い事が起きてる。」
「…ドイツ?」
 食い付いたのは霊丈。晃信は一向に仏壇に向かい座したままだ。加持は続ける。
「あぁ。結界が使われてる。しかも目視出来る程強力で、物理遮蔽可能。ドイツ第参支部を丸ごと取り囲む程にな。」
「………加持…冗談は止せ。現代のあらゆる宗教、宗派、世界において見た所で、そんな桁違いの結界を張れる者等…」
 霊丈の呆れ返った言葉は、晃信の重々しい一言に遮られた
「居る。最近富みに報告されておってな。確かに我々は嘗ての歴史で最盛期の霊力まで行かなくとも、そこそこの霊域に達する者達が増えて来て居ったのは事実だ。所が近年稀に桁違いの霊力をに目覚める者が増えて来た、と言うのだ。まだ正確な確認は取れておらんので何処の組織も気付いては居らんだろう。」
「御待ち下さい大僧正。幾ら強大な霊力を所持する者でも物理遮蔽を齎す程の結界など…」
「だが居るのは事実だ。それは日本のみに囚われず、果ては世界も宗派も超えていると推測されておる。唯一の共通項…リョウジ。お主は気付いて居るのではないのか?」
 霊丈の険が含まれた視線が加持に突き刺さる。無理もない。彼に理解出来ぬ事が、何故自分のような半端者に分かると言うのか、という事だ。しかし加持は分かっていた。何故なら彼は今まで世界の表も裏も見て生きて来たから。
「…セカンドインパクト世代…」
「なんだと?!」
「そうだ。能力が発言するのはセカンドインパクト以降に生まれた者達に限られておる。つまり子供だけなのだよ。」
「成る程な…セカンドインパクトを乗り越えた事で、修行を積む者達の霊力が飛躍的に上がり始めた。そして同じくセカンドインパクトの影響を受けた子供達が目覚め始めている……そして先日のNerv襲撃未遂で敵は十四体のEVAを用いた、つまり全員がチルドレンとなれば…」
「子供達の能力を使って占拠していると言いたいのか?馬鹿なっ。」
 実直な彼には信じ難いこと。大人達が子供を人形の様に扱うその様を。嘗てのNervの様に…だが、そういう事も事実あるのだ。
「有り得ない話じゃない…この事に気付き能力者を掻き集めて洗脳した組織がバックにあるのか…」
 考え込もうとした加持を、晃信の呟きが引き止めた。それは余りに非現実的過ぎた。
「…或いは、子供達の叛乱が始まったのやも知れぬ…」
「親父…?」
「大僧正っ、幾ら何でもそれは…」
 憤る霊丈と唖然とした加持を無視して、晃信は続ける。
「それこそ有り得ぬ話では無い。人の余で歴史を紡いで来たのは何時の世も新しき世代…子供だ。」
「しかし…もしそうだとしたら…」
 再び思考に落ち込もうとする加持を、晃新は再び止めた。寧ろ今は考える時では無いと。
「リョウジ。霊丈を連れて行け。お主の片言の知識では事足らんやもしれん。霊丈、お主は今後我等とは別行動を取れ。我等は我等で日の元の国を守る責務が在る。」
「大僧正っ!?」
「親父…いいのか?」
 静かに、掠れる袈裟の音と共に、晃信が始めて振り返った。二人の息子を見やる。
「行け。刻は…迫って居るのかも知れぬ。だが忘れるな。今度の騒乱…我等大人達には付け入る場所は無いのやも知れぬ…その事だけは胆に命じておけ…よいな。」
「…御意…」
「…あぁ、分かった。ヨウキチ、数日中にNervから正式召集要請を届けさせる。そしたら第三に来い。」
 立ち上がった加持を横目に、些か不機嫌面の霊丈。
「分かっている。だが、貴様に使われるのだけは真っ平御免だ。」
 加持を追う様に立ちあがる霊丈に、不精髭を擦りながら暫し思案し言葉を繋ぐ。
「安心しろ。お前の役回りからして、作戦部顧問って所だ。尤も、俺の下より厄介だと思うがな?」
「ふん。貴様の下より最悪の場所など在るものかっ。」
 苦笑しながら襖に向かう。まさか自分の妻になるかも知れぬ女に、扱き使われる等とは思うまい。いや、俺なんかよりも数段辛いと思うけどなぁ。葛城は…
「…じゃぁ、親父。上手く行ったら招待状でも送るよ。」
「馬鹿者。伴天連の集会になど参加出来るか。」
 一瞬意味を計り兼ねて、成る程とその意図に達する。確かに…結婚式は教会だろうな。葛城の性格からして。くすくすと笑いながら立ち去った加持を尻目に、霊丈が不思議そうに晃信に問うた。
「…何の事です?」
「…気にするな。何れお主は呼ばれるじゃろうて。」
 結局意味を計り兼ねた霊丈は、曖昧に「はぁ」と気の抜けた返事をして奥の院を立ち去る。
 晃信の微笑だけが音も無く炎に照らされ、静かに日が変わって行った。










参.






 半日程遡る。待機任務が解除された。
 と同時に今までチルドレン予備役という配属に在った四人が、今日正式な辞令でナンバーズ・チルドレンに登録され階級が言い渡された。
 シックスチルドレン、ジャンヌ・D・メリフォード准尉。
 セブンスチルドレン、ロバート・シューマッハ准尉。
 エイスチルドレン、役レツ准尉。
 ナインスチルドレン、フランシス・フォーチュン准尉。
 更にこの事態にあってこそであろう。新型後継機EVANNGELIONの早期投入決定。寧ろこの決定が先の予備役昇進に関わっていると言える。
 そして事実上Nervは現行の倍の戦力。計八機のEVAを有する事になるのだ。全てが本部に配属決定に成るか否かはまだ発表されていない。しかし、昨日の敵の出現の唐突さ、また『黒き月』とここを指定して来た以上、最低限本部を責めて来るのは間違い無いだろう。だからこそこれは第三新東京市を守る為の戦力引き上げ措置だ。本部に入れなければ意味が無い。結果、他の国と都市が多少の犠牲に晒されようとも、本部にのみEVAは配属される事に成るのだろう。恐らくはこれが今のNervに出来る最上級の対応措置なのだ。
 だからこそ、これ以上我々は負ける訳には行かない。今目の前に広がる光景を眺めつつも、渚カヲルはそう思うのだ。
 チルドレンの強化訓練。それは自他共に認めるチルドレン最強のアスカが呆気なく破れた事で、必要であると言わざるを得ない事でもある。それは皆分かっていた。言われずともやるつもりの事だったのだ。自分達は余りにアスカとの差が大き過ぎた。戦闘スキルはその最たる部分だ。幼少からチルドレンとしての英才教育を受けて来たアスカは、余りにもその才能に抜きん出る物があった。そして自分達はその差を余りにも大きく開かせていたのだ。何よりも実戦経験の有無。この差は大きかった。とは言え、使徒戦争で得た戦闘スキルは今回余り役には立たないであろう事に、カヲルは既に気が付いていた。何せ相手はEVAである。確かにアスカは実戦を積んだがそれはあくまで使徒相手の人外の戦闘である。そしてその人外の戦闘に大きく貢献したのが戦闘経験皆無の碇シンジと初号機だった。訓練だけとは言え対人戦闘技術を積んでいた筈のアスカは、今回それをまったくと言っていい程生かせていなかった。アスカがもう少し冷静に事を運んで居れば、結果が違っていたのかもしれない。そしてその意見は作戦本部長も同様の意を得ていた。それ故の対人戦闘術の強化訓練なのだ。
 そして今、その事を聞かされたチルドレン達は、明日から始まるトレーニングスケジュールを自主的に早め、このトレーニングルームを借り切って自主訓練に励んでいた。保安部の教官のスケジュールがこの緊急時に取れ無いのは分かり切っていた事なので、今日はペアを組んでチルドレンだけで模擬対戦をしていた。貸し切り申請の時にミサトから決して無理はするなと釘を刺されているが、それは皆重々承知だ。何せ明日からもっとハードになるであろう、本格的訓練が待ち構えているのだから。





 力任せな右ストレートがカヲルを襲ってくる。難無くそれを交わし自分のペアであるトウジの背をトンと押す。勢い余ってトウジが前のめりに吹っ飛んで行った。
 トウジは今完全に苛立っている。冷静な判断など出来はすまい。それでも飽きる事無く突っ込んで来るその体力には感心するが。守れなかったアスカが重傷を負った事ヘの負い目と、自分の攻撃が今だにカヲル自身にヒットし無い事が腹立たしいのは分かるが…もう少し冷静になれないかね?トウジ君…
「くぅおらっ!渚っ!もっと本気で来んかいっ!?」
 溜息一つ。美しく無いね…君はあの赤毛猿と同類だよ…そう、黒毛猿だね…
 なんて呆れていると左ジャブ。右ストレート、回し蹴り。オーバーアクションと余計な体力の使い過ぎで、ぜえぜえ言いながら相対するトウジの攻撃をあっさり交わして行く。この位は見なくとも避けられる。ぎゃあぎゃあ言いながら仕掛けて来るトウジの攻撃を避けつつ、横目で隣の対戦を観戦するカヲル。
 ジャンヌvsフランシス。ジャンヌが圧倒的に困った顔でフランシスと対していた。
「と~~~うっ!」
 フランシスのぱんち。
「はぁ~~~っ!」
 フランシスのきっく。
「いったぁ~ぃっ!」
 フランシスこける。
 まるで話になら無い。所謂御嬢様拳法とでも言おうか。まるで出来損ないの御遊戯である。ジャンヌの困り顔も然りだ。説明の必要も無くフランシスはこの手の事が圧倒的に苦手であった。とろい。覚えが悪い。威力が無い。迫力も無い。覇気も無い。無い無い尽くしの彼女に、戦闘訓練は余りに不釣合いである。寧ろカフェテラスで優雅なドレスを着てティータイムを嗜むような少女であり、文字通り箸より重い物を持てないような彼女である。彼女の未来は前途多難だ。
 一方、そのお相手のジャンヌ。彼女は幾分マシであった。と言うかトウジの動きに比べれば、である。所詮少女。力の差では男のトウジに遠く及ばない。が、体捌きには特筆すべき物があった。何と彼女、剣術が使えるのだ。やった記憶が無いと言っていたが、試しにアスカとゲーム感覚でチャンバラ対戦をした時には、それは大した物であった。何せ一瞬でアスカを打ちのめしたのである。多分体が覚えているのだろう。彼女が過去にどんな経験を積んでいたのか定かでは無いが、明らかに上級…それも世界クラスの剣術使いと言ってだろう。そういう意味では体術訓練に左程の抵抗が無いのかもしれない。カヲルの相手も通用する程だ。惜しむらくはその非力さであろう。
 ついと反対側を見やる。レツvsロバート。こちらは打って変わってハイレベルである。
 レツはその小柄な身体に似合わずパワーを持っている。と言っても同年代に比べればだ。そして彼もジャンヌ同様、記憶には無いが身体が覚えている特技を持ち合わせていた。『日本古武術』だ。一体何処で習得した物か非常に興味在る所だが、記憶が無い以上それも追求出来ない。しかし多く教えられる事は在る。彼の古武術とは日本に伝わる柔道や空手の源流に位置する、実践的で殺傷能力を持つ体術である。今やどれ程の流派がこの国に残っている物か怪しい所だが、しかし彼はそれを体得していた。今居るチルドレンの中では最もアスカに近い位置に居るのが彼であろう。自然、総合的視野で見る事の出来るカヲルは、そう判断していた。惜しいのは彼の直情的な所であろう。先程から苛々しながら攻撃を仕掛けている。
 その理由がお相手のロバート。彼はその大柄の体躯から考えればどう見てもパワー重視で、トウジと同タイプかと思われるのだが実は違う。ミサトに測定結果を聞いた所、確かに彼はかなりの筋力を備えている。が、彼は寧ろ『柔よく剛を制す』タイプなのだ。そして何よりも特筆すべきはそのスピードだろう。体捌きが恐ろしく素早いのだ。大概仕掛ける攻撃は全て避けられる。そして力では押さず、相手の力を利用する攻撃を仕掛けて来る。そして彼もまたレツと同等にやり合える程の技量を持っているという事だ。おまけに冷静沈着。滅多な事で微動だにしないその表情は正に無心。何も考えていないと言う訳では無いらしい。重要な事しか言わない、要するに無口なのだろう。しかし一度対せばそれは恐ろしい威圧感を放ってくる。
 レツとロバートに関してはその外見とは全く反した能力を、御互いで入れ換えたような状態なのだ。本来ならスピード・体捌き重視の筈のレツ。だが彼は古武術とパワーで押して来る。一方でロバートはパワー重視の筈がスピード重視。まるであべこべなのだが、御互いその事には気付いていないらしい。つくづく個性の強い連中である。





「くぉらっ!何処見とんのや!渚っ!」
 懲りずに右ストレート。いい加減気付かないもんかね?呆れ顔のまま右手を絡め捕り、そのまま足払い。大きな音を立ててトウジがマットに沈んだ。
「っくそぅっ!!何でやっ!?」
 寝そべったままいらつき、右拳を床に叩き付ける。
「いい加減気付いたらどうだい?無暗矢鱈に攻撃を繰り出しても、良い様にあしらわれるだけだよ。まぁ、明日からの訓練では重点的にそこを一から修正されるだろうね。その辺はミサトさんや教官達の方が理解している。」
「わぁっとるがな…」
 急に気落ちしたトウジの声。おや、気付いていたんだね…と言う事はどうしていいか困ってたって所かな?
「…なぁ、渚…お前はどないして覚えたんや?」
「そうだね…僕の場合は寧ろ喧嘩で覚えた物だからね。感覚的に戦えてしまうんだよ。」
「はぁっ!?渚が喧嘩っ?!」
 驚き起き上がり、胡座をかいて座るトウジ。苦笑しながら見下ろす。
「ここに来る前はドイツのスラムに紛れ込んでは、ジャンキーの相手をしていたからね。僕には鈴原君の用な力は無いから自然体捌き重視になった。それだけの事さ。」
 とは言え実際はダブリスの頃の話だ。始めは本当に暇潰しにしか過ぎなかった。ATフィールドを使えば苦も無いし、そんな事する必要性も無かったのだが。夜毎スラム街に出てはジャンキー共の相手をして、気付けばストリート系の対人戦術が身に付いていた。ATフィールドを使わずに身体一つで相手を沈める技術の向上に、多少なりとも面白味を感じたのは確かだ。自然力を使う事無く相手を沈める。ロバート同様『柔良く剛を制す』だ。
「はぁ…さよか…しゃあない。明日っからやり直そ…」
「そうするといいよ。力は持ってるんだからね。後は使い方次第さ。」
「おう…」
 流石に動き疲れたのか、トウジはごろんと横になると、とっととマットの上で鼾を掻き始めた。そんな所で寝ると風邪引くと思うんだけどねぇ…相変わらずの豪快さと身体の丈夫さにカヲルも呆れる。





 ふと見まわせば、眠り込む様にうつらうつらとして室内の隅に座り込む、心ここに在らずの少女。だがその理由は親友の重症が原因とは言えそうも無いのを、カヲルは何となく気が付いていた。
 そう。寧ろ遥か遠くを見つめるような、心が完全に身体から遊離してしまっている様な錯覚を覚えさせる。
「…レイ?」
「………」
 気付けば今朝からずっとこの調子なのだ。声を掛けても簡単には戻って来ない。
 一体彼女に何があったのか?

 ………一体…何を見ているんだい?………

 カヲルには解かりかねた。










四.






 見渡すばかりの青い空と蒼い海。
 アーカム純製の高機動長距離ステルス機が、早朝を迎えた高度2万mを悠々自適に飛んでいた。広大な雲の絨毯とその狭間から覗くディープブルーの眺めは、旅人達の心潤おす。尤もこの手の厳つい外観の代物には、通常の旅行者等乗れる筈は無いのだが。只この機体は少々その手の物とは造りが違っていた。アーカムのVIP達のみが使用を許された専用機は、まるで某国往年の『エアフォース・ワン』の様だ。外見は完全な軍用機。勿論対空戦闘も可能な装備を積んでいる。だがそれはあくまで緊急時の為の物で、通常はアーカム役員達の移動手段の一つなのだ。つまりこの機体の中身には、VIP達が寛げる様に様々な設備・装飾が施されておりサービスも充実しているのだ。そこらの国際線とは比べ物になら無い。
 だが。そんな豪奢な旅も、乗る人間がどうしようもなく貧乏性だと逆に萎縮してしまい、碌に寛げやしないのもまた真理だろう。
 実際、今この機体の客室に座り込む、場にそぐわぬ少年は明らかに萎縮していた。
「………はぁ………」
 何度目の溜息だろうか。いいと断わったのに無理矢理ティアの専用機に放り込まれ、たった今大海原の上を飛んでいる少年。はっきり言えば呆れるしか無い。確かに自分の存在が重要なファクターである事は重々承知している。が、それなら今までのように偽名で普通の航空会社を使えば済む事なのだ。
 しかしティアはそれを許さず、存在を偽るどころか空を飛んで海を渡る事実さえ隠そうとしている。そこに何か意味があるかどうかまでは少年には計り兼ねた。
「……なぁんか、嵌められた気分だよなぁ……」
 再度溜息。まぁ、乗ってしまった以上もう取り返しも付かないし、それを後悔しても致し方無い。本物の軍用機に放り込まれ無かっただけでも御の字だろう。硬い椅子で何時間も掛けて海を渡るのは考えただけでも流石に気が滅入る。
 憂鬱を空にポイ投げして、ゆったりとした皮張りのチェアに身を沈め、少年は窓の外の風景とその彼方に在る島国に思い馳せる。この辺の気持ちの切り換えがすんなり行くようになったのは、この一年半の長旅と訓練の御陰だ。
「………長かった、な……」
 少年、碇シンジの旅は間も無くその終着点を迎え様としていた。シンジに去来したのは他でも無い、自身が帰るべき場所の事だ。短い様で長かった逃避行の間も、あの地の事を忘れた事は無かった。それも当然と言えるのかも知れない。少なくとも、自分の帰るべき家は他には無い様に感じるのだ。叔父に世話になっていた時にはそんな感情は沸かなかった。幾ら親類とは言え、やはりあの家は他人の家だった。カムイと居た時は尚更だ。確かに生活を共にはしたが、アレはその日暮らしの放浪に近い。条件が良ければホテルや隠れ家。最悪なのは戦場で明かす一夜。彼は家を持つような人間ではなかったから。それが父に呼出され、有耶無耶の内に始まった他人との生活の中で、何時の間にか家族として暮らす様になっていたあの頃。所詮は他人だと割り切っていた筈の当時。結局は崩壊に至った仮初めの家族。が…今こうして間を置いて見れば、やはりあの時間がとてつもなく大切に思える自分がここに居る。楽しい事も偶にはあった。嫌な事は山程あった。それでも、良くも悪くもあの地で起きた出来事は、シンジの存在を根底から揺さぶる何かが在った。
 何時も不真面目でおちゃらけた性格で、でも一番大事な事は何時でも忘れない女性。自分にとっては母であり、歳の離れた姉であり、そしてきっと自分は恋していたのだろう。彼女は初めて自分を迎え入れてくれた家族。ガサツでずぼらでだらしないけど、でも何処か憎めない暖かさを持った女性。背負った過去に翻弄され復讐を誓った彼女は、家族と部下との狭間で自分達との関係に揺れ悩み、愛する者を失って復讐にのめり込んだ結果、最後に真実を自分に託してその命を落とした。葛城ミサト。彼女は、今どうしているのか?また「おかえり」を言ってくれるだろうか?
 寡黙な少女は何時も無表情で、何をするにもこちらの緊張ばかりが高まって、付き合い難い事この上なかった。にも関わらず、何時の間にか彼女を受け入れていたのは何故だろうか?何時か見た、熱波の吹き荒れた山中に吹き抜ける夜風の中で浴びた月光。少女の小さ過ぎる心の中に、ふと浮かんだ微笑。全てはあそこから始まっていたのだろう。滅多に変わらないその顔に、時折浮かぶ様になった微細なその表情が、読み取れるようになったのは何時の頃からだったか。ただ、彼女が傍に居ると安心する自分が居た。彼女は最後に揺るがない筈のその顔に涙を浮かべ、塵となって消えた。戻って来たのは始めて出会った頃のように、硬質で何も知らない心の少女。そして真実は過酷にシンジを追い詰めた。あの頃は只信じたくは無かった。自分の母の面影の越す少女の真実。それだけで彼女から逃げ出した自分。何故あの時傍に居てあげられなかったのか?悔やんでも悔やみきれ無い思い。少女は何処まで言っても少女の心を持っていたと言う事実に、何故か気付いて、否、信じてあげられなかった。結果として人為らざる彼女が、本当の人として此の世に新たに生を受けられた事は、偶然とは言え喜ぶべき事であった。そしてまた傍に居てやれなかった自分。本当に情け無い限りだ。今度はもっと一緒に居てあげよう。EVAだけが絆だ等とは言わせない。彼女にはもっと普通の生き方を全うさせてやりたい。傲慢かもしれない。それでも。幸少なかった彼女には、それぐらい許されても良いとシンジは思うのだ。綾波レイ。今は自分の妹となった少女に、今度こそは自分が彼女を守り通してみせる、と。
 そして、太陽の様に晴れやかな笑顔浮かべる少女。第一印象は綺麗の一言だった。でもその性格は最悪で。何時も不敵な笑みで自分は罵られ、時には引っ叩かれ、時には蹴られ。作戦で有耶無耶の内に決まった同居で何故かシンジは、色んな意味でお年頃の二人の女のおさんどんをさせられていた。しかし、何時しか垣間見える様になった、ふと見せる少女の優しさ。何だかんだ言って料理を残さずぺろりと食べてくれる。情け無い自分をぐいぐい引っ張って導いてくれたり、時には素直に拙いチェロを誉めてくれたりもした。そこに居たのは紛れも無く自分と等身大の少女。普段は大人ぶって素直に感情を見せはしないが、その心根は心優しき少女。だが彼女の心は何処までも小さく、自分同様まだまだ子供だった。それに気付かず只縋るだけの自分が彼女を追い詰めた。己の事しか考えられ無い卑小な自分。何故あの時少女のくれた優しさを返してあげられなかったのか?何処までも縋った自分と待ってはくれない使徒の攻撃の中、彼女は壊れ、心を閉ざした。自分は確かに子供だったが、それでも自分は只彼女の傍に居てやるべきだった。例え何も出来ない子供でも傍に居てやる事は出来た筈なのに。そして自分は尤も卑劣な方法で彼女を犯し逃げ出した。最後まで自分は少女に縋り付いて居ただけだったのだ。奇跡の復活を遂げたにも関わらず、また自分は彼女を救う事が出来ずに、蹂躙される彼女を遠くから見ていただけ。自分の卑小さに、薄弱さに、嘆き、嘲笑い、そして世界の終幕の引き金を引いてしまった。愚かな自分はそれでも人で在る事を望み、そして再び絶望する。紅い海、紅い虹、降る様に瞬く星々と、清浄な空に浮かぶ巨大な月と、真白く朽ちた少女だった亡骸。傍らに包帯を捲かれぴくりとも動かない紅の少女。自分はこんなモノを望んだ訳では無いと嘆き、そして再び黄泉の闇へと吸い込まれる自分。彼女の首を締め自分もその命を絶とうとした瞬間、彼女の手の平がシンジの全てを塗り変えていた。生きているという事。生きるという事。少女の命が其処に在る。そして彼女の低く弱々しい苛烈な呟き。だがその時シンジにはそんなものを恐れる余裕が無かった。ただ、唯嬉しかった。少女と共に在る自分。浮かぶのは記憶には無い、しかし何時か見た筈の少女の晴れやかで優しき笑顔。唐突に沸き起こる感情。守りたかった。この強情っ張りで口と手が人一倍早い、でも、心弱き小さな少女の優しき笑顔を。惣流・アスカ・ラングレー。今の自分は全て其処から始まっていた。強くなろう。少女を守る為に。例えこの身が血と罪に塗れようとも。少女の笑顔が守れるならば、それだけで自分は生きて行ける。
 そして自分は…強くなったのだろう。確かに力は手に入れた。しかし。その心は本当に強くなれたのだろうか?少女達を、大切な人々を守る為に必要に駆られての帰国とはなったが、今だ不安は拭えない。何よりも聞き逃しはしたが、確かに記憶に止まるあの言葉。
 『気持ち悪い…』
 その一言がシンジをこの地に足を踏み入れる事を躊躇わせ続けていた事は確かだ。
 だが。シンジは思い返す。あの戦いの中で確かに感じた自分の思いを。会いたかった。紅の少女に。蒼の少女に。家族となってくれた姉に。自分と関わった全ての人に。例え嫌われても構わない。彼女の花咲くような笑顔が一目見る事が出来れば十分じゃないか。自分は決めたのだ。何があっても彼女達を守り抜くと。今を逃がせばそれは叶わなくなるだろう。それだけは、決して犯してはならぬ、自らに架した大罪だった。自らの刃で多くの肉を刻み、多くの血を流して来た。今更人を殺す事に躊躇などは無い。自分は既に償っても償い切れぬ罪を背をっていたのだから。もう自分に出来る事といえば、その身に架した責務のみ。全てはたった一つの望みの為に。
「……守って見せる…例え何が起ころうと……これだけは、僕自身が望み、決めた事なんだから……」
 機体が大きく旋廻を開始する。僅かに感じる重力の傾き。
 シンジを乗せたステルス機は大海原を渡り日本列島に到達し、その漆黒の翼を第二東京に在るアーカム日本支社へ向け大きく羽ばたいて行く。
「……帰って…来たんだね……」
 朝焼けの雲間から覗く、懐かしの国土を待ち焦がれた様に感慨深く眺める。窓辺に映ったシンジの瞳が僅かに揺れていた。
 少年の短くも長かった苦悩の旅が漸く終わり、また新たな旅路を告げようとしていた。





『ご苦労様でした、碇様。アーカム日本支社へようこそ。これより垂直着陸に移ります。シートに御座りのまま機体停止まで御待ち下さい。』
 搭乗前に紹介された機長から機内アナウンスで到着が告げられる。
 シンジはてっきり第二東京と言うから、近場の空港にでも着陸するものかと思っていたのだが、よくよく考えれば財団秘蔵の極秘機種が、おいそれと空港に着陸する筈も無く。ステルス機が徐々に速度と高度を落とし、街中に建つ超高層ビル群の上空でホバリングしたのにも驚いたが、着陸先がビル屋上に在る通常のヘリポートの三倍は在りそうな駐機場だと言うのも驚きだった。
 なんとこの機体、その存在が極秘な事もあり、各アーカム拠点を直接行き来する為に、態々ホバリング機能を備えているのだと言う。まるでVTOLだが、形状から言って垂直離着陸攻撃機ハリアーの方が近い。
 一見非常識な、しかし科学の集合体である機体は、ゆっくりとその身を屋上へと向け下降して行く。一瞬、幾らステルス機とは言え人の目や音までは誤魔化せないのに、こんな派手な着陸をしていては騒ぎになるのではとも思ったが、シンジの心配は杞憂に終わった。正直シンジはアーカムの技術力を見縊っていた。何せ組織体としてNervの技術力が世界最高水準で在ると言う先入観が在る。そしてEVAはNerv以外何処も無し得ない超最先端技術の粋だ。尤もそれも先日の戦闘で覆されたのだが。そして、所詮NervはEVA止まりであり、研究所上がりであった。軍需産業さえも手掛けコントロールしているアーカム財団。しかも超古代文明の遺産の研究等している彼等の、半世紀以上続く歴史にして見れば些細な事に過ぎないのかも知れない。そしてこの機体はこれまた非常識に、工学迷彩とエンジンのサイレンス機能まで備えるという、ふざけた隠密性を誇っていた。正直移動手段にそこまでの入れ込む意義が見出せなかったが、不意に思い出したティア・フラットの笑みが全てを語っている気がした。
「……科学者って…皆あんな感じなのかな?……」
 頭の中で母となった筈のもう一人の美女も、白衣姿で妖艶な笑みを浮かべていた。背筋を冷たい物が通る。
「……あれ?…」
 窓からの視界の端に写り込んだ小さな人影。先にこちらへ発ち第三へ向かっている筈の不精髭の男は、何故か屋上で不敵に笑みを浮かべ、外観からは陽炎の様に見える筈のシンジの乗るステルス機の着陸を、ただぼっと眺め突っ立っていた。
「…加持さん?…何で…」





 加持とシンジを乗せたランドクルーザーは、一路第三新東京市を目指す。高速を使わずに一般道を走っているのは、いざと言う時追っ手を捲くには此方の方が確実だからだ。
「……追っ手の類は居ないですね。アーカムの御陰かな。」
 助手席から後方を見ていたシンジは漸く一息付いてシートに座り直す。
「…流石だな。」
「…え?…」
「いや、何でもないよ。」
 ちらと加持を見てまた正面に視線を戻すシンジ。聞こえていなかった訳では無いのだろう。只どう返事をすべきか悩んでいただけらしい。まぁ、追求する意味も無いし、何よりその技術を齎したのがその道のS級のプロである以上、態々問うのは愚と言う物だ。そしてシンジが何について言い淀んだのかも、加持には想像が付いた。
「…加持さん。何で僕を待ってたんです?」
 やはり黙っていてもシンジから切り出して来た。シンジももう只の子供では無い。既にアスカに引けを取らぬほど聡明だし、況してやその思考形態は加持のそれに似通って来ている。だから加持はシンジが何を問うて居るのかが分かっていた。
「なぁに、ちょいとこっちに用があったんでね。移動は今日にずらしたんだ。だったらシンジ君と合わせた方が危険も手間も少なくて済む。」
「まぁ、そうですね。」
「それに、慌てて向こうを出ちまったからな。少し話をしておきたくてね。」
「…今後の事ですね?」
「あぁ。」
 加持が徐にダッシュボードから書類の束を出し、シンジに渡す。シンジは黙ってその書類に目を遠し始める。シンジは只黙して、一字一句漏らさぬ様に隅々まで書類に目を通している。
「上二枚は第壱支部司令代理からの書状。次の三枚が本部の現組織体系の略図と稼動戦力状況。次の十枚はNervで押さえている対抗組織の全リストと戦備一覧。そして最後の一枚が俺とティア総帥から総司令への提案事項だ。他にも見せて置きたい物はあるが、今はそれでいい。」
 加持の独り言の様な説明にも全く反応を見せる事無く、シンジは只書類を読み耽る。まだ読み切るには時間が要るだろう。加持は一服しようとして、一瞬躊躇ってから一声掛けた。
「煙草、いいか?」
「どうぞ。」
 顔を上げずに答えたシンジに少しばかり苦笑する。上五枚をあっという間に読み終わる…と言うより頭に刷り込んだシンジは、更にそこから十枚をそれこそ一つ残さず把握しようとしているのだ。その真剣さが加持の苦笑を誘った。シンジをそうまでさせるその思いといじらしさ故に。一本咥え少しだけ窓を開ける。ロードノイズと高原の風が加持を弄りながら煙草の煙ごと連れ去って行く。
 日本で久々のドライブも悪くは無い。これで隣が愛しい女であれば言う事は無いが、シンジが役不足と言う訳でも無い。何せ自分にとって可愛い弟分だ。何より今はもう直ぐ発せられるであろうシンジの言葉と、今向かっている街にわくわくしている自分がいる。
 やがてフィルタ近くまで吸い切ったタバコを灰皿に押し付け、国道を直走りながら待つ事数刻。
 シンジが大きく溜息を付いて、漸く書類から顔を上げた。暫し窓の外を眺めたシンジは、ゆっくりと加持に振り返り、一言だけ告げた。
「…やらせてもらいます、加持さん。」
「…そうか…俺から振って置いて何だが……後悔はしないか?」
「まさか。何の為に僕がカムイの元に居たか、加持さんが一番分かってるじゃないですか。それにもう、EVAだけに拘る理由はありませんからね。」
「君の負担は通常のチルドレンの比ではなくなる。何よりもその先に或るモノを、君なら分かってる筈だ。それでも、いいんだな?」
 更に念を押す加持に、シンジは苦笑しながら静かに、しかし晴れやかに答えた。
「勿論です。」
 加持の身体が急速に震えた。武者震いと言う奴だ。僅か齢十六にして、彼はその背後にある全ての物を理解した上で背負う覚悟を決めた。その絶対的意思力に。
 シンジは、間違い無くカリスマ性を秘めていた。それが徐々に表に顔を出し始めたのは恐らくつい最近の事だ。そしてこの帰国を機に彼はその使い道を知る事になった。後は己が道を進むのみ。この少年は恐らく歴史にその名を残すだろう。彼は果たして、史上初の世界国家を建国・統率する稀代の大統領にでもなるのか。はたまた史上初の全世界を巻き込み己が欲の為に主義者となるのか。どちらにしても、冒頭にはこう綴られるのだ。世界を揺るがしたサードインパクトに置いて、『前人未到の全人類殺戮者』であり、同時に『全人類最後の救世主(メシア)』。碇シンジ、と。
 加持は後に語る事になるだろう。この瞬間に、碇シンジという存在に己の持てる生尽きる時まで、彼に付いて行く事を誓ったのだと。今はまだ、その身に訪れた震えが好奇心を満たす為の物だと思っていても。
「…分かった。シンジ君が決めた事だ。俺は何も言わん。だが何か問題がある時は大なり小なり聞いてくれ。今まで通りな?」
「加持さん…有り難う御座います。」
「なに。礼を言うのはこっちの方さ。」
「じゃぁ、早速ですけど良いですか?」
「おう。何でも聞いてくれ。」
 爽やかな風が吹き抜ける中、急速に冷気がさ迷い込んだ。それも絶対零度並の。
「コレ。知ってるんですか?本人は……」
 シンジが指差した書類の一点。それは先日加持がティアに聞いた箇所と全く同一の、ある意味この未決定だらけの、しかし決定だらけであろう提案書こと宣告書の中で、最も危険度が高い正にS級のヤバさであった。
「………………………………………」
 冷汗だらだら流しながら硬直しつつも、ハンドルは離さない根性を見せる加持だったが、かなり切羽詰っている様だ。
「……ま、僕は関係無いから良いですけどね。僕は知りませんよ。」
「……な、何とかならんか?シンジ君……」
 引き攣った笑みで助けを請う加持リョウジ、三十一歳、未婚。人生まだまだである。
「諦めるんですね。大体、加持さんさっき自分で言ってたじゃ無いですか?この提案書はティアさんと加持さんの共同だって。」
 更に青ざめ始めた加持の顔をちらりと確認したシンジは、取り敢えず、自分の身の安全の為に加持を犠牲にした。案外冷たい性格である。
「そうそう、カムイ言ってましたよ?契約の件宜しくって。」
「…?…契約?」
「保護費、養育費、食費、授業料諸々、纏めて加持さんに請求出しとく、って。」
「………………………」
 覚えの無い事に一瞬だけ帰還した加持だったが、直後に引導渡され轟沈するのだった。





 奇跡的なドライビングテクニック…と言うよりは、よく意識を失いながら運転出来るものだと感心しながら、加持の復活を待っていたシンジは、次なる質問に話を移した。
「加持さん、この中に今回の襲撃に関連する組織は?」
 そう言って十枚のリストを掲げたシンジ。そして加持はその束をちらと横目にし、運転に集中し出した。
「いや。全く無いよ。そこに載ってるのは何処も零細組織ばかりさ。精々考えそうなのはチルドレンの誘拐程度だろう。」
 とは言え載っている組織は場末の団体でも無く、某国の私兵団であったり、テロ組織であったりと錚々たるメンバーである。にも関わらずNerv、引いては加持の網にも掛からない敵。少なくともEVAをあれ程大量に持ち出して来る以上、大きな組織が絡んでいる事だけは確かなのだ。だがその影も足跡も見当たらない。完璧と言っていい隠匿状況だった。
 そして裏社会にすらその姿が見えない組織。果たしてそれが意味する所は…何処に在ると言うのか。
「裏の裏は表、何て事は無いですよね…じゃぁ、裏の奥。それもかなり深い所って事か…」
「あぁ。はっきり言えばSEELE級…いや、それ以上だろうな。」
 だが、それでこのリストが役に立たないと言う事にはならない。少なくとも敵はゲーム的に事を進めようとしている節がある。しかし、第三が標的になったからといって、他所が安全とは限らない。何せS2機関を装備した、神出鬼没のEVAであり、現に彼等はドイツ第三支部に篭城していると見られるのだ。これで戦力の一極集中など行なおう物ならば、他国が黙っている筈が無い。況してや支部間の緊張は一気に高まる。そしてその中心にあるのがEVAであり、シンジ達チルドレン自身だ。当面の敵が自分達に執着が無くとも、何某の組織から狙われる確立は格段に増えるのである。そうなるとこのリストは大いに生きてくる。対抗組織には圧力を掛け、必要とあれば排除もしなければならない。それが今自分達に出来る最善の策なのだ。だからこそ、シンジはあれ程丹念にそのリストを漏らす事無く記憶に焼き付けていた。
「ま、調査はこっちに任せてくれ。」
「分かりました。」
「それから昨日、引抜きをして来たよ。近い内にNervから正式に召喚する。」
「引抜きって…誰です?」
「一人は俺の大学の同級で後藤ケンジ。戦自陸軍本部の少佐でな。小隊ごとこっちに引っ越して来る。」
「じゃあ、それが…」
 そう言って再び書類に視線を戻す。加持が既に記憶の中にある書類からその部分を読み上げた。
「そうだ。保安部警備局二課零班。今までの二課の技術ではこれから先耐えられる物じゃない。だからこそ新設の零班を用意する。これは対外的には存在しない部署だ。だから通常警備は今まで通り二課の指揮下だが、非常時の場合指揮権は速やかに零班に移行する。それがチルドレン特殊護衛班及び内外部諜報活動班って訳だ。」
 つまり事が起こった場合、強硬手段を持ってしてもチルドレンの保護、及び奪還を持って事を成す特殊工作部隊。何より研究所上がりのNervが、最終戦で尽く敗戦を喫した軍備面に置いての梃入れである。確かに前Nerv諜報部、保安部はその水準を高く保っていたが、如何せん抜け穴が随所に見られた。組織立った行動力。一級のプロ技術。その前に脆くもNervは敗れ去ったのだ。だからこそ零班投入によって、Nervの水準を更に引き上げる。人員投入は既にアーカムから施されている。後は組織立った指揮が出来る有能な現場指揮官が必要だった。確かにミサトも職業軍人ではあるが、彼女には戦いの全体を観て貰わなければならない。現場には現場の指揮官が必要だ。それ故人間同士の戦いに置いてその総括を図る為の零班だ。スカウトされた彼等は後藤のみならず全員が指揮官を任せても惜しくは無い粒揃いの精鋭だ。実質彼等がNervの軍員全てを率いる事になるのである。尤も今後飛躍的に上がると予想されるチルドレンの重要度を考えれば、まだ足りないくらいだと加持は思っているのだが。
 そして彼等のもう一つの仕事が諜報活動だ。実質的に今のNervに諜報部は存在し無い事になっている。実際には国連組織として表舞台に立つようになり、日の元に出ざるを得なかったのが、加持の率いる事になる現情報調査部だ。そして彼等には正式な申請の元の情報収集活動しか許されはしない。それはNervが国連組織に組み込まれた以上致し方無い事なのではあるが、しかし組織を維持して行くには諜報活動・監査活動は欠かせないのも事実だ。今までは裏で加持やシゲルが秘密裏に動いていたが、今後はこの零班がNerv内外含めそれをこなす。そして彼等にはその場での審査監察・弾劾権をも有する事になる。彼等はその実行部隊となるのだ。
「…その人は…信用出来るんですね?」
「あぁ。心配ない。」
 シンジの心配は尤もだ。もしそれだけの権利と力を有した部隊が内から破壊工作に出れば、Nervは敵と対する前に脆くも崩れ去る。戦自というところも引っかかったのだろう。何せNervとは犬猿の中で、最終戦でNervを落としたのは他でも無く彼等だ。しかしその心配は無用だった。加持は知っていた。彼が何より自分の為に戦う男である事を。何せ最終戦当時、彼は軍部の命令を無視して、外野に引っ込み小隊ごと昼寝していた程である。尤も、それは加持から齎された前情報が在っての話だったのだが。特に説明も無しに送り付けたファイルを見て、彼は軍部に付く意味無しと判断し加持を信用した上で、己の判断で命令放棄を実行したのである。そしてその隊長に絶対の信頼を置く小隊全員が命令を“サボった”のだ。結果、彼は今戦自内で窓際に追いやられ、悶々として居た所にこの話だ。来ない方が損である。それ以上に、これは彼自身の意思でもあり、彼自身戦自には既に未練等持っていなかった。
「あのバカの事は俺が保証してやるよ。」
「はい。」
 ミサトに『あの馬ゎ鹿っ』と言わしめた加持にして、その加持がバカと言う程の人物である。シンジは別の意味で不安になっていた。そんな事を考えているとは露知らず加持は続ける。
「もう一人は坊さんだよ。高野山の霊丈。本名は佐沼ヨウキチ。俺が昔世話になった所にいる古い馴染だ。こっちも信用は置ける。」
「……御坊さん…ですか?」
「あぁ。」
 不思議そうに首傾げるシンジに苦笑する加持。当然だろう。科学の粋を極める国連特務機関Nerv。そこに時代錯誤な袈裟を着た僧侶の姿。違和感大爆発である。
「実は、ティア総帥の入れ知恵でね。今度の敵は一筋縄では行かない。敵の持ち駒がEVAだけじゃないのはドイツ第参支部で彼女によって証明されてる。」
 シンジが思い出したのはアメリカ第壱支部で見た、調査部隊の攻撃を跳ね返すATフィールドの様な結界。だがMAGIはATフィールドを検出しなかった。ティアの話では呪術的な結界だと言っていたが。
「未知の物には未知の者で対抗すべしってね。総帥がこっちに居れば色々と問題も解決するのかもしれないが、今は彼女もあっちを離れられない。だからその繋ぎの意味もあってね。敵が何時来るかはっきりしない以上、打てる手は打っておくべきだからな。」
「じゃぁ、その人も?」
「魔女ティア・フラットの場合は勿論魔法、白魔術って事になるんだが、こっちの場合は法力って奴だな。シンジ君は日本の宗教は?」
「詳しくは、無いです。」
「だろうな。まぁ、詳しい歴史背景と現状は後々学校ででも習って貰うとして、ヨウキチも一応十七年修行して来た僧侶だ。寺の中じゃそこそこの地位に居る以上、それなりに呪術関係には通じている。だから彼を作戦部顧問として召喚し…」
「EVAと呪術、二本柱で事を構える…と?」
「そういう事だ。奴にも後藤達と同時に本部に入って貰う。」
 シンジがついと書類に目を落とす。眺めている書類は現Nervの組織図。そのピラミッドの頂点に、彼のたった一人残った肉親である父の名。
 不意に上げられた視線の先。峠を越え、道は下りになりうねる。窓の外には山間に建てられた計画都市。地球の人類最後の砦だった街。学術都市となり生れ変った平和の象徴の街。
 そして―――新たな戦いの場。

 二人の男達はそれぞれの胸に内なる思いを秘め、遂に帰還した。

 其処は、第三新東京市。










伍.






 ここ数日続く徹夜作業は、はっきり言えば辛い。何が辛いってそりゃもう花も恥らう乙女も、既に三十一とウンヶ月。お肌の劣化が激しいのだ。EVAの装甲の様に換装作業は出来ない。気を抜いて手入れを怠るとあっという間に曲がるのだ。お肌が。とは言えこう徹夜が続くと無理も来る。幾ら平均女性より瑞々しい肌を持っていると誇れるとは言え、流石に縁る年波には勝てなかった。
 そんな訳で、彼女の気分は朝っぱらから最悪である。
「あぁ~っ……だるいわねぇ……」
 甘ったるい缶コーヒー片手に、休憩所のベンチにぐったりと寄り掛かり、首が後ろに回りそうな程脱力する美女。しかし台詞はオヤジ。永遠の二十代と未だに言い張る葛城ミサトの朝はそんな風に始まっていた。つまり職務怠慢。おサボり真最中である。
「…ったくぅ…何時まで篭ってるつもりかしらぁ…これじゃ何時までも帰れないじゃなぁい…」
 ぐちぐちとドイツの現状に愚痴っているミサトだが、実はチルドレンの体術訓練スケジュールと、計八機のEVA運用の方針案を今の今まで組んでいたのだ。そして漸く一息付いた所だった。
 そして愚痴りながらも今彼女の頭の中を支配しているのは、実はアスカの事だった。今朝も病室を訪れたが彼女が昏睡状態から目覚める気配は無かった。今日で三日目に突入である。医師が言うには精神的には異常が出ていた訳ではないので精神汚染の心配は無く、今は傷付いた体が眠りを必要としている為だと診断していたが、しかしミサトにはベッドで眠り続けるアスカを見る度に、あの頃の心を閉ざし無反応に眠り続ける光景にだぶって見えてしまい、その心中は穏やかでは居られなかった。
 アスカの事を思う度、ミサトの脳裏にあの金色武者と、嘲笑いが響き渡る。リピートされる弐号機の敗残シーン。
 ぎりっと奥歯が鳴った。一向に動きを見せずに、しかし身体中に無用なまでの力が篭っていた。呟く声は今までのだらけた物ではなく、低く激しく怒気を孕んだ。
「……エホバァ?…はんっ。自分で名乗ってりゃ世話無いわよっ…」
 べこりと凹む空の缶コーヒー。だが次の瞬間にはまた彼女の体から力が抜け切り、再びベンチに仰向けに突っ伏す女の姿。それはやっぱりだらしなくて、おまけに反った身体が彼女の只でさえ大きめの乳房を、必要以上に誇張して見せていた。一女性として男にとってそそる姿なのか、幻滅する姿なのか判断し難い所である。まぁ、その辺がとある不精髭男の心を射止めた理由の一つだったりするのだが、彼女がそれを知る筈も無く。
「…あぁ~…今日はもう何にもやりたく無いわねぇ…」
 休憩所に響くだらしの無い彼女の声。誰一人居ないとは言え、ここは廊下に隣接してエントランスを設けられた天下の往来休憩所である。誰かが聞いてても可笑しくは無いし、親しい者ならば彼女の独り言に受け応えして、彼女のあられも無い姿を注意する某女史の様な人物も居たかもしれない。別にミサトは聞かれても構わないと思っていたし、今のブルーな心境ではどうにも直ぐに仕事に戻る気にはなれなかった。流石にゲンドウ相手では拙かろうが。
 だからミサトは、極々自然に受け答えしてしまっていたのだ。それが当然であると。
 何より…その声は全く違和感無く、彼女に受け入れられた。
 只それだけだった。

「そんな事ここで愚痴らないで下さいよ。皆に聞かれますよ?」
「いいのよぉ…昨日だって徹夜だったんだからぁ…」
「それはご苦労様。でも朝から作戦部長がそれじゃ、部下に示しが付きませんよ?」
「んもぅ…シンちゃんたらかぁったいんだからぁ…わぁったわよぉ…後五分したら仕事に戻りますぅ…」
「えぇ。そうして下さい。その代わり、美味しい御飯作ってあげますから。」
「やぁーりーっ♪…シンちゃんの御味噌汁ぅ♪…」
「ハイハイ。じゃ、僕用があるんで、また後で。」
「ほーい。んじゃねぇ~っ♪………シンちゃんの御味噌汁なんてひっさびさよねぇ…ぐふふふふぅっ♪…」

 人間は習慣で動く事が可能な生き物である。
 例えば通勤。例えば風呂。例えば料理。例えば会話。etc…
 故に。
 葛城ミサトが二分も経った後に漸く違和感を感じたのは、不思議でも何でも無い。

「……え?……」





 ここ数日続く徹夜作業は、はっきり言えば辛い。何が辛いってそりゃもう男盛りも、既に二十六とウンヶ月。彼女の一つも欲しいしそれなりに欲求も溜まる御年頃である。とは言え彼の苦労が報われた試しは無い。何せ彼女が今思い寄せる御相手とは、誰あろう彼の上司、葛城ミサトである。彼女の性格を鑑みればそりゃもう果てしなく、彼の淡い思いが届くであろう日は遥か彼方だ。一億八千万光年位遠い。報われる頃には彼は白骨化を通り越して風化している。
 そんな訳で、彼の気分は朝っぱらからブルーである。
「ハァ……葛城さんもいい加減クリーニングぐらい自分で取りに行って欲しいよ…」
 両手にぶら下った紙袋の中には自分の物では無く、上司の衣類がパックに包まれがさがさと音を立てている。そしてその袋は今にも廊下を擦りそうで、何故かと言えば彼が背を丸め、俺具合悪いです、と言わんばかりに歩いているからだ。その様子は今にも死に掛けている、眼鏡を掛けたアウストラロピテクス(辛うじて二足歩行)。その名も日向マコトである。
「…全く…下着まで平気で持たせるんだもんなぁ…俺はミサトさんのおさんどんやるつもりは無いんだけどなぁ…」
 ぐちぐちと上司のずぼらさに愚痴っているマコトだが、実は内心それを少し喜んでいたりする。上司と共にチルドレンの体術訓練スケジュールと、計八機のEVA運用の方針案を朝方まで組んでいたのだ。そして今漸く一息付いた所でミサトからのお使い命令だった。
 だが愚痴りながらもその心を占めているのは、やはり今後のNervに付いてであった。作戦部としては四機の新たなEVAを向かえるに至って、作戦の幅が大きく広がった。おまけに今度の相手はEVAであり、しかもダミープラグ等では無く、チルドレンを有したEVA。それも十四体。運用出来るEVAが増えるとは言えまだまだその差は未知数。しかもあの金色武者と弐号機の圧倒的戦力差が、戦況の圧倒的不利を指し示していた。
 おまけに予備役からナンバーズに昇格した新たなチルドレン四人だが、こちらもかなり望みが薄い。少女の一人はレイに追い付くかどうかかなり怪しいし、もう一人の少女もアスカに届くかどうか不安な所。少年二人はだいぶ形になってきたとは言え、アスカ程強力な戦力には成り得る可能性が低い。シンクロテストは四人共上々だが、それでもアスカには程遠い。何よりカヲルとトウジ同様実戦経験が無い事、実機がまだなので機体との相性が得られるかどうかまだ解からない事、等々、作戦部の抱える問題点はまだまだ山積みで、運用までの道程は程遠かった。
 ゆったりとした歩みが遂に止まってしまう。俯き立ち尽くすマコトの、手提げ袋をもつ両拳が、硬く握り締められる。きつく結んだ唇から、漏れ出る様に怨嗟の呟き。それは己自身への…
「……くそっ……また…子供達に頼るしか無いのかっ……」
 思い起こされるのはマコト同様に悩み歯を食いしばる上司の姿。何時か誓った、あの人の為ならば死んでも良いとさえ思った事。今彼女は娘同様に愛でて来たアスカを傷付けさせてしまった事で、深く罪の意識に苛まれている。今は自分が彼女の補佐をするだけでは無く、作戦部局長としての責務を全うする時。そうだ、まだやれる事はやり尽くしては居ない。戦地に向かわねばならぬ彼等子供達を、生きて戻って来させるのが自分達の仕事。ならば、例え負けても生きて帰って来る為に訓練を施さねばならない。そうすればミサトはもっと実務面での作戦を練る事に集中出来る筈。まだまだ自分にやれる事はあるのだ。悔いるのはその後でも遅くは無い。何もせずに黙って見ているのは、もう二度と御免だった。
「………ハァ………でも、おさんどんだけはやだなぁ………」
 再び脱力してのそのそと廊下を移動し始めたアウストラロピテクスの呟き。人と擦れ違うのが少ないとは言え彼が居るのは天下の往来廊下である。誰かが聞いてても可笑しくは無いし、親しい者ならば彼の独り言に受け応えして、彼の情け無い姿を慰める某好々爺の様な人物も居たかもしれない。別にマコトは聞かれても構わないと思っていたし、今のブルーな心境ではどうにも直ぐに仕事に戻る気にはなれなかった。流石にゲンドウ相手では拙かろうが。
 だからマコトは、極々自然に受け答えしてしまっていたのだ。それが当然であると。
 何より…その声は全く違和感無く、彼に受け入れられた。
 只それだけだった。

「済みません日向さん。またミサトさんでしょ?」
「そうなんだ…いくら徹夜続きだって言っても…もう少し恥じらいを持ってくれればなぁ…」
「済みません御迷惑お掛けしちゃって。ミサトさんにはきつく言っておきますから。」
「ははっ…シンジ君もすっかりおさんどんだなぁ…まぁ、気にしないでよ…俺も慣れちゃったしさぁ…」
「あ、気を付けた方がいいですよ?そんな事聞かれた日には、その内ミサトさんにいい様に使われちゃいますから。」
「…ううっ…シンジ君の気持ちは有り難いが……もう手遅れだよ……」
「…そ、そうですか…あ、えっと…じゃ、僕用があるんで。また後で。」
「…あぁ……悪いねぇ…シンジ君にまで心配掛けて……ははっ…ははははははっ…」

 人間は習慣で動く事が可能な生き物である。
 例えば通勤。例えば風呂。例えば料理。例えば会話。etc…
 故に。
 日向マコトが一分も経った後に漸く違和感を感じたのは、不思議でも何でも無い。

「……え?……」





 ここ数日続く徹夜作業は、はっきり言えば辛い。何が辛いってそりゃもう男盛りも、既に二十六とウンヶ月。今やらねば誰がやると言わんばかりに引っ張り出した愛用のギター。古くなった弦を漸く仕事の合間に新調し、再び仕事の合間に調弦し直し、いざ練習っ。と意気込んだ矢先に件の襲撃と徹夜作業。おまけに裏の仕事の方も冬月から来ており、敵の実態調査はかなりの難航状態に陥っていた。
 そんな訳で、彼の気分は朝っぱらから土気色である。
「…はぁ……副司令も何だかんだ言って人使い荒いよ…」
 右肩にぶら下った使い込んで所々剥げ落ちたギターケースには、準備万端で据え膳状態の愛しのギターが、弾いてくれるのを今か今かと待ち受けているのだが、まだそのケースが開かれた試しは無い。それでもギターを持ち歩いているのはそれだけ大事にしている証なのだが、それも弾く暇無ければ只の飾りどころか置物にもなりはしない。それでも手放して家に置いておくのも何なので、結局ギターケース背負って虚しく出勤しているロンゲ男、青葉シゲルだった。
「……あぁ…マリアンヌ…不甲斐ない俺を許しておくれ……」
 ぶちぶちとギターを抱き締め嘆くシゲルは、はっきり言って不気味以外の何者でも無い。それでもまだ先が見えない事もあり、先日は久し振りに家に帰れたものの、連日の疲れの為か家に着いた途端ギターには触れる事無く眠ってしまっていた。千載一遇のチャンスを逃がしてしまったのは、悔やんでも悔やみ切れない。
 だが愚痴りながらもその心を占めているのは、あの正体不明の集団の背後関係であった。去年の加持との再会から約半年。だが未だに加持は戻っては来なかった。御陰でシゲルに振られる仕事の量は日増しに増えて行くのだが、今の彼はそれを苦だとは思ってはいない。寧ろ敵の実態に近付く事が出来れば、それだけでもこちらが勝つ為に有利な条件となる。否。現在の戦争に置いて情報戦程重要な物は無い。今、シゲルが取り組む仕事は確かに子供達の勝利を引き寄せる為に欠かせない要素であり、時には彼等が出張る必要も無く事を沈める事も出来る仕事なのだ。
 だからこそ、シゲルは一刻も早く敵の正体を掴む為に、作戦司令部と情報調査部両方を動員し、一刻も早く敵の正体を探り出さんとしていた。だが。結果は如何ともし難く、それ所か敵はその影も形もはっきりせず、ただ先日の戦闘記録と現在の沈黙したままのドイツの状況だけが、シゲルに与えられた唯一の敵の情報源だった。しかしそれすらも余りに朧げであやふやな物であり、敵の姿は依然五里霧中なのだ。
 ゆったりとした歩みが遂に止まってしまう。俯き立ち尽くすシゲルの、ギターケースのベルトをもつ右拳が硬く握り締められ、革のベルトが悲鳴を上げる。呟きと表情は垂れ下がった髪に覆い被さり、周囲に洩れる事無く消え去った。
「……何者なんだよっ……アイツ等は……」
 思い起こされるのは直属上司の冬月の苦渋の表情。少なくとも今のNervの上層部に以前の様な隠し事は無い。余程危険度が無い限りは。そして自分は以前よりも周囲の者達よりも、一歩踏み込んだ所で仕事をしている。故に彼等も自分に何かを隠匿する事など滅多に無く、寧ろ積極的に参加し事の処理に対応している。しかし、冬月が浮かべた表情は明らかに動揺の色を含んでいた。つまり彼等も今回の件に付いては何も知らないという事なのだ。結果恐怖に支配される。以前の様にカンニングペーパーは無い。今度は自分達で事を解決せねばならない。だが、今回の一件は余りにシゲルには荷が重過ぎた。ここまで周到に隠蔽された事態には、それこそ加持リョウジの手腕がつくづく欲しいと思ってしまう。人に頼るのは情け無いが、つまらない意地で子供達に危険が及ぶよりは余程マシだと言えた。
「………ハァ………早く帰って来てくれねぇかなぁ………」
 再び脱力してのそのそと廊下を移動し始めたロンゲギターマンの呟き。人と擦れ違うのが少ないとは言え彼が居るのは天下の往来廊下である。誰かが聞いてても可笑しくは無いし、親しい者ならば彼の独り言に受け応えして、彼の張りの無い姿を注意する某好々爺の様な人物も居たかもしれない。別にシゲルは聞かれても構わないと思っていたし、今の土気色な心境ではどうにも直ぐに仕事に戻る気にはなれなかった。流石にゲンドウ相手では拙かろうが。
 だからシゲルは、極々自然に受け答えしてしまっていたのだ。それが当然であると。
 何より…その声は全く違和感無く、彼に受け入れられた。
 只それだけだった。

「ギター、また始めたんですね?青葉さん。」
「…そう思ったんだけどねぇ…ハァ…徹夜続きで碌にやってる暇が無くってさぁ…」
「皆忙しいみたいですしね。暇があったらまた皆とバンドとかやりたいですね。」
「…ははっ…暇ねぇ。無理だろうなぁ…あの人さえ戻って来りゃ少しは暇も出来たのかもしれないけどなぁ…」
「は、ははは……た、大変そうですねぇ…」
「…ううっ…シンジ君だけだよ俺の気持ち分かってくれるのは……なぁ?マリアンヌ?」
「…マ、マリ?……そ、そうですか?…じゃ、僕用があるんで。また後で。」
「…あぁ……またセッションやろうなぁ……暇さえあればね……ハァ……」

 人間は習慣で動く事が可能な生き物である。
 例えば通勤。例えば風呂。例えば料理。例えば会話。etc…
 故に。
 青葉シゲルが一分も経った後に漸く違和感を感じたのは、不思議でも何でも無い。

「……え?……」





 ここ数日続く徹夜作業は、はっきり言えば辛い。何が辛いってそりゃもう花も恥らう乙女も、既に二十六とウンヶ月。お肌の曲がり角は昨年遂に過ぎてしまった。とは言え。彼女の強みはその幼児性だろうか。本人意識はして無いが彼女はその実年齢に似合わず今だ十代で通る容姿と肌の艶を誇っていた。何処ぞの上司二人組に最近やけに突っ込まれるのはそんな理由からであるが、やはり本人気付く気配は全く無し。
 そんな訳で、彼女は未だ幼児っぽさを残したまま、しかし疲れてはいた。
「…うぅっ…仕事任されたのは良いけど……」
 両手に抱えた溢れんばかりの資料が詰まったでかいダンボール箱を抱え、よたよたと危なっかしく廊下を歩く女性。と言うよりは少女。しつこい様だが彼女はれっきとした社会人である。只そう見えないだけで。そして今彼女は今日から弐号機修理を既存の要因に任せ、彼女の上司と共に3号ケイジの開封作業に入る。彼女が持っているのはその為に必要な資料だ。今回作業の指揮を任された少女…もとい女性、伊吹マヤである。
「…ぉ、重いぃぃ…ひどいですぅ…せんぱぁぃ…」
 へろへろとへたりながら愚痴を溢すマヤは、恨みがましく自分の上司の「今日は貴方がメインなのよ?貴方の仕事よね?」と言って早々に退散し、荷物運びは“若いモン”に任せて何処かへ行ってしまった。結局、持ち上げるだけで五分近くも掛かった彼女は、今よたよたとダンボールを抱え、第参ケイジのコントロールルームに向かっている訳である。今の切羽詰った彼女の思考では、『台車を持って来る』『男手を探す』と言う選択肢が導き出される筈も無かった。
 そして切羽詰りながらも今彼女の頭の中を支配しているのは、実は新型機の事だった。一ヶ月後の納期に備える為の今回の受入準備作業。だが、彼女もリツコ同様その鬱憤を募らせていた。今まで自分達で管理して来たEVA。世界中の誰よりもリツコと自分がEVAの事を知っているにも関わらず、その建造はアメリカ第壱支部とティア・フラットに一任されていた。だが、リツコから聞かされた話によると、今回の新造機「G」とはその設計理念から違っているらしい。基本設計は変わりなく、こちらで行なった改修型「B-Type」と左程変化は無いらしい。本来EVAは既に現行存在する物がそもそも完成形なのだ。「B-Type」はその補強プランに過ぎない。そして「G-Type」もまた同様であるのだ。だが、「B-Type」が只の補強プランなのに対し、「G-Type」は強化プランで在ると言う。つまり、EVA本来の汎用性を活かし、戦闘に特化したEVAを新造しようと言うのである。そうなると話も変わって来るというものだろう。司令がアーカムの技術団に任せた事も頷ける。何せ自分達は戦闘技術など知らない。其れに比べアーカムでは、私設の部隊と共同でその技術を特化させてきた専門家達ばかりである。何より「B-Type」の補強プランの補佐に付いたのは、他でも無いアーカム技術団である。
 だがそれ故に、マヤは悔しかった。自分には出来無い事を出来る人達が居る。しかも尊敬するリツコを差し置いて。
 あっと気付く。立ち止まったマヤは重さに耐え切れなくなった訳ではなく。寧ろその重さを忘れたかの様に抱えたまま、呟く声は今までの情け無い物ではなく、静かに、しかし何処か力強く。
「……そっか……私には出来無い事を彼等がやっている…彼等には出来無い事を…私はやっているじゃない…」
 不意に気付いた事実。EVAを造り、整備して、修理して、子供達が安心してEVAに乗る為の仕事を、自分はしているでは無いか。専門の分野を専門家がやって何が悪い。これは単なる自分の強欲から来る嫉妬だ。そして自分は自分の出来る事を変わらずやっているでは無いか。何より自分もアーカムの技術者達の様に、己が技術として学び取る事で、子供達が勝てる状況を作り出せるならば…
 今やるべき事。取り敢えず3号ケイジの開封作業だ。再び歩き出そうとした瞬間、ダンボール箱の上辺に乗っていた書類の何束かが、動いた拍子にどさりと落ちてしまう。
「…ふぇっ…」
 情け無い彼女の呻き声。人と擦れ違う事が少ないとは言え、彼女が居るのは天下の往来廊下である。誰かが聞いてても可笑しくは無いし、親しい者ならば彼女が呻き涙滲ませる幼いその様に、ちょっとだけ引きながら溜息混じりに仕方なく手伝う某女史の様な人物も居たかもしれない。尤も彼女は自分が情け無い呻き声を上げたと気付いておらず、今の幼児並の心境ではどうにも己の醜態に気付く筈もなかった。ゲンドウ辺りが出くわせば大方逃げ出す事だろう。
 だからマヤは、混乱したまま自然に受け答えしてしまっていたのだ。それが当然であると。
 何より…その声は全く違和感無く、彼女に受け入れられた。
 只それだけだった。

「大丈夫ですか、マヤさん?はい、書類。マヤさんも徹夜ですか?」
「…あ、ありがとぅぅぅ…そうなの…先輩ったら荷物運び手伝ってくれないんです…うぅ…」
「それは…ご苦労様です……でも台車とか使ったらどうです?」
「!?っ………………………………」
「………は、ははははは……ひょとして…き、気付いてませんでした?…」
「………………………………」
「…あぁ……えぇっと…じゃ、僕用があるんでまた後でっ!!」
「………………………ふぇっ………」

 マヤは精神的に負い込まれる(意地悪される)と幼児化する生き物である。
 例えば上司のいびり。例えばコケた時。例えば恥ずかしい時。例えば失敗した時。etc…
 故に。
 伊吹マヤが五分も愚図っていた後に漸く違和感に気付いたのは、不思議でも何でも無い。

「……ふぇ?……」





 ここ数日続く徹夜作業も、はっきり言えば辛い。何が辛いってそりゃもう十分に歳を感じる訳であり、既に三十二とウンヶ月。手の掛からないちょと大きな娘と、手の掛からない息子役の居候と、一番手の掛かる夫に手を焼かされ、おまけに独身の頃から延々と続いている様な徹夜作業に、慣れはせよ疲れが消える事は無いのだ。よって徐々に蓄積された疲れは、肩凝り腰痛目の疲れと様々に身体の健康に弊害を齎す訳で。とは言え自分はここの技術責任者。そうおいそれと休む事も出来なかった。家で睡眠が取れる時間が増えたと言う事は、一時期よりは大分マシにはなったという事でもあるのだが。
「…ふうっ……流石に辛い所ね…」
 しかし、人生最大のイベントである結婚も友人より一足早く済ませ、安心感が生まれれば追い立てられる物が無いだけに、諦めも有る意味早かった。お肌は既に曲がり始めていた訳で、流石に天下の碇リツコも妖しい人体実験のサンプルに己を使う事は躊躇われる。だからと言う訳では無いし特に固執もしていないが、そこそこ保てれば良いと思っている。それでも、一般女性から見れば「羨ましい」の一言が出る程の肌艶を、彼女は十分持ち合わせているのだが。
 そんな訳で女は徹夜の仕事を一段落終え、喫煙所で結婚してから久しかった煙草を久々に加えていた。
「……駄目ね…もうオバさんなのに……」
 ぶつぶつと自虐的に愚痴っているリツコが、実質的に煙草を止めたのは勿論結婚後の事だ。何故かと言えば、愛する男の血を分けた子供が欲しいと思うのは、女としても当然の事でも有り、その為には彼女の喫煙量は尋常ではなかった為だ。子を産みたいのならば喫煙を止めなければ害になる。そう思って量を減らし始めたのだが、これが思った以上に辛かった。辛いのは煙草を止める事ではなく、ストレスの解消法である。今までそれを尋常では無い喫煙量に頼っていたリツコは、それを失った途端身体に影響が出始めた。それが前述の疲れであり。そうしてどうしても耐えられなくなった時だけは、こうして思わず煙草を口にしてしまう。その度に彼女は自虐の嵐に落ち込んでしまうのだ。
 だが愚痴りながらも今彼女の頭の中を支配しているのは、やはりと言うか見えない敵の事の事だった。リツコには信じ難かった。十四機のEVANGELION。それだけでも脅威に値するにも関わらず、彼等はその機体を駆って見せた。実際に動いたのは一機のみだが、それでもあれが張子の虎などでは有り得ない筈。更には用途不明の装飾…恐らくは武装兵器。そして何よりその十四機分のEVAを駆る為にどうしても必要な、そして確実に存在するであろうNervにさえ未確認のチルドレンが……十四人……
 リツコの背筋を冷たい物がぞくりと駆け上がる。情報は余りに少なく、そして我々は無知に為り下がった。
 思わず煙草のフィルターを噛み締めてしまう。喫煙所のベンチに項垂れつつも、彼女の両手に力が篭っていた。呟く声は今までの疲れ切った物ではなく、久々に見せる冷気を孕んだ。
「……エホバ……神の御使い…神の皇子達……エホバ…チルドレン……」
 考えの中に沈み込む彼女は気付かない。自分が何時の間にか吸い切った吸殻を灰皿に投じ、新たな一本を取りだし火を付けようとしている事に。リツコの思考はもう一つの心配事に向いていた。嘗ては憎んでいた筈の、今は愛しくて堪らない愛娘。彼女は昨日から何か様子がおかしかった。多分アスカの事なのだろうが。そういう意味では他のチルドレンも似たり寄ったりだ。明らかにアスカ敗北のダメージを色濃く受けていた。
「…あっ………はぁぁ…駄目ね……もう諦め様かしら。禁煙……」
 喫煙所に響く覇気の無い彼女の声。誰一人居ないとは言え、ここは廊下に隣接してエントランスを設けられた愛煙家のオアシス喫煙所である。誰かが聞いてても可笑しくは無いし、親しい者ならば彼女の独り言に受け応えして、部下の信頼厚い彼女の元気無い姿を見れば、某総司令でさえ飛んで来て、あれこれと世話を焼く事だろう。別にリツコは今更見られて困ると思っていないし、今の紫煙纏って霞がかった心境ではどうにも直ぐに仕事に戻る気にはなれなかった。流石にNervのおっかさんに喧嘩売れる人物は今のNervに誰一人居ないだろう。
 だからリツコは、極々自然に受け答えしてしまっていたのだ。それが当然であると。
 何より…その声は全く違和感無く、彼女に受け入れられた。
 只それだけだった。

「あんまり吸うと身体に悪いですよ。程々にして下さい。」
「もういいのよ…こう仕事がきつくちゃ、吸わなきゃやってられ無いわ…」
「でも、もう自分一人の体じゃ無いでしょ?綾波だって悲しみますよ。」
「…そう、そうね……ふふ…相変わらず優しいのね。」
「か、からかわないで下さいよ。」
「アスカが泣くわよ?」
「し、知りませんよっ。じ、じゃ、僕用があるんでまた後で。」
「えぇ……そうね…そろそろ本気でおねだりしようかしら?…そうすれば踏ん切りも付くし、産休も取れるし…」

 人間は習慣で動く事が可能な生き物である。
 例えば通勤。例えば風呂。例えば料理。例えば会話。etc…
 故に。
 碇リツコが三分程妄想の旅路に出た後に漸く違和感を感じたのは、不思議でも何でも無い。

「……え?……」





 朝っぱらの徹夜明けである。既に三日目に突入である。皆、何か幻覚を見聞きしたのだと自分を疑っていた。
 異様な空気が立ち込める発令所。何時に無く静かなのだ。しかもその輪の中には普段ならばこんな静寂に一分と耐えられない筈のミサトまでもが、何故か大人しくしている。僅かでも音を立てようものならば、鬼に取って食われると言わんばかりの静寂である。
 何より異様なのは発令所に詰める職員達の視線。
『………………………………』
 誰一人合わせようとしない。何人もこの拮抗に触れる事も崩す事も出来ず、硬直し続ける発令所。
 そして遂にその牙城を崩そうと試みる我等が作戦部長殿。
「………あ、あの、さぁ?…」
 ざんっ、と言うざわめきと共に発令所中の視線がミサトに集中した。何故か全員期待の視線で潤ませている。
「………………い、いや……何でも、無い…ぁはははは、はぁ………」
 葛城ミサトは危うく導火線に火を近付けかけて、恐怖に負けて身を引いた。
 第二のチャレンジャー、マコトが視線を誰にも合わせずに引き攣った笑みで小さく呟いた。
「………あ、あの………」
 再び集中する矢の様にマコトに集中する視線。次こそは…そんな期待が全員から読み取れた。
「………い、いえ……何でも無いです………」
 日向マコトも触れてはいけない物に触れかけて、第六感の危機察知でその身を引いた。
 第三のチャレンジャー、シゲルがその口を開き、
「……あ」
 と一音目を発しただけにも関わらず、凄まじい速度でロックオンされ、
「…げふんげふん……………」
 咳で誤魔化すヘタレロンゲ男。皆の視線が何故か痛々しい。
 第四のチャレンジャー、マヤが恐る恐る律儀にも挙手をして口を開いた。
「……あ、あのぉ……」
 彼女なら、彼女ならば絶対とち狂って、何か口走る筈っ。と言う少々失礼な視線。
「………私ぃ……シンジ君の声に似た人とさっき会いましたぁ……」
 正直だ。正直過ぎて外し様の無いボディーブローを、何故か躓いてコケる程の正直さだ。実際彼女はダンボールに顔を埋めていた為、相手の顔を見ていない。だがその発言はそれ以上でも以下でも無く、確証無しにそこで完結していた。
「……あ、そ。……」
 ミサトのつれない返事で、マヤ轟沈。
 ラストチャレンジャー、職員全員の期待を全身にひしひしと受け、Nervのおっかさんが出撃する。
「………………わ、」
 僅かに震えたリツコの艶っぽい声音に、何故か皆の喉がごきゅりと鳴った。
「………………私じゃ無いわよ?」
 がっくりと項垂れる一同。そりゃリツコの声がシンジの声に似ているわきゃ無い。
 最後の望みが潰えたかに見えたその時。やはり頼れるNervの御姉さんはこの人しか居なかった。

 だが。
 誰もがこの時、彼女が見えない引き金に触れた事に、職員の誰一人気付いていなかった。
「だあぁっ!!うざったいわねぇっ!ハッキリしなさいっ!シンちゃん見た人っっ!!」
 ざんっ。
 一斉に掲げられた発令所全員の右手に、誰もが硬直したのは言うまでも無い。
 そして、自分達が見聞きした物が幻覚では無かったと知るその瞬間まで五分十四秒コンマ五五。
 引き金は引かれた。

「第一種戦闘配備ぃっっ!!!全職員は直ちに現作業を中断し捜索に当たりなさいっっ!!何やってんのっ!?警報は誤報だと国連に伝えなさいっっ!!上なんか放っときなさいよっ!!!ココよっ!ココっ!!まだジオフロントの何処かよぉっ!!シンちゃん探しなさぁあぁあいっっっ!!!いやぁああああぁぁぁっっっ!!!シンぢゃ~~~~~んっっ!!!!」










六.






 ジオフロント全土が阿鼻叫喚の様相を見せ始めた頃。
 この区画だけは異様なまでに静寂に満ちていた。部屋の主であるゲンドウは執務机に広げた様々な資料を厳しく見つめ、応接セットでは冬月がこれまた資料をぶちまけ同じ様に見入っていた。二人は今敵の裏を探る為に情報調査部同様に、その集められた書類の山から痕跡を探り続けていた。しかし、その成果は一向に見えて来なかった。
 不意に、部屋の呼出音。
「誰だ?」
『私です』
 やっとか。待ち侘びたその客を招き入れる為入口のロックを解除すると、その重厚なドアを自ら開き男は広大な部屋に入室してゲンドウの前までやって来た。ゲンドウは何時もの様に口元で橋を作り男の言葉を待つ。何時もの馴れ馴れしい口調で切り出す物かと思いつつゲンドウの脇に立つ冬月だったが、彼の第一声はいつもと違い、きっちり着こなしたNervのダークグレーの軍服同様、凛とした軍人の敬礼だった。
「加持リョウジ一尉。只今本部着任致しました。」
「…うむ。しかし随分と待たせてくれたな。」
「申し訳有りません。色々と準備に手間取りまして。」
「……まぁいい。報告を頼む。」
「はい。」
 加持は持っていたスチルケースから何冊かの書類の束を取り出し、ゲンドウ一つ一つ机の上に広げてゆく。
「先ずは敵対組織の方から行きましょうか。取り敢えず現状Nervが現有するEVA、もしくはその技術情報を欲している組織の数は、小さな物まで含めると万を下りません。しかしここに攻め入るだけの戦力を保持している組織は、実質百五十まで絞り込めます。それでも、どの組織体もサードインパクト以降SEELEの崩壊によって、分断を余儀なくされた事により資金繰りに喘いでいる状態です。この中で本部を攻め落とす事が可能な組織は実質存在し無い事になります。因みに先日の本部襲撃の連中と、この中の組織との繋がりは一切認められません。」
 一気に喋り一区切り付いた所で、漸く二人の様子を見やる。冬月がゆったりと口を付いた。
「…やはりか。こちらでも探ってはいるのだがな…全く手掛かりが見えん…」
 苦渋に滲む表情で冬月が渋る。それもそうだろう。加持には分かっていた。自分も含めまだ誰もその存在を知る者はいないのだ。本人達以外は。ゲンドウが静かに呟く。
「まだ始めたばかりだ。何れ掴む。で、他は?」
 ゲンドウは不遜に言ってのけ次の報告を促す。加持は一つ頷き、次の資料を取り出す。
「第壱支部に行って来ました。難物ですね、総帥は。」
 緊張する空気に、不意の加持の苦笑交じりが漸くその緊張を解かせた。冬月が僅かに驚く。
「アメリカにか?一体何故…」
「天下のアーカム財団の総帥にお会い出来るんですよ?それも美人と来てる。会わなきゃ損と言う物ですよ。」
「…葛城君には報告しておこう。」
 全く表情を変えずに突然突っ込まれた加持は僅かにその頬をひく付かせた。聞かなかった事にして先を進める。後が恐いが今はこっちの方が重要だった。
「碇司令が何故彼女に第壱支部を託す事を決められたのか気になりましてね。始めは非常に掴み難いが、一度認められれば彼女の存在は絶対的有利に働く。確かに【魔女】と呼ばれるだけの事は有りますよ。しかし気は抜けない…ですね?」
「あぁ。だが信用は出来る。今はそれで十分だ。」
 取り敢えず彼女自身の話題はそこで区切りを付け、本題に入る。
「その彼女からの書状です。彼女ですら今回の敵の正体を掴んではいません。ですが幾つか分かった事も有る。それが…」
「魔術…か…」
 報告書を見つめながら呟くゲンドウ。しかしその表情は些か懐疑的だ。無理も無い。そう簡単には信じられ無いのが超常の力だ。しかしそう言う意味ではATフィールドだって超常の力なのだ。科学で解明出来ないというだけでそこに《無い》訳では無い。
「えぇ。そこで今現在早急に押さえるポイントとして、ティア司令代理から提案が出ています。一つは既にこちらにも出ている戦力補強。新たなEVA四機をロールアウト次第本部に一極集中させ、アメリカ第壱支部のスタッフは全て本部に引き上げる。他の支部からも選別した優秀なスタッフのみを召喚。そして他支部の運営はここと松代を残して、全て戦略拠点化する布陣を引く。一先ずはこれで今回の敵に対する布陣とします。」
「本気かね?国連の突き上げを食らうぞ。」
「いや。その位ならば何とでも出来る。今はここを落とさせる訳にはいかん。」
「えぇ。敵の言葉を全て信じる訳でも有りませんが、しかしここが目的である事は明らかです。」
 だが、【エホバ・チルドレン】と名乗る彼等が、ここに一体何を求め、何の目的を持って攻め込んで来るのかが解からない。尤も、その前に敵の姿形さえはっきりしないのだが。今それを思い悩んでも致し方あるまい。
「次に、件の魔術に付いてですが、これはティア・フラット総帥自らが陣頭指揮に立ちます。現状彼女以上の魔力を持った人間は現存しません。そうなれば彼女に一任するしかないのですが。」
「しかし今彼女は第壱支部を離れられんだろう?」
 冬月がぼやく。まぁ、言ってる事は尤もなのだが。
「えぇ。そこで第壱支部の引き上げまでの代行者を本部に召喚しようと思っています。実は私の伝手なんですが…」
「君が?よくそんな知り合いが居たものだな…で、何者だね?」
「はい。高野山総本山金剛峯寺の坊主で名は霊丈。本名は佐沼ヨウキチ、三十一歳。若いですが業界ではやり手です。真言密教の総本山、つまり政府お抱えって奴です。実力と信用は保証します。そこの大僧正にも顔が利きますから、いざとなれば追加徴用も可能でしょう。尤も呪術戦争なんてぞっとしませんが。」
 加持の冗談に冬月が軽く溜息を付く。こめかみを押さえて唸る化学の徒には、さぞ理解し難い分野であろう。ゲンドウは暫しの沈黙の後、素っ気無く答えを返した。
「…構わん。君に任せる。」
「了解。今日中に召喚状を発布します。話は通してあるので三日後には着任するでしょう。そのまま作戦部顧問に就けるのが宜しいかと。」
「あぁ。」
「次に人的戦力の組織化です。これに関しては人員補強がアーカムから為された時点で、員数的には足りていますが未だ完全に組織化されてはいません。最終戦の二の舞は御免ですしね。前述の対組織に付いても何時追い詰められて行動を起こすか分かりません。そうなれば真っ先にターゲットとなるのは…」
 ぴくりとゲンドウの眉根が動きを見せた。流石に可愛い娘に事が及ぶと尋常ではいられないらしい。
「チルドレンか。で、どうする?」
「こちらも信頼出来る人物を選出しました。後藤ケンジ、三十一歳。戦略自衛隊陸軍本部少佐を筆頭に、同小隊所属者二十三名。こちらも話は通してありますので何時でも召喚出来ます。俺や葛城、奥さんの同期生です。札付きの悪で戦自でも煙たがられていますが、信頼は置けます。実力も折り紙付きですので、現場指揮には適任でしょう。」
「戦略自衛隊からっ?!大丈夫なのかっ?もし今内部崩壊など起こせば…」
 憤る冬月に一発で効く安定剤を打ち込む。
「御安心を。何せこいつ最終戦で任務サボりましたから。」
「………それはそれで不安だが?」
 流石に呆れたのか冬月がじと目で加持を睨む。別に効いてはいなかったが助けは呆気なくゲンドウから得られた。
「構わん。召集したまえ。」
「了解。こちらも直ぐに着任させます。」
 加持は一息付いて、最後の仕掛けに入る。下では既に爆竹をばら撒いて来た。中に一つだけ混じっていた打ち上げ花火が爆発している筈だ。勿論、ミサトの事だが。さぁ。碇司令…御覚悟を…
「それでは、彼等の扱いに付いてはこの形で。」
 そう言って一枚の書類を提出する加持。これこそWildCatの仕掛ける最後の打ち上げ花火である。
 ゲンドウが暫し書類を眺め、冬月もその後ろから覗き込み、暫しの静寂の後二人は顔を見合わせた。
「保安部に特殊警備班を設置し、そこに先の戦自の連中を宛がうのは構わん。権限と任務も承認しよう。だが何故零班の責任者が不在になっている?」
「先の、後藤とか言う男に任せるのではないのか?小隊の指揮者なのだろう。」
 二人の、仕掛け通りの反応に心の内でガッツポーズを取り、導火線に火が点いた事を確信した。
 加持は微笑浮かべ口を開いた。
「実は、後藤よりも適任者がいまして。一足早く連れて来ています。」
「部外者を、ここに入れたのか?…何者だ?」
「入れても宜しいですね?」
 ゲンドウの不審な表情と冬月の幾分憤慨した様子の言葉を受け、加持は有無を言わせず執務机のインターホンを使い目的の人物を呼出した。
「待たせたな。いいぞ、入ってくれ。」
 加持の言葉に返事は返らず、ドアノブががちゃりと鳴ったのが、唯一の返事だった。
 外からの光を受け暗い室内に入り込む男。背は高い。180は近い。ゲンドウといい勝負だ。体付きはしっかりとしていて、真白なカッターシャツとジーンズという簡素な服装。ざっくりと伸びた髪が表情に影を作り彼の顔を判別し難くしている。
 ゆっくりとしかし規則正しく歩を進め執務机へと直進して来る若い男は、やがてゲンドウ達の視界に射し込む照明を受け、足下から徐々にその姿を顕わにしてゆく。
 徐々に鮮明となるその青年の顔に、ゲンドウの視線が絡み付く。
 そして彼が完全に照明の中に姿を現し、机の真正面に立ち止まった瞬間、
 ゲンドウの瞳は大きく開かれ、その顔に釘付けになっていた。

「………シ…シンジ………なのか?………」

「………ただいま。父さん………」

 碇シンジは柔らかく微笑浮かべ、父に極々普通の帰宅を報告する。
 ゲンドウはふらふらとシンジに向かい歩き出し、殆ど父と変わらなくなった背丈をシンジは意識していた。

 『父さんの背…追い越しそうだな。あんなに大きかった筈なのに…』

 あの日知った弱き父は、今までの威厳さを微塵も残さず、あの時のままでそこに居た。目の前のゲンドウは恐る恐るその両の手を伸ばし、そしてシンジを抱き止めた。シンジにとって始めての父の抱擁であった。

「………シンジ……済まなかった………」

 あの日と同じ父の謝罪。しかしあの時の比では無かった。ゲンドウは涙していた。噛み締める嗚咽。シンジの不在があの父をここまで変えさせたのか。それともこれが本来の父の弱さなのか。どちらにせよ。ただ素直にシンジは喜んだ。サードチルドレンでも無く、計画遂行の為の手駒でも無く。唯一、碇シンジとしてを欲してくれた父。それが喜べない筈は無かった。

「……シンジ…よく、戻った……」

「…うん。」





 最も長く放心していた冬月が、自分の事を棚に上げゲンドウをからかっていた。
「お前も所詮人の子か。ようやっと報われたのだ。恥ずかしがる事は無かろう?」
「……う、五月蝿い、冬月……」
 感情のまま抱き締めてしまったのは紛れも無い事実であり、何処ぞから取り出したデジタルハンディカムカメラで加持がバッチリ現場を押さえていた。勿論、一連の悪巧みのシナリオもカメラの支給も、アーカム財団総帥からの御達しである。加持が喜んで受けたのに対し、シンジが渋々付き合ったのは言うまでも無い。
「しかし…よく無事で戻ってくれたな。シンジ君。私からも礼を言うよ。」
「そんな、副司令。僕が勝手に決めた事ですし…加持さんはその手伝いをしてくれただけです。実際、あの直後に僕の存在がここにあっても良い事は無かった筈ですから…」
「だが、一言言ってくれれば我々とて…」
 些か負い目を感じ言い淀む冬月。四人は応接セットで向い合っていた。この広い執務室には幾分不釣合いではあるが。
「いえ。僕も…最初は逃げただけでしたから。加持さんと話す内に、自分のやるべき事を自覚出来ただけで。」
「ま、昔話は後でゆっくりして下さい。今は此方の方が優先度が高いんでね。」
 加持の促しにゲンドウがその本来の職務を全うし始める。何より、今の彼は唯一の息子の安否を知る事で、知らずその意欲を漲らせていた。
「先程適任者だと言ったな?加持一尉…シンジが、そうだと?」
 一瞬加持がシンジに確認の視線を送る。シンジは頷き、加持は再び書類、と言うよりはファイルその物を取り出した。今までの物より数段厚く、その量も多い。それはシンジが戻る時の為にと加持が書き溜めていた、シンジの経歴書であった。
「公式に失踪してから今までのシンジ君の経歴です。細かい所は省いて概略だけ報告します。シンジ君は今まで俺の伝手でSPRIGGANのある一人に保護されていました。」
「なっ!?何だとっ?!」
「……ティア嬢は何も言っていなかったぞ?」
 驚く冬月とゲンドウの脳裏に浮かんだのは裏切りの文字。が、それは早とちりと言う物だった。
「当然です。そのSPRIGGANは総帥に今まで知らせていませんでしたから。彼女が事実を知ったのは我々が第壱支部に入った一週間前です。我々がこってり絞られた程ですよ。」
 くすくすと笑うシンジ。面会のあの日無事生き残ったのはシンジだけだ。その事を思い出し少しだけ苦い顔を浮かべた加持は振り切る様に話しを進める。
「そして本人の希望によりシンジ君は彼から戦闘訓練を受けていました。SPRIGGANでもトップの男の手解きを受けたシンジ君の戦闘能力は、Nervの保安部が束になっても勝てはしないでしょう。実際見て来ましたんでね。」
「それ程までにかっ…」
 驚愕する冬月にシンジが照れ臭そうにして微笑んだ。
「そんな…煽て無いでよ、加持さん。」
「事実だろ?」
「…シンジ…」
 ゲンドウが幾分厳しい目付きでシンジを見据えた。シンジは、その意図を既に分かっていた。
「…人を殺したのか?…」
 予想通りの質問にシンジは僅かに瞼を閉じ、静かにゲンドウを見据え返す。その目は戦士の物へと変化していた。最早父は恐れの対象では無かった。ただ、信頼を裏切る事になるのでは無いかと、それだけが不安の種であり、しかしその程度で揺るぐ意思でもなかった。
「そうだよ。」
「………………」
「……父さん。これは僕が望んだ事だ。僕はサードインパクトの要になった。望むと望まざるとね。そしてね、父さん。僕は確かに一度、全ての人間を、殺したんだよ。それは一番自分がよく知っている。勿論無駄に命を刈り取る事なんか僕には出来ない。でも、僕は僕の大切なものを守る為なら、今更人を殺す事に躊躇はしない。」
「……シンジ…」
「謝らないでよ。言っただろ?これは僕自身が決め、僕自身が望んでやっている事なんだよ。」
 一度も視線を反らす事無く言い切るシンジに、逆にゲンドウは黙り込み言葉を捜し、暫しの沈黙の後重い口を開いた。
「……強くなったな…シンジ…」
 シンジはそれに答える術を持たない。ただ柔らかく微笑んだだけ。そう…ゲンドウが知る何時かの妻の様に。だがシンジは自分が強くなったとは微塵も思っていない。これはただ技術を身に付けたに過ぎない。真に強くなるとは、心が何物にも揺るがない事だとシンジは思っていた。そういう意味では自分はまだまだ弱いと思っていたから。
 加持は少しだけ声のトーンを上げて場の雰囲気を入れ替える。
「そう言う訳でシンジ君には零班を任せたいのです。勿論サードへの復帰も必要になるでしょう。でもチルドレンの護衛はどうしても周囲からのガードが中心になります。そこにシンジ君の戦闘力を内側から固めれば…」
「成る程。二重の構えと言う訳か。」
「はい。もし万が一チルドレンが警備から分断されたとしても、ターゲット自身のシンジ君が予想外の行動に出れば、敵の撹乱にもなります。」
「ふむ…いいのでは無いか?碇。」
「…あぁ……シンジ。レイとアスカ君を守ってくれるか?」
「勿論だよ。僕はその為に帰って来たんだから。守りきって見せるさ。」
「…頼む。」
 加持が少しおどけた口調で今一つの手札を披露した。
「もう一つ。シンジ君は既にケンブリッジ、オックスフォード、MITの三校を飛び級で卒業してます。最もこっちはアーカムの賢者殿直伝ですが。オックスフォードでは、国際法に関する博士号も取っています。偽名登録してありますがそちらは時期に応じて変更可能です。」
 賢者殿とはつまり賢者の石ことオリハルコンの権威メイゼル博士の事である。二人が知る筈も無いが。
 流石にこれには冬月もビビっていた。つまりシンジは何時かの教え子同様、碇博士と呼ばれても可笑しくない訳である。
「そこで司令、シンジ君には話してあるのですが、これは俺と総帥からの提案です。」
「…何だ?」
「シンジ君を…Nerv総司令の後継者にして見ませんか?」
 些か驚きを覚えたゲンドウだが、しかしシンジの経歴を考えればそれも悪くは無い。いや、寧ろこれ程適任は居ないだろう。世襲制と言う事は全く無いが、世界を救ったシンジならばその意義は十分にある。その実力が伴うならば尚更だ。
 シンジが加持の後を続けた。
「勿論、今は問題が山積みだから直ぐには無理だけど、僕はやってもいいと思ってるよ。何より、皆を守る事が出来るだろうしね。」
「……分かった。考えておこう。だがもしやるならば、お前がやらねばならん事は山程あるぞ?」
「うん。宜しく、父さん。」
 ここへ来て漸く微笑んだゲンドウ。息子が自分の後を継ぐ。しかも自分の意思で。結構いい物だな…ユイ、我々の息子はこんなにも大きくなって帰って来たぞ…
「加持一尉、君を今日付けで二佐に昇格させる。予定通り冬月の兼任を解き、後任として加持二佐の情報調査部部長着任を命ずる。」
「了解。」
「碇シンジ。本日付けで生存を確認、同日Nervへの配属復帰。一尉とし戦術作戦部零課、初号機専属操縦者サードチルドレン再任。及びエヴァンゲリオンパイロット部隊零課課長に任命。同時に極秘任務として保安部警備局、新設零班に配属。碇シンジ一尉に班長を命じる。…やれるな?」
「了解。」
 真剣に拝命を受けた顔からは一転、加持が一先ずはここまでと言った態で立ち上がる。
「さて、急ぎの報告はこんなモンです。そろそろ下に行かないと収拾付かなくなるでしょうから、急ぎましょうか?」
「???」
「……何かやって来たのか?」
 首を傾げる冬月と、訝しむゲンドウ。加持はにやりと口を歪めシンジは深く溜息を付いた。
「そりゃぁもう。色々と。」

 にやり。伝家の宝刀が牙を剥き、今正に下々の者を切り倒そうとしていた。

「ふっ…問題無い。私に任せろ。」

 冬月とシンジだけがその苦労の煽りを食って溜息付いた。










七.






 『地獄絵図』を知っているだろうか?
 正にそれに匹敵する。今の発令所は。

『第三層Cブロック確認出来ません。』
『第四層Aブロック同じく確認出来ません。』
『第一層から二層各ブロック警備からは依然異常無し。』
『ジオフロント森林A~F区、絨毯捜索するも発見出来ず。』
『第1ケイジ異常無し。』
『カートレインホーム封鎖完了。異常ありません。』
『第五層男子トイレは誤報でした。』

「葛城さん、やはり既にジオフロントから出たのでは?」
「それは有り得ないわ。少なくとも最後の発見者であるリツコの時間から考えれば、本部出口を封鎖した時間までに脱出は不可能よ。」
「やはり幻覚だったのでは、葛城二佐?」
「それこそ有り得ないわ。職員全員が目撃してるのよ。」
「あのっ、集団催眠って知ってます?」
「でも、シンジ君が戻って来たとして出てこないのは何故?論理的では無いわ。」
「だって、シンちゃんシャイだもの♪」
「あのぉ~…集団催眠……」
「第三層全ブロックチェック完了。駄目です。見付かりません。」
「…しゅうだん……」
「絶対に何処かに居るわっ!何としても探し出すのよっ!!」
「「「「「「「「「「おぉぅっっっ!!!」」」」」」」」」」

 誰一人この事態を異常だと認められないのが、既に異常である。
 若干一名無視されているが。
「何をやっている。」
 トムソンガゼルが群れ生した狩場に、突如現れた百獣の王ライオン。発令所に現れた冬月の客観的視点で脳裏に浮かんだ状景だった。勿論ガゼルはミサト、リツコ含め以下職員。ライオンはゲンドウである。ゲンドウの髭が鬣に思える。旨そうな餌を目の前に野獣の目と化していた。凝りんな、お前も。しかし、葛城君はともかくリツコ君までこの状態とは。シンジ君の存在はNerv内でも、知らぬ間にここまで大きくなっていたと言う事か。
 背筋をぴんと伸ばし厳格な視線を周囲に撒き散らすゲンドウと、呆れ切った様を微塵も見せずに何時も通り男の後ろに付いて入室して来た、Nervの良識冬月コウゾウ。
 始めに明言しておこう。この騒ぎは葛城ミサト二佐の完全な越権行為である。だが、ここにいる職員の誰一人その事実に気が付いて居ない。
「司令っ!?シンジ君がっ、シンジ君がこのジオフロントの何処かに居ますっ!!」
「ほぅ。で、仕事はどうした。」
「司令っ?!シンジ君ですよっ!?」
「葛城二佐。今が一体どういう状況か解かっているな?何時来るやも知れぬ敵に備え一刻も早く奴等の正体を掴み、対抗手段を確立せねばならん。そんな事をしている暇など無い筈だ。」
「司令っ!?」
「あなたっ!!シンジ君が生きていたのかもしれないのよっ!?」
 憤るミサトとリツコを無視し、あくまで上司然とした厳格さを持って切って捨てるゲンドウ。先程自分が感動の再会に涙していた弱み等、当の昔に穴掘って地中深く埋めて無視である。
 どちらにしてもこの状況が良いと言う事は無い。ゲンドウの言う事は決して間違っている訳でも無く、今はこの場を鎮めるのが第一であった。その裏にゲンドウの凶悪なシナリオがあるとはしても。
 ゲンドウの威嚇を前にこの時点で大半の職員は、既に我に戻っている。残るは未だその熱冷め遣らぬ女傑二人。
「碇博士、君の今の仕事はここで時間を無駄に使う事では無い。【G】の受け入れ体制の整備と弐号機の修理、セカンドチルドレンの治療が君の最優先事項だ。やる事は山程ある筈だが?」
「し、しかしっ…」
「葛城二佐、これは明らかな越権行為である。君に特別条例A01を施行する。今直ぐこの戦闘配備を解きたまえ。」
「と、特例A01…って………い、いやぁああああっっ!!??禁酒は嫌ぁあああああっっっ!!!」
 新生Nerv改革時に一つの特別条例が組まれた。しかしそれはNerv内、しかもある特定人物にのみ効力を発揮し、ゲンドウと冬月によってのみ施行される。正式名称『葛城ミサト二佐お仕置き特別条例』。その筆頭規約が、A01。即ち一ヶ月間の禁酒である。よくこんな人間が作戦部長の役職に就いているものである。
 理詰めの正論に黙り込んでしまうリツコと、お仕置きに滝の涙で轟沈したミサト。ゲンドウの厳めしい表情が漸く発令所に静寂を取り戻させた。その様子に満足そうに口元を僅かに歪めたゲンドウ。ふっ…完璧だ。加持二佐め、こんな面白い事を隠し続けおって。そんな表情を傍観者に徹していた冬月が見逃す筈もなかった。碇め…相変わらずのシナリオ好きだな…これが可愛いというのかね、ユイ君?…今は亡き教え子の趣味に今更ながら嘆いていた。
 そしてゲンドウの『親馬鹿補完計画』と言う名の恐怖が始まった。
「皆揃っているから丁度いい。本日付けで冬月は情報調査部部長の兼任を解かれた。」
 ゲンドウの業とらしい口調に眉を顰め嘆く冬月。こんなのが天下のNerv総司令で本当に良いのだろうか?と疑いたくなった。一方唐突な話の流れに、未だ回復して居ない職員達が怪訝にゲンドウに視線を送った。何かに気付いた様子を見せたのは唯一シゲルだけだ。リツコは訝り、ミサトも放心したまま。
「後任を紹介しよう。入りたまえ。」
 申し合わせた様に…というか始めから仕組まれていた事だが。その影を見止めた途端リツコもマコトもマヤも職員達もその顔を蒼白にし、口をぱくぱくと喘がせていた。唯一シゲルが安堵の顔を浮かべ、唯一ミサトが地べたに突っ伏して放心し続けていた。
 呑気に発令所へ入って来た男は、予想通り呑気に不精髭を擦りながらのたまった。
「さっきまで威勢良かった割には、派手に潰れてるなぁ?葛城。」
 ぴくりと揺れる黒髪。呆然と見上げたその先に、此の世でミサトの一番大嫌いな顔があった。
「………嘘………」
「ちゃんと足はあるぜ?」
 片足上げてぺしぺしと叩いて見せ、死んだ筈の男―――加持リョウジはニカリと笑いかけた。
 のそりと力無く立ち上がり震える右手を男の頬へと吸い寄せる。男は只微笑んでその様子を見守り続ける。ミサトの指先が加持のだらしなく髭の生えた頬に触れた瞬間、その手は振上げられ激しく頬を打ち据えた。
 派手な破裂音の残響の中、男はその洗礼を浴びつつも笑みを絶やさず、女は震える全身で男を睨み据えた。
 何時までも続くかに見えた拮抗を男は静かに押し崩した。
「……ただいま。葛城……」
 強固に構えた牙城にあっさりと踏み込まれ、ミサトの震えは頂点に達し、その揺らぐ瞳から涙を流しながら男にしがみ付いた。
「………馬鹿っ……バカッ…ばかっ……ば、かぁ……この…大馬鹿っ………」
「あんまり馬鹿馬鹿言うなよ。ホントに馬鹿みたいだろ?」
「……ばかぁ……」
「ただいま。」
「……ばかぁ……」
 縋り付くミサトの頭を撫でながら、加持は未だ放心している親友へと目を向ける。
「よっ、リッちゃん。結婚おめでとさん。」
「…加持君…貴方……」
「ま、そう言う事だ。色々とやる事もあってね。」
 つまり…加持が存在を消してまで失踪した理由をほぼ察したリツコは、空かさず鋭い視線を夫ゲンドウへと突き刺した。びくりと反応するゲンドウ。心を許した人間にはとことん弱い男である。
「…あなた…知ってたのね?…」
 つかつかと言い寄って来る妻リツコの暗い波動にびびるゲンドウ。イ、イカンっ!?このままでは計画が…致し方有るまい…シナリオB-12ヘ移行だっ。直立不動のまま、唯一こめかみに流れる汗が彼の焦り具合を現していた。そしてゲンドウは時計を早めて最終指令を出したのである。
「さぁらにっ!」
 びくんと硬直させられる一同。一喝で人を緊急停止させられるとは大した技の持主である。その瞬間にゲンドウが勝利の確信をしたのは言うまでも無い。
「本日より戦術作戦部におけるEVANGELIONパイロット・チルドレンの配属を変更。戦術作戦部零課、エヴァンゲリオンパイロット部隊とし全チルドレンに辞令を命じる。」
 つまり今までミサトの直属部下であったチルドレンが、独立した所属になると言う事。だが指揮権は今まで同様変わらない。では、何故今更分ける意味があるのか?皆が不審にゲンドウを見やる中、王手が詰まれた。
「本日より着任する戦術作戦部零課課長を紹介しよう。入れっ。」
 ゲンドウが決まったぁ、とばかりに内心打ち震えていた所に横槍が入った。勿論、発令所の入口で待ち惚けを食っていた人物である。
「…父さん、わざとらしいんだよ。いい加減待たせ過ぎ。」
 うぐっと詰まるゲンドウと、良識派が増えてくれた事に喜びつつ、その様子に苦笑を漏らす冬月と加持を余所に、発令所は再び沈黙の館と化した。
 勿論。絶対居ると思い込んでいたのは全職員である。だが、それが何処か現状の不安を吹き飛ばす為の《お祭り》《馬鹿騒ぎ》であり、シンジが戻って来る事はもう無いと、皆が皆諦めの念を持っていたのは確かだった。それはミサトやリツコ、果てはゲンドウまでも同様の思いであったのだ。だからこそNerv自ら作り上げた『英雄碇シンジ』の虚像に縋り付く事で、皆を鼓舞し戦いを乗り切ろうと言う思いがあったのだ。シンジの残した世界を守る。それが今のNerv本部の末端にまで行き届いていた、脆くも強固な鉄の意志。
 そして…
 職員の一人一人を改めてゆっくりと眺め行く、弱々しい少年だった頃の面影を残した整った顔立ちの、父同様長身に育った体躯を持ち合わせた一人の青年。多少髪を伸ばし細身だが確りした体付き。精悍になった顔に昔と変わらぬ優しげな微笑。
 シゲルが唖然と震える指を指す。
 マコトが大口開けて驚愕している。
 マヤが漏れる喘ぎを手で押さえ震えている。
 リツコが呆然と、白衣を握り締める手に力込め立ち尽くしている。
 加持の肩越しに放心し縋り付いて見ていたミサトが、漸くそこを離れふらふらと歩き出した。
「……シン…ちゃん?……」
「……ただいま……約束通り、生きて帰って来ましたよ…ミサトさん……」
 シンジが帰還の報告をし、首に掛かった十字のペンダントを渡そうとした時には、走り出したミサトにがっちりと抱き締められ……否。もうミサトが覆い被される程シンジは小さくは無かった。逆にミサトを取り込む程に強く逞しくなったシンジの腕が、大声で泣き縋る姉を優しく抱き止めていた。
「シンちゃんっシンちゃんっシンちゃんシンぢゃんジンぢゃんジンぢゃんっぎっ…ジンぢゃぁぁん!!!!」
 涙としゃっくりと鼻水でぐだぐだになりながらも愛しい弟の名を呼び続けるミサト。
 一方で、自分よりも大分小さく見えるようになってしまったミサトの肩を抱きながら、優しく微笑み続けるシンジ。
 抱き合う二人の姿を見止め、漸く事の次第を把握し始めるリツコの思考。
「……シンジ、君……なの?……」
 シンジはミサトを支えながらも、頼り無く近寄って来るリツコに、以前と変わる事の無い笑みを向けた。
「ただいま。リツコさん。」
「シンジっ、お前には失望した。」
 唐突に茶々を入れあから様に憤慨して見せるゲンドウに呆れながらも、少し顔を赤らめてシンジは訂正した。
「わ、分かってるってば……た、ただいま……か、母さん…」
「……シ、シンジ…くん……」
 感極まって空いていた左肩に縋り付くリツコ。自分の居ぬ間に勝手に母の座に居座った自分を、最後の戦いの間際に自棄になってあんな酷い事をして別れたにも関わらず、何の咎めも無しに自分を母と呼ぶシンジに、リツコは唯泣く事しか出来なかった。有り難うと言いたくともしゃくりあげる喉が、それを許してはくれなかった。そんな自分が悔しくてまた泣いてしまっていたのだ。
「…シンジ君……良かったっ…」
 嗚咽交じりに安堵するマヤ。
「…シンジ君……」
 涙ぐみながらも笑顔見せるマコト。
「…シンジ君…良くぞ無事で…」
 自分の帰還に心より喜びを見せるシゲル。
「皆さん…心配掛けて済みません……ただいま…」
 漸くしゃっくりが引いたミサトがそれでも止まらぬ涙を湛え、シンジの大分大人びてしまった精悍な顔を見上げた。
「…シンジくん…」
 ミサトの呼び掛けに視線交わせるシンジ。その顔から笑みが消える事は無かった。
 何故ならミサトもまた涙に濡れながらも、その瞳を輝かせ微笑んでいたから。

「………お帰りなさいっ………」

 それはシンジが最も待ち望んだ、
 家族の証。

「………ただいま………」










八.






 鈴原トウジが一人本部までの道程をトレーニングウエア姿で額に汗しながら走って行く。
 今日午後二時から始まる強化訓練の為のウォーミングアップを済ませる為に、家から走ってここまで来たトウジだったが。
「あ、あかぁ~んっ…もう五分過ぎとるぅっ!?ミサトはんのお仕置き食らってまうっ!!!」
 目測を誤り明らかにオーバーワークと化したランニングをこなしていた。
 と、不意に目の前の本部へと続く並木道の先で、てくてくと歩く同年代の姿。それは後ろ姿からでも一発で判る人物であった。トウジが一気に走り寄り銀髪が目の前に迫ったその瞬間。
「ぬぁにのんびりしくさっとんのやっ!このスカたぁんっっ!!!!」
 何処から取り出したのか全くの謎だが、関西自慢の伝家の宝刀蛇腹ハリセンの、スピードに乗った鋭角的な一撃がその銀髪にジャストミートし、辺りに盛大な撃破音が響き渡った。騒音に驚いたのか小鳥達が木々から飛び立って行く。
 そんな午後の爽やかな日差しの中、首を九十度ひん曲げたままの銀髪小僧が爽やかな笑顔で囀った。
「やあっ、おはようトウジ君。朝から失礼だねぇ。」
「き、気色悪いやっちゃなぁ。それにもう昼やろ。」
「おや?可笑しいねぇ。朝に家を出てこっちに向かっていた筈なんだがねぇ?」
「まぁた迷っとったんかいな?それより気色悪いっちゅうに。」
「通りでさっきからお腹が鳴っている筈だよ。はっはっはっはっはっはっはっ。」
「そ、その格好で爽やかに笑うなっ。それより、もう二時過ぎとるやろうがっ!はよトレーニングルームに行くでっ!」
「おぉっ、そう言えばそうだったねぇ。あんまり陽光が気持ち良くて、本来の目的を忘れる所だったよ。」
「何でもええからはよ走れっ!そんなにミサトはんのお仕置きカレー食わされたいんかっ!?」
「おっと、それはいけないね。幾ら僕でもまた黄泉の国ヘ強制送還されるのは御免だからね。急ぐよっトウジ君っ!!」
 一瞬でごきゅっと異様な音立て首を元に戻し、駿足で並木道を駆けて行く変態銀髪、渚カオル。
「……あ、相変わらず気色悪いやっちゃなぁ……」
 激烈爆笑漫才を観客も居ない道端で繰り広げ、二人の少年は午後のジオフロントの日差しの中、本部への道を直走って行った。





「遅いわよっ!二人共っ!!」
 トレーニングルームに駆け込んで来た二人の少年を、待ち構えていた第一声が激しく二人を打ち据えた。ミサトである。
 室内には既にレイ、ジャンヌ、フランシス、レツ、ロバートの五人。そしてミサトとマコト、保安部の教官役二人が待ち構えていた。
「す、すんまへんっ。」
「早く来なさい。時間が惜しいわ。」
「は、はい。」
 特に御咎めが無いものの、何時に無く厳しいミサトの様に、幾分萎縮しながらもカヲルの後に付いて定位置に並ぶ。
 ミサトの厳しい視線がチルドレン七人を見回して行く。そうだ。これから自分達は今ここには居ないアスカに、少なくとも追い付くまでは訓練に打ち込まなければならない。そしてトウジは思うのだ。自分の大切な親友を待ち続ける少女の、否、既に自分にとっても親友以上の戦友となっているアスカを、完膚無きまでに傷付けてくれたあの金色武者の陰険野郎を、己の手で返り討ちにしてやるまでは、例えどんな苦行にも耐える腹積もりだった。
 その思いはトウジだけでなくチルドレンが皆同様に抱えている思いでもあった。
 ミサトの視線が一通り全員を眺め据えた後、さぁ始めるでっ。と気合い入れたトウジの意気込みを空振りさせた。ミサトが再び黙想に入って、その場で直立してしまったからである。マコトもまた同様に俯き加減に、手に持った今日のスケジュールが書いてあるだろうバインダーに視線を落とし、そのまま突っ立っている。
 再び静寂に包まれたトレーニングルームで、チルドレン達は互いに目を見合わせ、不審に囁き合った。
「おいっ…どないしたんや?始めんのかいな?」
「さあな…さっきまではお前等を待ってるからだと思ってたんだけど…違うっぽいなぁ。」
 トウジの囁きにレツが肩を竦めて答える。ロバートは何時もと変わらず黙想し直立のまま。
 フランシスとジャンヌがロバートを挟んだ反対側でひそひそと顔を寄せ合う。
「まだ誰か待ってるのかしら?」
「さぁ。ミサトさんの事だから、いきなり襲撃されたりしてね。」
「えぇっ?!こ、困る…私まだ全然戦えないのに…」
 ジャンヌの推察にうろたえるフランシス。実際、保護者兼上司の性格をここ一ヶ月に満たぬ生活の中で、彼女達は略把握していた。
 最悪の事態の回避方法を思案するフランシスが、先輩格である年下の少女に指南を受けるべく振り向いた先には、些か顔色の悪いレイがぼっと突っ立っていた。
「…レイさん?」
「………」
 辛うじて聞こえてはいるのか冴えない表情のまま顔を上げ、レイよりも頭一つ高いフランシスに振り向いた。
「……大丈夫?この前から調子悪そうだけど…」
「…大丈夫…眠い、だけだから…」
「寝不足?」
「……多分…」
 二人の会話の様子を横目で見やるジャンヌの瞳が、僅かに揺れたのを誰も知らない。最も細かい所に気が効くロイは未だ黙想して何やら思案している。
 そしてもう一人。渚カヲルは今一つの事に気を取られその様子に気付ける筈も無かった。カヲルの視線は無表情で、何処か厳しくもあった。何かを品定めする様に。だがそれも唐突に遮断され、カヲルの意識は現実に引き戻された。何故ならば…
「……っふ……くくくくくくく」
「……っぷ……ふふふふふふふ」
 不意に上がった堪え笑い。子供達全員の視線を集める中、発信源のミサトとマコトの笑いが止まる事は無く、むしろ拡大の一途を辿って行く。最後には…
「くくくくくぶわっははははははははははははははははは」
「ふふふふふひゃっははははははははははははははははは」
 何の前触れも無く馬鹿笑いを始めてしまった上司二人を、唖然と見やる7人の男女。
「ミ、ミサトはん?」
 何か可笑しな物でも食ったのかと、トウジが心配げに恐る恐る近寄るが、その前にミサトが悶えながらも言葉を生した。
「ひぃーっ、ひっ、もう駄目っ、耐えらん無いぃっっっっ!!」
「だ、だ、駄目ですよっ葛城さんっ…くっ、ぶっ…わ、笑っちゃ…ぶふっ」
 二人が馬鹿みたいに悶える中、カオルの視線は再び先の目的を注視し、トウジはミサト達の傍らで未だに直立したまま動かない…否、僅かに震えている二人の教官に漸く気が付いた。
 二人。二人共震えている。Nervのカーキ色のトレーニングウエアに身を包み、同じくNervの帽子を目深に被り、居たって“保安部の教官役”然としてそこに突っ立って、笑いを堪える様に打ち震えていた。
 トウジの視線に気が付いたのか。一人が僅かに視線をずらし俯いて表情を隠す。
 だがその瞬間。別の角度からその様子を見ていたカヲルは、その男の顔を見る事が出来た。だが彼はカヲルが見ていたとなりの人物ではなく、またその顔は予想外にありその瞳が驚愕の色に染まる。
 そしてもう一人……蒼銀髪の少女も。
 少女は何時もは見られない程の早さでその男に駆け寄り、厳しい表情のまま無言でその帽子を剥ぎ取った。
 はらりと。黒髪が零れ落ちた。
 レイの瞳は極限まで驚愕に見開かれ、彼女の時間は停止する。
 流れ落ちる柔らかそうな黒髪。繊細そうな眉。漆黒の瞳。すっきりと通る鼻梁。控え目な無垢の唇。男にしては綺麗な肌。
 そして、変わらぬ微笑。少しだけ照れる様に…
「……や、やぁ…綾波……」
「っ!?」
 一瞬にして引き戻され急速に流れ始める時の流れ。レイの身体はぶるぶると震え始め、やがてその紅の双眸から止め処無い涙が流れ始めた。薄っすらと桜に染まった震える蕾が、その隙間から掠れ混じりに名を呼んだ。
「………い、かり…くん…?………」
「…そうだよ…ただ…」
 シンジは最後まで言葉を紡げなかった。ふわりと蒼銀の綿毛が胸に捕り付いたと思った時には、レイに抱き付かれてしまっていた。シンジの両脇にしっかりと両の手を回し、二度と離すまいとしてその顔を胸板に埋め泣き始めたレイ。
 泣き震える細く頼り無い双肩にそっと手を添え、震える小さな頭に顔寄せそっと、脅かさない様に、静かに、
「……ただいま…綾波……」
「………………………」
 レイはこくりとだけ頷き、シンジから全く離れる事無く縋り泣き続け、シンジもまたそれを彼女の気が済むまでと許していた。
 一先ず彼女が落ち付くのを待ち侘びていた少年は、今一人の人物が再起動を果たしていないのを確認して、御先に失礼する事にした。驚きながらも冷静に事を見つめていたカヲルである。
「……シンジ君……」
「……カヲル君……」
 カヲルが真に心許している時にだけ見せる、奥深い微笑み。変わっていないその笑みにシンジもまた微笑を返した。
 使徒として本能のままに死を受け入れ、せめて最後の望みを己が認めた人間に適えてもらう事を切望した少年。望まれるままに友の命を刈り取り、その身を断罪の坩堝ヘと落とし込み行動する事無く、苦悩し続けた少年。時を隔て再会した二人の心の内に思う事は山程あれど、今は唯、感情のまま喜び合う事が最も正しい様に思い合っていた。
「…御帰り、シンジ君。何時か戻って来ると信じていたよ。」
「…うん。有り難う。君が戻って来てくれて良かったよ。カヲル君。」
「御礼を言うのは此方の方さ。僕をヒトにしてくれたのは他でも無い。君の願いなのだから。」
 御互いの手を硬く握り合い、再会を喜ぶ二人。シンジは僅かに首を降り再びカヲルの赤い瞳を注視した。
「でも、皆と、綾波と一緒に居てくれたんだろ?だから、有り難う。」
「ふふっ…相変わらずだね、君は。そうだね…僕も、有り難う。これ以上の喜びは無いよ。」
 爽やかな笑顔を交し合ったカヲルも、次の瞬間には少しだけ厭味な視線で、未だに立ち尽くしている不精髭を見上げた。
「何時まで惚けているつもりです?加持さん。」
 男は肩を竦めると帽子を取り、何時もと変わらぬと呆けた笑みを向けた。
「バレバレか。何、挨拶代りの御遊びさ。」
「そうやって本部内で遊び回ったんですか?頂け無い趣味ですね。」
「ま、そう言うな。元気出ただろ?」
 ニカリと笑う加持に、流石のカヲルも肩を顰めるしか返す事が出来なかった。
 一方で再会の様子を心底嬉しそうに眺めていたミサトが、いい加減固まったままのトウジに気付いた。にひっと悪巧みの笑みを浮かべ、こそこそとトウジの背中に回ると、大声を上げてその背に特大の張り手を食らわせた。
「なぁーにっ、ボヘっと突っ立ってんだっ!!鈴原トウジっ!!」
「ふげゃっ!!??」
 奇声を発してよれよれと歩み寄った先には、トウジが心の奥に置いて来てしまった筈の親友と言う絆。
「…トウジ…」
「……ホンマに…シンジなんか?……」
 ある意味カヲル同様救えた筈の命を、只失う可能性に脅え、結果削り取ってしまったシンジ。罪を問われ弾劾される前に逃げ出してしまった少年。そして親友の足を引っ張る事しか出来ず、結果全ての終焉で大事な物を失った事に気付いたトウジ。何時か戻るかもしれない友の為に、その大切な人を守ると誓った筈なのに、守り切れなかった少年。
「……シンジっ…済まんっ…ワイは…ワイは……」
「…トウジ……謝らなきゃいけないのは僕も同じだ…でも、僕はもう戻って来たんだから…」
「…シンジっ…」
「今は只、これからの事を精一杯やっていければ良い。都合良過ぎるかもしれないけど、過去ばかり振り返っても何も生まれない事は、確かだから…」
「……シンジ…お前は……」
「…だからトウジ……ただいま……」
 ぐっと堪えた涙を押し戻し、トウジは自分よりも遥かに強い思いを持って帰って来た友に、心から溢れ出る笑みを向けた。
「…センセっ!…よう戻って来たっ!!…待っとったでっ!!…」
「……うん。有り難う、トウジ……」
 差し出したトウジの手をがっちりと掴み、友情を確かめ合う二人を大人達が優しく見守っていた。
「これでまた連るめるのぅ。三馬鹿トリオの復活やっ。」
「おやっ?僕はもうお払い箱かい?」
 残念そうに嘆くカヲル。トウジはニタァと嫌らしい笑み深めカヲルの憂いの顔を覗き込む。
「お前は単独で馬鹿や。三馬鹿トリオは元々男の友情を示す高尚なモンやっ。お前の気色悪さしか示しとらんネオ三馬鹿トリオなんぞ、こっちから願い下げや。」
「ふっ…やはり君は失礼だねトウジ君。好意には程遠い。君は自分達が捨てられて、僕とシンジ君がゴージャス美男子コンビを組む可能性を考慮して居ないようだねぇ。」
「なんやそら。アカンアカンっ。シンジはワイ等の友情第一に思うとるに決まっとるっ!!」
「僕とシンジ君の深い絆は何人にも犯せはしないのさ。」
「イイやっ、ワイ等とやっ!!」
「違う、僕とだ。」
「ワイ等やっ!!」
「僕だ。」
「ワイ等やっ!!」
「僕だ。」
「ワイ等やっ!!」
「僕だ。」
「はぁいはぁいはぁい。そこまでっ。あんた達の気持ちは十~分解かったから。でもね?」
 延々と続くかに見えた漫才に終止符を打ったのは、本日の会合プランナー葛城ミサト。
「「?」」
「三馬鹿でも美男子でも構やしないけど、その前に真っ先に波及するんじゃない?」
「「はい?」」
「ほら。」
 ミサトが視線で促した先には未だ抱き合ったままのレイとシンジ。
「ラブラブファイヤー碇兄妹」
「「………………………」」
 正確にはシンジは只突っ立ってるのであり、レイがしがみ付いているだけだ。おまけにシンジはそろそろレイに離れて欲しかったりする。以前―――シンジの記憶の中にあるレイの弾力よりも、遥かにその柔らかさと厚みを増した物体が、先程から良い感じに押し付けられているのである。レイはレイで全く離す気配を見せるでも無し。
「い、いや…こ、これは……」
 久々に赤くなってうろたえるシンジの姿を見れて、満足顔のミサト。
「…う、うらぎりも~んっ…」
「…あぁ…シンジ君。君を信じていたのに…」
「ち、違うってばっ!?……あ、綾波?…そろそろ離れて欲しいんだけど……」
「………………………」
 レイが先程から全く動かないので仕方なく蒼銀の頭に向かって懇願すると、漸くその顔が持ち上がる……かに見えたが。
「…うっ!?」
 シンジがうめいた先には、目元だけ胸中からもぞっと持ち上げ、潤んだ瞳と虚ろな半眼と涙に濡れた、最終破壊兵器。
「………………………(たら)」
「………………………(じっ)」
「………………………(たらたら)」
「………………………(じーーっ)」
「………………………(だらだらだら)」
「………………………(じーーーーっ)」
 抱き合って見つめ合う男女の姿はある意味微笑ましいのだが、二人の背後に漂う気配が一種不吉な空間を形成していた。
 だが、何かを訴える様なレイの様子に逸早く気付いたのは他でも無いミサトだ。この手の事ではパパラッチよりも警察犬よりも鼻が効く。それが葛城ミサトだった。にた~り。
「あ~らっ、シンちゃ~ん♪リツコの事は『か、母さん…』なぁんて呼んであげたのに、レイの事は何で『あ、綾波…』なのかしらぁ~?」
「………………………(じーーーーーーっ)」
「………………………(だらだらだらだら)」
 態々声真似までして演じて見せるミサト。策士である。というか彼女の場合単なる本能に近い。
 当然この状況を楽しまない者はここには居なかった。
「おうっ!そやそや。もう『綾波』は『綾波』やのうて『碇』になったんや。それをシンジが綾波呼ぶんは変やのうっ。」
「確かに。シンジ君が同じ苗字の兄妹に向かって『碇』と呼ぶのも些か問題があるねぇ。」
「そうだぞシンジ君。覚悟を決めて名前を呼んでやれ。勿論、《さん》や《ちゃん》は無しだぞ?」
 容赦無く寝返る連中に、つくづく自分は虐められる役なのかと実感しながらも、レイに悪い事をしたと思い直していた。実際、今後レイの事を『綾波』等と呼べる訳でも無いし、かと言って同じ兄妹が『碇』と呼び合うのは不自然過ぎる。
 考えながら思わずシンジは、レイの瞳に吸い込まれるように魅入っていた。
「………………………(ぽっ)」
「…うっ…」
 最終兵器に更なるオプションが追加される。これで如何なシンジでも回避出来る訳があろう筈も無く。
「………レ……レイ………」
「(ぽぽぽぽ)………何?……お、お兄ちゃん……」
「ひゅーひゅーっ♪ニクイねシンちゃんっ!」
「ふっ…ジゴロの素質大なだ。シンジ君。」
「くうぅぅぅぅっ!シンジっ、ワイはお前を殴らないかんっ!殴らな気が済まへんのやっ!!」
「あぁ…シンジ君…そっちに行ってしまうんだね……僕の愛は受け取ってはくれ無いんだね…」
 呼び合った途端外野から怒涛の野次が飛んで来る。除け者にされていた四人は四人で、事情を知っている為か感動のシーンは黙って見守っていたし、今は今で最大の野次を飛ばし捲くっていた。流石にロバートが低くひゅーひゅー言っているのは恐い物があるが。
 真赤になったシンジが内心舌打ちしながらも、漸く本来の希望を伝えるものの…
「…レ、レイ…その、離れて欲しいんですけど……」
 そんな不届きな希望は、
「………………………………嫌っ。」
 適う筈が無かった。
 聴く耳持たないと言わんばかりに再びシンジの胸に顔を埋めて抱き付くレイと、成す術無いシンジにからかいの嵐が吹き荒れる。野次が止んだ所でレイが離れる筈も無かった。
 取り敢えず。レイが抱き付いているのは深い深い溜息と共に視界の隅に追い遣っておいて、シンジは先を促した。
「ミサトさん。そろそろ紹介してくれませんか?」
「あっ………ご、ごっめ~ん。シンちゃん虐めるのに忙しくてすっかり忘れてたわ。」
 堂々とのたまうミサトに誰もが呆れ暫し言葉を失い、仕方なく蔑みの視線を送るしかなかった。尤も。この中に最大級の突っ込みを入れられる容赦無い男が居たのが、ミサトの最大の敗因でもある。
「ミサトさんの責任感の無さ等今更問うまでも無いし、期待もしてませんから御心配無く。」
 ロバートだった。ミサトの天敵である。初日の大宴会以来、彼はミサトのずぼらさもがさつさも確りと認識し、その容赦の無い切り捨て方は大学以来の冷徹な友人さえ遥かに上回っていた。
「…………いいもーんどうせあたしなんかしきかんしっかくだもーんじょうししっかくだもーんほごしゃしっかくだもーんじんせいのせんぱいしっかくだもーんにんげんしっかくだもーんいいもーんいいもーんいいんだもーんひとりでもいきていけるもーん………」
 態々トレーニングルームの隅まで行ってどよーんと暗雲起ち込めさせて、ぶつぶつと皆に聞こえる様な囁きで床にのの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字のの字(延々リピート)
 だが。いじけて見せるミサト程度でこの男が引き下がっていれば、ミサトの天敵足る筈も無い。
「解かってるなら自粛する事です。尤も、それが出来ないからこその葛城ミサト二佐であると理解してますので、どうぞ御気遣い無く。ミサトさん。」
 レツが呆れた様子で横目にロバートを見つめる。
「お前ってほんっと、キッついよな?」
「あの人がいい加減過ぎるんだ。」
「………………………………(だ~~~~~~~~~~~~っ)」
 ミサト完敗。戦績は0勝28敗。一日二度は言い包められている。滝の涙を流し己の作り出した海に崩れ落ちた。誰もフォロー出来ないのが悲しい所である。
 勝利を収めたロバートがシンジに近寄り握手を求める。シンジよりも背が高い。痩躯に見えるがかなりの筋肉質。縦長の顔と切れ長の目。そして金髪。何時もは表情の変わらぬ彼が緩やかに微笑んだ。
「君の事は色々と聞いている。これからは仲間、かな?宜しく頼む。」
「あ、うん。えっと……」
「ロバート・シューマッハだ。ロイでいい。」
「僕もシンジでいいよ。宜しく、ロイ。」
 どうやら厳しいのはミサトに対してだけらしい。誠実で理性ある男なのだとシンジは記憶に収めた。
 続けてもう一人が手を差し伸べる。総毛立った茶髪に攣り上がった目。両耳のピアスがちょっと強面に見せている。顔立ちから察するに日本人だろう。シンジより若干低い背。華奢ではあるが肉付きは良い。
「宜しくなヒーローっ。俺は役レツ。レツで良いぜ。」
「ははっ…そんなんじゃないってば。宜しく、レツ。気楽に接してよ。」
「そうか?でもパイロットの中じゃトップなんだろっ?楽しみにしてるよ。」
「そんな事は無いさ。お手柔らかに頼むよ。」
 見た目程温厚でも無いだろうがきつくも無い。結構気さくで捌けた感受性の強いタイプなのだろう。
 入れ違いに近付いて来たのは、同年代にしては随分と大人びてしっとりした女性だ。正に御嬢様と言えるかもしれない。鮮やかな金髪は流れるようなロングヘア。ダークブルーの瞳と整ってはいるが、何処か幼い印象がする顔立ちだ。
「初めまして、なのよね?何時もアスカさんとレイさんに惚気られちゃうから、初めてな気がしないわ。」
「え、えぇっ!?」
 思わず何を言われていたのか聞きたくもあり、聞きたく無いような気もする。第一アスカが“惚気る”等、相変わらず鈍感なシンジに理解出来よう筈も無かった。
 慌てているシンジの元に更にもう一人の少女。薄いショートヘアの金髪が少しだけレイやカヲルを思わせる。一目で判る欧州系の整った凛々しい顔立ち。真白い肌にエメラルドの瞳が輝く。華奢な体系に大人びた身体が主張をしている。
「全くね。でも…アスカが本命だと思ってたのに、妹にまで手を出すなんて…ひょっとしてかなりのプレイボーイ?」
「そ、そ、そんな訳無いじゃないですかっ!?からかわないでよぉ…」
 女性には滅法弱い性質なのかもしれない。二人に更なる攻撃を受けて、改めてシンジは思い悩むのだった。
「あんまり虐めちゃ駄目よ、ジャンヌ。私はフランシス・フォーチュン。フランと呼んで下さい、シンジさん。」
「相変わらず自覚の無いぽけぽけなのねフラン。私はジャンヌ。ジャンヌ・D・メリフォード。宜しく、お兄さん。」
「よ、宜しく…」
 フランシスはどうやら自覚して居なかったらしい。その辺が“ぽけぽけ”なのだろう。成る程御嬢様と言うより箱入り娘っぽいかもしれない。案外想像力が強いのか、それとも天然でこうなのか判断しずらい所だ。
 一方ジャンヌは一見凛々しさ故に性格もキッチリしているかと思えば、合間に女性らしい仕種も見せる。とは言えやはり確りした外見と口振りの為か、そこには知性と良識が見て取れる。寧ろ彼女の方が本物の御嬢様然としているかもしれない。
「…フフッ…Nervも随分賑やかになったって事なのかな?」
 一通り紹介が回った所でシンジ感想を述べる。実際、軍事機関にここまで子供が重要度を占めて、配備されて居る事は滅多に無い事で珍しい。最もそれは公の組織に置いてだが。シンジは実際様々な形で犠牲になって、戦場で死んで行った子供達を知っている。それは見るも無残な光景であったし、そう言う意味ではまだNervは救われている。皆が笑っていられるのが良い証拠だ。
 シンジの呟きにけたけたと笑いながらトウジが答える。
「せやな。実際惣流とミサトはんとリツコはんはいっつも喧しいで?」
「そう言う君もかなり自覚が足らない様だね。」
 カヲルが正論なのではあるが要らぬ茶々を入れた。
「ぁんやとっコラッ変態ホモッ!?」
「フッ…僕に勝負を挑もう等…万死に値するねぇっ…」
 びしびしと火花散る二人のガンの飛ばし合いが始まり、
「おい…もう機嫌直せよ…いい加減でもちゃんと俺が面倒見てやるからさぁ…」
「…い~も~んい~も~んい~も~んい~も~んい~も~んい~も~ん…」
 加持がフォローになって無いフォローでミサトを追い詰め、
「……訓練……どうするんだろう……」
 忘れられたマコトが濁涙に嘆き、
「…そ、そろそろ離して欲しいんですけど…」
「………………………………………ヤッ。」
 抱き付いたまま離れないレイに、シンジの下半身がそろそろヤバかったりと、
 まぁ絶望的な戦況の真っ只中にしては随分と赤抜けている。
 たった一人の戦線復帰だが、実際チルドレン中最強の誉れも高いシンジの帰還により、今日一日Nervが活気に湧いていたのは事実だ。そこにどんな未来が待っていようとも。
 そんな微笑ましい様子を四人の男女は温かく見守っているのであった。











…さて。どういう事なのかしら?説明してよ。彼じゃないの?…


…明らかに異なる上に、またもイレギュラー…


…とことん無能だったと言う事か?それとも、これもプログラムの内か?…


…両方よ。目を凝らしてよく見なさい。確かに彼は違うけど…





…ふぅん。そう言うこと…


…御方は確かにここに来る、その予兆と言う訳か…


…だがタイミングもずれる。イレギュラーもまた確か…


…一体どうなってるのかしら?…





…まさか、介入する者が?…


…有り得ん話では無い…


…だがシステムは修正不可能だ…


…でも、何事にもズレは生じるものよ…







…厄介なものね。それってまるで…


…歴史は繰り返されるものだ…


…だが我々はあの御方に従うのみ…


…えぇ。何があろうとも…





…それが、我々の定め…











九.






 …気持ち悪い…

…何故?…

 

シンジが首を締めてるから。

 

…何故?…

 

アタシを殺そうとしてるから。

 

…何故?…

 

アタシを受け入れないから。

 

…何故?…

 

アタシを見ないから。

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

知らない。

 

…何故?…

 

私はシンジの事何も知らない。

 

…何故?…

 

私がシンジの事を見ていなかったから?

 

…何故?…

 

私がシンジを受け入れていなかったから?

 

…何故?…

 

私がシンジを虐めたから?

 

…何故?…

 

…私は一体…

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

…分からない…

 

…何故?…

 

分からないわよっ?!

 

…何故?…

 

だって知らないものっ!

 

…何故?…

 

アイツの事なんて知らないっ!

 

…何故?…

 

こんな気持ち知らないっ!

 

…何故?…

 

私知らないもんっ!?

 

…何故?…

 

知らないわよっ!?分からないわよっ!?

 

…何故?…

 

…何で…

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

…だってこんな…

 

…何故?…

 

ざわざわするの…

 

…何故?…

 

気持ち悪いの…

 

…何故?…

 

……でも

 

…何故?…

 

暖かいの…

 

…何故?…

 

ドキドキするの…

 

…何故?…

 

こんな気持ち知らない…

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

………………

 

…何故?…

 

…多分…

 

…何故?…

…気持ち良いの…
 子供だったのだと、つくづく思うのだ。
 これが夢である事は分かっている。でも紛う事無き事実でもある。
 ぬいぐるみを抱えて泣き叫ぶ幼い自分が、EVAに縋った自分を現していた様に。この夢ではあの日の自分が、今の自分であると、そう自分が何処かで言っているのだろう。得てしてそう言うものだ。
 暗闇で泣き叫ぶ自分。それが今の自分。幾ら明るく振舞っていても。自分は幸せであると己を誤魔化していても。
 かと言ってそれが誤りであったとは今更思わない。ただ、何が悪かったのであろうと、何時も悩まされる。
 彼と言う存在を失った事実を知った日。あの時自分は何故にあれ程動揺したものなのか。
 『………ウソよ、なんで………なんでシンジが、死ななきゃいけないのよ……』
 何をそんなに悲しんだのか…
 自分はあの紅い海の砂浜で、あれ程アイツを拒絶した筈なのに。最後の戦いの中で、白い悪魔に蹂躙され犯される中で、あれ程アイツを憎んだ筈なのに。自我崩壊し意識を閉ざす直前は、本気で殺してやろうかと思った程なのに。
 それが原因では無かったのは明確だ。あの時にはもう自分もアイツも、もう誰も彼もぼろぼろであったのだから。只、坂道を転がり落ちて行くが如く。
 では何処にこうなる起因があったのか。自分は何を思って彼を拒絶したのか。
 確かに、アイツが自分のシンクロ率を抜き始めた時期に、自分がどんどん嫌な女になって行ったのは分かってる。でもそれは自分がEVAに依存していた為であり、母への思いと自分の価値を失う事の恐怖に、ただ脅えて反発していただけ。でもそれだけでアイツにあそこまで当たるなど、自分の行動としては理不尽過ぎる。彼の何がそんなに私は気に食わなかったと言うのか。
 ふと思い出したのは…何時の日か見た駅のホームに居たレイとシンジ。Nerv帰りなのか何かを楽しそうに話するシンジと、無表情なのに何故かそこに幸せを感じている彼女の表情を読み取ってしまった自分。
 …嫉妬?…私が?
 ………
 いや、そうなのだろう。あの頃は自分の気持ちを正直に曝け出す事が、事の他嫌で仕方なかった。自分の弱みを見られるようで。何より自分は一人で生きていくと誓ったにも関わらず、何処かで人の温もりを求めていた弱い自分を、認める事が出来なかったのだ。だから自分を差し置いて楽しんでいるアイツが、温もりを得て幸せそうにしているアイツが嫌で嫌で仕方なかった。自分から逃げて行くアイツが許せなかった。
 自分では何もしなかった癖に。ただ求めていただけの癖に。
 幸せの形を知らない。幸せの得方を知らない。幸せをどう受ければ良いか解からない。
 何故今は分かる事が、あの頃は分からなかったのか?あれ程嫌ったのか?
 居間でチェロを弾きながら佇むシンジを、素直に誉めた自分。何故だろう?何故あの日に限って素直になれたのは。
 多分、あの頃は同居が楽しかったのだ。徐々にシンジの良さが見え始め、でも素直に誉めるなんて恥ずかしくて。でもたった二人きりの、二人の居る空間で。だから言えたのだろう。キスしようなどと。終わった後はシンジに対する恥ずかしさで、うがいして虚勢を張って誤魔化した。それがシンジを傷付けていたに違いないと気付いたのは、戦いが終わった後の事だ。
 何故同居する気になったのだろう?ユニゾン訓練は確かに必要に迫られてやった事だが、まさかそのまま居付くとは思いもしなかった。何がそれ程気に入ったのか?アイツはどん臭いし、根暗だし、良い事など無いとあの頃は思っていた筈。
 だが。気分は良かったのだ。何故だろう?傍に人がいる事が嬉しかったのだろうか?『ただいま』の言える場所があり、『お帰り』を言ってくれる人がいる事。温かいご飯を作ってくれて、そのどれもが美味しくて。嬉しかった癖に虚勢張って誤魔化して……そうか……つまらない生き方をしてたものだ。私は……
 あ………そうか…来てくれたからだ………あの灼熱の絶望の中で、何の装備も無しに危険を顧みず自分を助けに来てくれたアイツ。そうか…私、だから嬉しかったのか……だから一緒に居たくなったのか……
 何だ。
 私は始めっからアイツに心奪われていたんじゃない。
 始めて会ったあの日。太陽照り付ける甲板の上で、アイツを見た時の第一印象。
 『冴えないわねぇ…』
 ウソツキ。ホントは優しそうで、今まで私の周りには居ないタイプで、ちょっと良いかなって思ってた癖に。そう思った私が言ってるんだから。始めての同年代の異性に少しだけドキドキしてた癖に。共に乗り込んだ弐号機の中で、触れ合う肌と掛かる吐息に、自分がドキドキしてるのをアイツに知られたくなかっただけの癖に。
 私は始めから気付いてたんじゃない。アイツを…一目見た時から…
 …ははっ…
 何だ…アタシってば、あった瞬間にビビッと来ちゃってたんだ。
 ………………
 …馬鹿だな…アタシ……何で素直になれなかったの?
 そうすればシンジを虐める事なんか無かったのに…
 そうすればシンジに八つ当たりする事も無かったのに…
 そうすればシンジを嫌う事なんて無かったのに…
 そうすればシンジに敵意を持つ事なんか無かったのに…
 そうすればシンジが逃げていく事なんて無かったのに…
 そうすれば………
 ………………
 …シンジを失う事なんて無かったのに…
 …こんな寂しい思いをしなくて済んだのに…
 …馬鹿…
 …バカアスカ…
 …ホントにバカだ…
 …バカはアタシだ…
 ………………
 …寒い…
 …寒いよ、シンジ…
 ………………
 …もう嫌だ…
 …アンタが居無くちゃ…
 …アンタじゃなきゃ私はずっとこのまま…
 ………………
 …そんなの嫌だ…
 …もっと一緒に居たかったのに…
 …ずっとずっと一緒に居たかったのに…
 …今なら言えるの…
 …今ならもっと素直になれるの…
 …だから…
 ………………
 …だからシンジ…
 ………………
 …御願い…
 ………………
 …おねがいよぉ…
 ………………
 …戻って来てよ…
 ………………
 …帰って来てよぉ…
 ………………
 …しんじぃ…
 ………………





あ………

きもちいい……
 アスカを包み込んだ温もりが唐突に消えかけて、またおいて行かれるのが嫌で嫌で、アスカはその温もりを逃がすまいとして飛び上がった。
 瞬間に激痛。声も出ない。
 小さく浅く呼吸を繰り返し、硬く握り締めているのが自分に掛けられていたシーツだと気付くまでに暫し時間が掛かり、自分が今病室でベッドの上に寝かされたいた事を知るまでにまた少し時間が必要であった。
 呼吸が漸く落ち付いて来た所で、自分があのキザな男の金色のEVAにやられたのだと思い出す。情け無い。感情に任せて特攻した挙句これでは、何がエースパイロットか。自分はあの頃と何等変わる事も出来ていない。
 結局自分は、シンジが居なければ何も出来ない弱い女だったのか。
 かと言って今から頼れる訳もで無い。今更シンジが戻って来る筈も無い。アスカはあの時の最後の言葉が、シンジを絶望させたのだと思っている。もしくはそれが自分に対する踏ん切りが付いた瞬間だったのではと。終焉を迎えた世界に絶望したシンジが、自分を殺して己も…と思っても可笑しくは無い。否、寧ろ自分に対する憎悪と恐怖からか。そしてアスカはそんなシンジに止めを刺したのだ。たった一言で。だが少なくとも、シンジが自分を憎んでいるとは思わなかった。でなければ最後の涙も、自分を殺さなかった事も説明が付かない。只少なくとも、もう二度と自分の前にシンジが現れる事は無いだろうと、アスカは思っていた。
 それが無性に悲しいのだ。今の自分はあの頃の自分を何度も思い返し、そして自分の気持ちに整理を付け、漸く人との付き合い方を覚えたのだ。今自分が不幸であるとは思わない。寧ろ幸せであると言える。たくさんの仲間が居る。心許せる人も居る。皆が自分を愛してくれていると分かる。だが。何処かにぽかっりと風穴が空いたままになっているのも確かであった。
 それが何であるのか。アスカにはもう分かっている。
 だからこそ、思い出す度に涙を流す。悲しみに暮れる。絶望に打ち拉がれる。後悔に暮れる。
 何故…
 何故自分はあの時あれ程頑なに他人を受け入れなかったのか。
 何故もっと理解しようとはしなかったのか。
 何故もっと素直になれなかったのか。
 悔しさと、どうにもなら無い焦燥感と、只悲しみに暮れる蒼い眼…
「…っ…ぅぅっ…」
 帰って来て欲しかった。今なら素直になれるのに。
「っぅっ…うぅっ…っぐっ…ぅぅ…」
 戻って来て欲しかった。今なら伝えられる言葉があるのに。
「ぁぁっ…ぃ…っうぅっ…ぅくっ…」
 あの笑顔が欲しかった。今なら笑顔を返せる気がするのに。
 押し殺したうめきと止め処無い涙に濡れながら、愛しき人の名を噛み締めるのが精一杯だった…
「…ぅぐっ……しんじぃ……」





「ほらっ。寝てなきゃ駄目だよ…」

「………………………………」





 不意に掛かった呼び掛けにうめきがぴたりと止み、ずっと蹲っていた顔がゆっくりと降り返った。
 涙にぼやけた視界の中、黒髪黒目の青年が静かに、只静かに座り自分を覗き込んでいた。
「………………………」
「………………………」
 どんなに求めてももう二度と手に入る筈の無い笑顔。それが其処には在った。
 記憶に在るよりも少し伸びたが変わらぬ艶の黒髪と、記憶に在る造りよりも大分大人びた顔と、記憶とは全く違う長身で逞しい痩躯と、記憶と変わらぬ黒曜石のようにきらきらした瞳が、アスカを優しく見守り包んでいた。
 アスカはこれが夢であると確信した。
 だってシンジがこんなにカッコ良くなる筈が無かったから。
 だってシンジを傷付けたのは紛れも無く自分だったから。
 だってシンジはもう二度と自分の前に現れる筈が無いから。
 だから…これは夢に違いなかった。
 でも夢でも良かった。
 醒めて欲しくなかった。
 ずっと夢の中に居たいと思った。
 ずっとずっとシンジにそばに居て欲しかった。
 もう二度と…
 離れたくは無かった…

「…ウソ…」

「…夢じゃないけど?…」

「…ウソだ…」

「…信用無いなぁ…」

「…ウソよぉ…」

「…本物だよ…」

「…ウソ、なんだぁ…」

「…アスカ…」

「…ウソだ、もぉん…」

 ぐしゃぐしゃに涙してシーツを手繰り寄せて、恥ずかしさで何とか隠れようとするアスカだが、視線が釘付けにされてもじもじと動く事しか出来ていなかった。

 もうどうでも良かった。
 シンジが目の前に居る。
 夢だろうと何だろうともうどうでも良かった。
 アスカにはどうしても伝えなければ行けない言葉が在ったから。
 もしシンジが自分の前に一度でも戻って来る事があったら。
 それだけは伝えなければいけないと心に決めていた。
 もう虚勢を張るのは止めたのだ。
 もう素直に生きて行こうと決めたのだ。
 だから、今のアスカを見て貰う為にも、これだけは初めに伝えなければならなかった。

 誰でもない。

 碇シンジだけに送る、たった一言に積め込んだ、

 アスカの大きな大きな思いを…





「…ただいま…アスカ…」

「……おかえり、なさい……」







 春の夕日の射し込む柔らかな空気の中、二人の影がゆっくりと近付き一つに重なったその日、

 碇シンジと言う少年の、長かった旅路が漸く終わりを告げた。





EPISODE:06

I've been all right, thank you.


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First edition:[2000/10/22]